[Theme 02]4年目編
33
二軍本拠地から自宅までは車で1時間ほどかかるが、イニング間の演出等がないので、試合を終えて帰り着く時間は一軍戦とあまり変わらない。
ナイターの試合から帰ったその日、はるかはまだ帰宅していなかった。
夜のライブ後はそのまま打ち上げがあることも少なくないようで、今夜もそんな流れだと連絡が来ていた。
車がなかったのでおそらくノンアルコールだろう。なんとなくほっとした。
荷物を置いてリビングに入ると、開け放された防音室の扉が、ふと気になった。
瑛がそこに足を踏み入れるのは、はるかのピアノを聴く時だけ。
ふたりきりの空間に響くピアノの音色を聴いたのはまだ数えるほどで、一緒に住んでいてももどかしいほど重ならないふたりの時間が切ない。
はじめてひとり、ユニットの中に入って。
いつもはるかが座っているトムソン椅子に、何となく腰を下ろしてみた。
重たい鍵盤の蓋を開く。
白と黒の鍵盤はどれも同じに見えて、何をどうすればあんなに多彩な音色を奏でられるのか見当も付かなかった。
「全然分かんねーな…」
そう呟くと、ふいに甘い香りがした。
高校時代はみずみずしい花のような爽やかな香りが印象的だったけど、いつからかそこにほんのりと甘さを漂わせるようになった、はるかの香り。
背後から白い腕が伸びて、小さな手が鍵盤を踊った。
いつの間にか扉が閉じられている。
「ただいま。弾いてみる?」
「いや、無理だろ」
「できるよ!おんなじようにやってみて」
一体何を言い出すのかと思えば。
瑛の顔を覗き込んできたその瞳には、有無を言わせぬ力があった。
ゆっくりと鍵盤の上を歩くはるかの指を、どうにか追いかけてみる。
短いフレーズを途切れ途切れに。
それを繰り返していると、なんと瑛の応援歌のメロディーが浮かび上がってきた。
「ほら、できた!」
耳元で弾んだ声に振り返ると、はるかは嬉しそうに笑っていた。
「わっ!」
抱き寄せて、膝の上に座らせる。
突然のことに、はるかは頬を染めてあたふたしている。
「重いでしょ!?瑛くんも椅子も折れちゃう!」
「いーや、軽過ぎ。なあ、なんか弾いてくれよ」
「この状態で!?それはお断りします!」
熱い視線を送っても、はるかはふるふると首を振った。
彼女なりの、ピアノに向かう姿勢があるのだろう。
潔くはるかを降ろして、すぐそばの椅子へ移動した。
はるかは少し考えて、鍵盤に手を伸ばした。
そして、その手が紡ぎはじめたメロディーに、胸が震えた。
深夜にふさわしい、やわらかで浮遊感のある音が瑛を包む。
はるか自身も音の世界に身を委ねるように、穏やかな笑みで指を運んでいた。
きっとライブやリハーサルで嫌というほどピアノを弾いてきたはずなのに、嫌な顔一つせず瑛の一言に応えてくれた。
そんな彼女の慈悲と、ピアノへの無邪気な熱が、そのまま音楽になっていくのを見ているようだ。
はるかは瑛を見ない。
両手は白と黒の世界を、自由に飛び回る。
だけどその時確かにふたりは見つめ合っていて、手をとり抱き締め合っているのだと、心の奥底で感じられる。
はるかの言う“世界で最も美しい音楽”が瑛の打球音なのだとしたら、瑛にとってのそれは間違いなく、こうしてふたりきりの世界に響くはるかのピアノだと思った。
翼を捥がれ、がんじがらめに縛り付けられた小鳥の姿は、もうここにはない。
「今度は月まで行けたかな?」
はにかむように笑って、はるかが瑛を見る。
その瞳は潤んで、きらきらと輝いていた。
「はるか」
「うん?」
「いや…やっぱ、まだいいや」
はるかがピアノで伝えてくれたものに応えるというなら、そのまま言葉にするのは違うなと、今はただ笑って誤魔化すことにした。
季節は、いよいよ夏へと移り変わろうとしていた。
「それじゃあ、はい!」
二軍マネージャーの女性が、にこにこと手を掲げている。
瑛はそこに、ぎこちないながらも、手を合わせた。
ぺし、と気の抜ける音。
「やだもー、ワンちゃんみたい!」
「笑い事じゃないんすけど…」
