[Theme 02]4年目編
34
「むむ…」
風呂上がりにリビングを覗くと、はるかが唸り声を上げていた。
その手には雑誌が開かれていて、大きく“代表49校大予想”と綴られている。
「高峰じゃん」
何をそんなに睨み付けているのかと思えば、見開き一杯に高峰の球児たちが並んでいた。
「瑛くんが2年生の時もね、こんなふうにでっかく載ってたよ」
「そりゃあ、ここはいつもそうだろ」
「でも、次の年は鷺嶋の方が手前だったよ!」
それは、個別の取材もあったのでなんとなく覚えている。
完成品が送られてきたのを一度だけパラパラとめくって、その後どこへやったかは記憶にない。
たぶん適当に捨てたんだと思う。
同じものがこの家の中──というより、はるかの荷物の中──で見つかったのには驚いたけれど。
「今年こそ、絶対鷺嶋に行って欲しい…!」
鷺嶋は瑛世代の卒業以来、再び甲子園から遠ざかってしまっている。
プロ野球と同様に投高打低の状況がさらに進んでいて、これまで以上に投手の力量が戦況に大きく影響するようになってきた。
最後の夏に立ちはだかった“秘密兵器”の姿を思い出す。
あの頃もこうして、はるかは一心に、瑛たちを応援してくれていたんだろう。
ネットの向こうで、そして海の向こうでも。
「やっぱ、夏だな」
噛み締めるように、呟く。
そしてはるかの手から雑誌を奪って、表紙にペンを走らせた。
“必勝!”
「あら、どうしたの?」
はるかは驚くでもなく、くすりと笑う。
「願掛け。鷺嶋の分と、俺の分」
「ふふ。なんでここに?絵馬じゃないんだから…」
あ、と短く声を上げた。
そのままおもむろに振り返って、瑛を見上げる。
「ん?」
「…ううん。ホームラン、打ってね」
やんわりと細められた瞳が、またたく。
「またすげー注文だな…見てろよ」
こんなにも単純に乗せられてしまうのだから、やっぱりはるかがいて良かったなと、改めて思った。
会話にすら苦労するような大音量のBGMに包まれ、選手たちがネット際に散らばる。
空調が効いているものの、アップを済ませた身体は既に汗ばんでいる。
「マジで、ヒノ焼け過ぎ!」
佑人がけらけらと笑った。
その肌は透き通るように白く、本当に野球選手かと疑いたくなる。
「イケメンはちゃんと気を使えよ」
達史までもそう言って、軽く肘をぶつけてきた。
「良いツラになったな」
「…それ、彼女にも言われました」
「マジ?さすがだなー、はるか」
「ちょっと、聞こえたらどうすんだよ…」
緊張感がなさ過ぎるほどにリラックスしているこの感じは、高校時代とはかなり違う。
一試合一試合の重みはきちんと意識しているが、常に“後がない”高校野球とは心構えが変わってくるのは当然といえるだろう。
それでも、胸に刻んだ覚悟は同じ。
「プレイ!」
約一ヶ月ぶりの一軍本拠地で、“夏”の幕が上がった。
一点ビハインドの最終回、ツーアウトで打順が回ってきたのは瑛だった。
ランナー二、三塁。
三塁は俊足が自慢の佑人。
彼ならそこそこの当たりでも、きっとホームに帰ってくれるだろう。
──あと一点、あとヒット一本。
そんな思いだったから、自分は負けたんだと今なら分かる。
そんな自分だったから、はるかにあんな顔をさせたんだとも。
母親がいないことは、“そういうもの”としか思っていなかった。
そう思っていられたのはきっと、はるかがいたからだった。
それを認めてしまえば、まるではるかを母親代わりに見ていたと言うようなもので、それは絶対に違うと言いたかった。
だけどやっぱり、それも一つの真実なんだと思う。
はじめて出会った時から、自分のことを差し置いてでも瑛に目を向けてくれるひとだった。
