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[Theme 02]4年目編

35

駅前に掲示されたビジュアルの前で、はるかは足を止めた。
昨シーズンの終盤戦ビジュアルと同じ場所で、ここは何かとハリアーズの宣材が登場するお馴染みのスポットでもある。

世間の夏休みとも重なるこの時期、特別なイベントを企画する球団も少なくない。
ハリアーズもその一つで、期間中限定のユニフォームを纏った選手たちが大きく映し出されている。

──間に合ってよかったね、瑛くん…!

瑛の姿を写真に収めながら、心の中で囁く。
ビジュアル用の撮影や制作は前もって行われるので、掲出される頃には映っている選手が不在、といった切ない事態も起こり得るのだ。
状況次第では瑛も危ないところだっただろう。


瑛が女性との接触に恐怖をおぼえる理由には、彼の母親のことが関係しているのではないかと、話を聞いた時からなんとなく思っていた。

彼は母親のことを、何も覚えていないという。
それは彼にとって、“触れ合い”の記憶がないということを意味するのではないかと思っていた。

もちろん、少なくとも父親である裕士は幼い瑛を抱き、手を繋いだり、頭を撫でたりしていたことだろう。
高校生という年頃でも、口は悪いにしろ仲の良さそうな様子を見ていたので、それは明らかだった。
だけど記憶に残っているような年齢では、もう一般的な母親ほどはスキンシップをとることもなくなっていたのではないかと思う。

あまり友達の多くなかった──はるかも他人のことは言えないが──瑛にとっては、“安心できる触れ合い”、特に異性とのそれが、記憶にも心にも残っていない。
そのことが、あの日突然表面化してしまったのではないかと推測した。

いくら幼い頃から見ているとはいえ、はるかはその手の分野に知見が広い訳でもないし、瑛はきちんと専門家の助言も受けているようなので、それを口に出すことはしなかった。
それでも自分自身の“心当たり”から、その可能性をどうしても否定できなかったのだ。

はるかが瑛のプロポーズを受け入れられずにいる要因、“家族”になることへの恐怖。
それははるか自身が、“世間一般的な家族”の記憶を持たないからだと、自分なりに結論付けた。

どうしてそんなものに縛られてしまうのかが自分でも分からないし、もどかしい。
だけどいくら頭で理解しようとしても、心に染み付いた恐怖は消えてはくれない。

解決する方法はただ一つ、記憶にないそれを“事実”として確かめることだけだった。
だからはるかもいつか父のことを母に尋ねてみようと思ったし、瑛にもそれが必要なんじゃないかと、そう思った。
あの日裕士に瑛と話して欲しいと伝えたのは、そんな思いとともに、二人の間に確かな親子の絆を感じたから。
自分はまだその勇気が持てないのに、傲慢だとも思ったけれど。


結果としてそんなとんでもないお節介が功を奏したのは、本当に良かったと思う。
といっても自分のおかげだとはまったく思っていなくて、やっぱり瑛自身の強さと、彼ら“家族”の愛情故だと心から感じている。

それと同時に、少しだけ胸が痛むのを、あれからずっと感じていた。


自分は今でも、瑛にとっての“母親がいない寂しさ”という潜在的な心の隙間につけ込んでいたのではないかと疑っている。


もちろん、あの頃の自分にそんな意図はなかった。
いくら大人びていても、本質はただの小学生だったのだから。

だけど彼の瞳の力に、自分だけを世界の中心に引きずり込んでくれるその手に惹かれ、その気持ちのままに彼の手をとった。
彼が自分だけを欲するというなら、その通りに自分を差し出した。
それがもっと強く瑛を自分に執着させることに繋がると、無意識に気付いていたのではないか。

だから、そんなふうに瑛の心を縛り付けた自分が彼の“家族”になることが、とうとう一生の呪いになってしまうんじゃないかと思えてならなかった。

もっと適切な距離感で彼に接することのできる女の子がいれば、彼の未来はもっと違っていたかもしれない。
誰かひとりに執着せずに、もっと多くの人に囲まれていたかもしれない。
“安心できる触れ合い”だって、いろんな人と経験できたかもしれない。

そう考えれば、瑛に恐怖を与えた本当の原因すら、自分なんじゃないかと思えてしまうのだった。



全身にとてつもない重さを感じて、目が覚めた。

クイーンサイズのベッドでひとり眠っていたはるかに覆い被さっているのは、確かめるまでもなく瑛だろう。

「おかえり…?」

どうにか腕を出して、ぽんぽんと背中を撫でると唸り声がした。
出先から戻るはるかと入れ違いのように会食の予定が入っていることを瑛は相当嘆いていたが、これは相当飲んだらしい。
外では気を張っているのか、帰り着いた途端にこうして酔いが回る傾向にあることは、はるかも身をもって実感していた。

「わり、起こした…?」
「ふふ。何キロあると思ってるの、この筋肉」

申し訳なさそうに眉を下げているのがぼんやりと見えて、苦しいのも忘れて笑った。
背中からするりと手を滑らせて、逞しい腕をさする。

すると瑛は、おもむろに身体を起こした。
圧迫感が消えて、思わず息を吐く。

「お水飲んだ?」
「ん」
「気持ち悪くない?」
「ん…」

気だるげに返事をしながら、また顔を近付けてくる。
今度ははるかを下敷きにするのではなく、肘をついて唇を重ねた。

「…なあ」
「うん?」
「やっぱはるかに“おかえり”って言われんの、幸せだわ」

唐突にそんなことを言って、ふにゃりと笑う。
はるかは驚いたまま、何も言えずただその顔を見上げていた。

「一軍に戻って、いろんな人に“おかえり”って言われて、それも結構嬉しかったけど…」
「うん…」
「俺が二軍にいても、勝っても負けても、どんなしょうもないプレーして帰ってきても、どんな時でもはるかは“おかえり”って言ってくれる。それが、すげー幸せだなって思った」

瑛ははるかを見つめる目を細めながら、噛み締めるように囁いた。

「顔には出てるけどな、いろいろと」
「う…だって、瑛くんがそうして欲しいって…!」
「うん。それがいい。もちろん反省もするけど、嬉しいんだよな。俺のせいで、はるかが一喜一憂してくれんのが」
「え…」
「最初は全部夢みたいだったけど、ああ帰ってきたんだなーって思えるようになって…」

肩口に顔を埋めながら言うから、またずしりと重さを感じる。
いつもより熱い吐息が耳元を掠めて、鼓動が早くなった。


「これが、ずっと続いて欲しいなって思う。この先何があっても、引退しても、ずっと」


呼吸すらままならないほどなのに、ひとつも苦しくなかった。
それどころか気付けば背中に腕を回して、もっと瑛の身体を抱き寄せていた。
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