「あはは、でもできるじゃない!ハイタッチ!」
「でも綾乃さんだからなー…」
「どういう意味?」
隣でストレッチをしていた選手に、鋭い眼光が向けられる。
ほとんど男所帯で、体力も気力も使うこの仕事を二十年近く続けているというのだから、そこにはかなりの迫力がある。
口に出すと今度はこちらに矛先が向いてしまうに違いないので、言わないけれど。
「まあ見慣れたおばさんと全然知らない人じゃ、違うかあ」
「そうっすね」
「肯定したな?」
理不尽過ぎる問答に、顔をしかめる。
それでもこんなことに付き合ってもらっているので、文句を言う訳にはいかない。
数日前からこうしてハイタッチや、背後から肩を叩いてもらったりといったことを試しているところだった。
まったく抵抗感がない訳ではないが、そもそも以前は女性とこういったコミュニケーションをとることがなかったので、いまいちよく分からない。
それでも、反射的に恐怖を感じるようなことはなくなっている気がした。
会話を終えて打撃練習に集中していると、監督が姿を現した。
彼がこうして二軍の様子を見に来るのは、珍しいことではない。
常に選手たちの様子に目を配り、今の戦況にマッチする者がいればどんどん一軍戦に投入してみる。
そうして確実にチャンスを掴む者もいれば、その代わりに追いやられてしまう者もいる。
一軍でも二軍でも、そこは戦場だ。
「瑛」
ネット越しに声をかけられ、駆け寄っていく。
「お疲れ様です」
「お疲れさん。どうなん、その…調子は」
パフォーマンスの状況は、既にその目で確かめていることだろう。
ここで彼が言っているのは、おそらくそうではなくて。
「ハイタッチとかは、問題ないと思います。移動中も気を付けていれば、とりあえず」
本当は、そう言い切れるほどの状態ではないのだけど。
黙ったままの監督は考え込んでいるようにも、何も考えていないようにも見える。
彼は試合中のベンチでもだいたいそうだ。
「…そうか。まあ、分かったわ」
それだけ言って、監督は手を挙げて去っていった。
その背中を見送ることもなく、バッターボックスへ戻った。
今の瑛にできるのは、彼の決断を待つこと、それから目の前の試合に全力を注ぐことだけだから。
二軍本拠地から自宅までは車で1時間ほどかかるが、イニング間の演出等がないので、試合を終えて帰り着く時間は一軍戦とあまり変わらない。
ナイターの試合から帰ったその日、はるかはまだ帰宅していなかった。
夜のライブ後はそのまま打ち上げがあることも少なくないようで、今夜もそんな流れだと連絡が来ていた。
車がなかったのでおそらくノンアルコールだろう。なんとなくほっとした。
荷物を置いてリビングに入ると、開け放された防音室の扉が、ふと気になった。
瑛がそこに足を踏み入れるのは、はるかのピアノを聴く時だけ。
ふたりきりの空間に響くピアノの音色を聴いたのはまだ数えるほどで、一緒に住んでいてももどかしいほど重ならないふたりの時間が切ない。
はじめてひとり、ユニットの中に入って。
いつもはるかが座っているトムソン椅子に、何となく腰を下ろしてみた。
重たい鍵盤の蓋を開く。
白と黒の鍵盤はどれも同じに見えて、何をどうすればあんなに多彩な音色を奏でられるのか見当も付かなかった。
「全然分かんねーな…」
そう呟くと、ふいに甘い香りがした。
高校時代はみずみずしい花のような爽やかな香りが印象的だったけど、いつからかそこにほんのりと甘さを漂わせるようになった、はるかの香り。
背後から白い腕が伸びて、小さな手が鍵盤を踊った。
いつの間にか扉が閉じられている。
「ただいま。弾いてみる?」
「いや、無理だろ」
「できるよ!おんなじようにやってみて」
一体何を言い出すのかと思えば。
瑛の顔を覗き込んできたその瞳には、有無を言わせぬ力があった。
ゆっくりと鍵盤の上を歩くはるかの指を、どうにか追いかけてみる。
短いフレーズを途切れ途切れに。
それを繰り返していると、なんと瑛の応援歌のメロディーが浮かび上がってきた。
「ほら、できた!」