試合の日はいつも、そこにいてくれた。
目も当てられないほど下手くそだった頃からずっと、瑛のプレーに笑って泣いて、あるいは泣くのを我慢したりもして。
幼い子供には理解できないような言い回しで、何度だって褒めてくれた。
何度だって、そのあたたかい手で守ってくれた。
そんなはるかの存在は間違いなく、瑛の心にあった穴を、埋めてくれていた。
今、瑛の中にいるはるかという存在は、あの頃とは同じようで全然違う。
もう苦しみの涙は、与えたくない。
言葉も出ないほど、驚くような景色をもっともっと見せたい。
守ってくれたその手を、守りたい。
だからもう二度と、負けたくない。
あと一点じゃ、ヒット一本じゃ足りない。
そんなもんじゃ、到底あいつは驚いてはくれない。
誰よりこの手を、信じてくれているから。
嫌な音がして、バットが裂けた。
真っ二つになったその先と共に、打球が弾き出される。
やがて無惨な破片だけが内野に転がった。
打球は外野の頭上を飛び越えて──テラス席へと飛び込んでいった。
二、三塁のランナーがまとめて、ホームに帰っていく。
その背中を追うように瑛も、ダイヤモンドを駆け巡った。
腕にはまだ、詰まった衝撃がじんじんと残っている。
意地で切り開いた一発だった。
「おかえりヒノーッ!」
飛び出してきたチームメイトたちと、ハイタッチを交わす。
延長に備え防具を纏っていた貴文も、手を差し出してきた。
「力技だな」
ぽん、と背中を叩かれる。
「ご迷惑おかけしました。もう、負けませんから」
恐怖にも、自分にも、そして──貴文その人にも。
向けられた力強い微笑みに、瑛も応えた。
日に焼けた姿で二軍から返り咲き、お立ち台にまで登った瑛を、フィールドシートの観客たちは歓喜の眼差しで待ち受けていた。
中には瑛の選手タオルを掲げた女性の姿もある。
短く息を吐いて、一歩を踏み出した。
若干雑に見えてしまいそうだったのは否めないが、無事にハイタッチを終えてフィールドを去ることができた。
通路では監督が待ち構えていて、思わず後退りしそうになった。
「お疲れさん」
試合中と同じ、何とも感情の読めないような表情。
ほんの少し、口角が上がった。
「…ウス。ありがとうございます」
実はこれで監督は相当心配していたらしいというのを後から聞いて、少し笑ってしまった。
「むむ…」
風呂上がりにリビングを覗くと、はるかが唸り声を上げていた。
その手には雑誌が開かれていて、大きく“代表49校大予想”と綴られている。
「高峰じゃん」
何をそんなに睨み付けているのかと思えば、見開き一杯に高峰の球児たちが並んでいた。
「瑛くんが2年生の時もね、こんなふうにでっかく載ってたよ」
「そりゃあ、ここはいつもそうだろ」
「でも、次の年は鷺嶋の方が手前だったよ!」
それは、個別の取材もあったのでなんとなく覚えている。
完成品が送られてきたのを一度だけパラパラとめくって、その後どこへやったかは記憶にない。
たぶん適当に捨てたんだと思う。
同じものがこの家の中──というより、はるかの荷物の中──で見つかったのには驚いたけれど。
「今年こそ、絶対鷺嶋に行って欲しい…!」
鷺嶋は瑛世代の卒業以来、再び甲子園から遠ざかってしまっている。
プロ野球と同様に投高打低の状況がさらに進んでいて、これまで以上に投手の力量が戦況に大きく影響するようになってきた。
最後の夏に立ちはだかった“秘密兵器”の姿を思い出す。
あの頃もこうして、はるかは一心に、瑛たちを応援してくれていたんだろう。
ネットの向こうで、そして海の向こうでも。
「やっぱ、夏だな」
噛み締めるように、呟く。
そしてはるかの手から雑誌を奪って、表紙にペンを走らせた。
“必勝!”
「あら、どうしたの?」
はるかは驚くでもなく、くすりと笑う。
「願掛け。鷺嶋の分と、俺の分」
「ふふ。なんでここに?絵馬じゃないんだから…」
あ、と短く声を上げた。
そのままおもむろに振り返って、瑛を見上げる。
「ん?」
「…ううん。ホームラン、打ってね」
やんわりと細められた瞳が、またたく。
「またすげー注文だな…見てろよ」
こんなにも単純に乗せられてしまうのだから、やっぱりはるかがいて良かったなと、改めて思った。
会話にすら苦労するような大音量のBGMに包まれ、選手たちがネット際に散らばる。
空調が効いているものの、アップを済ませた身体は既に汗ばんでいる。
「マジで、ヒノ焼け過ぎ!」
佑人がけらけらと笑った。
その肌は透き通るように白く、本当に野球選手かと疑いたくなる。
「イケメンはちゃんと気を使えよ」
達史までもそう言って、軽く肘をぶつけてきた。
「良いツラになったな」
「…それ、彼女にも言われました」
「マジ?さすがだなー、はるか」
「ちょっと、聞こえたらどうすんだよ…」
緊張感がなさ過ぎるほどにリラックスしているこの感じは、高校時代とはかなり違う。
一試合一試合の重みはきちんと意識しているが、常に“後がない”高校野球とは心構えが変わってくるのは当然といえるだろう。
それでも、胸に刻んだ覚悟は同じ。
「プレイ!」
約一ヶ月ぶりの一軍本拠地で、“夏”の幕が上がった。
一点ビハインドの最終回、ツーアウトで打順が回ってきたのは瑛だった。
ランナー二、三塁。
三塁は俊足が自慢の佑人。
彼ならそこそこの当たりでも、きっとホームに帰ってくれるだろう。
──あと一点、あとヒット一本。
そんな思いだったから、自分は負けたんだと今なら分かる。
そんな自分だったから、はるかにあんな顔をさせたんだとも。
母親がいないことは、“そういうもの”としか思っていなかった。
そう思っていられたのはきっと、はるかがいたからだった。
それを認めてしまえば、まるではるかを母親代わりに見ていたと言うようなもので、それは絶対に違うと言いたかった。
だけどやっぱり、それも一つの真実なんだと思う。
はじめて出会った時から、自分のことを差し置いてでも瑛に目を向けてくれるひとだった。
試合の日はいつも、そこにいてくれた。
目も当てられないほど下手くそだった頃からずっと、瑛のプレーに笑って泣いて、あるいは泣くのを我慢したりもして。
幼い子供には理解できないような言い回しで、何度だって褒めてくれた。
何度だって、そのあたたかい手で守ってくれた。
そんなはるかの存在は間違いなく、瑛の心にあった穴を、埋めてくれていた。
今、瑛の中にいるはるかという存在は、あの頃とは同じようで全然違う。
もう苦しみの涙は、与えたくない。
言葉も出ないほど、驚くような景色をもっともっと見せたい。
守ってくれたその手を、守りたい。
だからもう二度と、負けたくない。
あと一点じゃ、ヒット一本じゃ足りない。
そんなもんじゃ、到底あいつは驚いてはくれない。
誰よりこの手を、信じてくれているから。
嫌な音がして、バットが裂けた。
真っ二つになったその先と共に、打球が弾き出される。
やがて無惨な破片だけが内野に転がった。
打球は外野の頭上を飛び越えて──テラス席へと飛び込んでいった。
二、三塁のランナーがまとめて、ホームに帰っていく。
その背中を追うように瑛も、ダイヤモンドを駆け巡った。
腕にはまだ、詰まった衝撃がじんじんと残っている。
意地で切り開いた一発だった。
「おかえりヒノーッ!」
飛び出してきたチームメイトたちと、ハイタッチを交わす。
延長に備え防具を纏っていた貴文も、手を差し出してきた。
「力技だな」
ぽん、と背中を叩かれる。
「ご迷惑おかけしました。もう、負けませんから」
恐怖にも、自分にも、そして──貴文その人にも。
向けられた力強い微笑みに、瑛も応えた。
日に焼けた姿で二軍から返り咲き、お立ち台にまで登った瑛を、フィールドシートの観客たちは歓喜の眼差しで待ち受けていた。
中には瑛の選手タオルを掲げた女性の姿もある。
短く息を吐いて、一歩を踏み出した。
若干雑に見えてしまいそうだったのは否めないが、無事にハイタッチを終えてフィールドを去ることができた。
通路では監督が待ち構えていて、思わず後退りしそうになった。
「お疲れさん」
試合中と同じ、何とも感情の読めないような表情。
ほんの少し、口角が上がった。
「…ウス。ありがとうございます」
実はこれで監督は相当心配していたらしいというのを後から聞いて、少し笑ってしまった。
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【バットが折れる】木製バットは芯を外すと折れる可能性があります。
【テラス席】ここでは、ホームランを増やすため、外野フェンスの内側(フィールド内)にせり出して設置された座席のこと。