耳元で弾んだ声に振り返ると、はるかは嬉しそうに笑っていた。
「わっ!」
抱き寄せて、膝の上に座らせる。
突然のことに、はるかは頬を染めてあたふたしている。
「重いでしょ!?瑛くんも椅子も折れちゃう!」
「いーや、軽過ぎ。なあ、なんか弾いてくれよ」
「この状態で!?それはお断りします!」
熱い視線を送っても、はるかはふるふると首を振った。
彼女なりの、ピアノに向かう姿勢があるのだろう。
潔くはるかを降ろして、すぐそばの椅子へ移動した。
はるかは少し考えて、鍵盤に手を伸ばした。
そして、その手が紡ぎはじめたメロディーに、胸が震えた。
深夜にふさわしい、やわらかで浮遊感のある音が瑛を包む。
はるか自身も音の世界に身を委ねるように、穏やかな笑みで指を運んでいた。
きっとライブやリハーサルで嫌というほどピアノを弾いてきたはずなのに、嫌な顔一つせず瑛の一言に応えてくれた。
そんな彼女の慈悲と、ピアノへの無邪気な熱が、そのまま音楽になっていくのを見ているようだ。
はるかは瑛を見ない。
両手は白と黒の世界を、自由に飛び回る。
だけどその時確かにふたりは見つめ合っていて、手をとり抱き締め合っているのだと、心の奥底で感じられる。
はるかの言う“世界で最も美しい音楽”が瑛の打球音なのだとしたら、瑛にとってのそれは間違いなく、こうしてふたりきりの世界に響くはるかのピアノだと思った。
翼を捥がれ、がんじがらめに縛り付けられた小鳥の姿は、もうここにはない。
「今度は月まで行けたかな?」
はにかむように笑って、はるかが瑛を見る。
その瞳は潤んで、きらきらと輝いていた。
「はるか」
「うん?」
「いや…やっぱ、まだいいや」
はるかがピアノで伝えてくれたものに応えるというなら、そのまま言葉にするのは違うなと、今はただ笑って誤魔化すことにした。
季節は、いよいよ夏へと移り変わろうとしていた。
「それじゃあ、はい!」
二軍マネージャーの女性が、にこにこと手を掲げている。
瑛はそこに、ぎこちないながらも、手を合わせた。
ぺし、と気の抜ける音。
「やだもー、ワンちゃんみたい!」
「笑い事じゃないんすけど…」
「あはは、でもできるじゃない!ハイタッチ!」
「でも綾乃さんだからなー…」
「どういう意味?」
隣でストレッチをしていた選手に、鋭い眼光が向けられる。
ほとんど男所帯で、体力も気力も使うこの仕事を二十年近く続けているというのだから、そこにはかなりの迫力がある。
口に出すと今度はこちらに矛先が向いてしまうに違いないので、言わないけれど。
「まあ見慣れたおばさんと全然知らない人じゃ、違うかあ」
「そうっすね」
「肯定したな?」
理不尽過ぎる問答に、顔をしかめる。
それでもこんなことに付き合ってもらっているので、文句を言う訳にはいかない。
数日前からこうしてハイタッチや、背後から肩を叩いてもらったりといったことを試しているところだった。
まったく抵抗感がない訳ではないが、そもそも以前は女性とこういったコミュニケーションをとることがなかったので、いまいちよく分からない。
それでも、反射的に恐怖を感じるようなことはなくなっている気がした。
会話を終えて打撃練習に集中していると、監督が姿を現した。
彼がこうして二軍の様子を見に来るのは、珍しいことではない。
常に選手たちの様子に目を配り、今の戦況にマッチする者がいればどんどん一軍戦に投入してみる。
そうして確実にチャンスを掴む者もいれば、その代わりに追いやられてしまう者もいる。
一軍でも二軍でも、そこは戦場だ。
「瑛」
ネット越しに声をかけられ、駆け寄っていく。
「お疲れ様です」
「お疲れさん。どうなん、その…調子は」
パフォーマンスの状況は、既にその目で確かめていることだろう。
ここで彼が言っているのは、おそらくそうではなくて。
「ハイタッチとかは、問題ないと思います。移動中も気を付けていれば、とりあえず」
本当は、そう言い切れるほどの状態ではないのだけど。
黙ったままの監督は考え込んでいるようにも、何も考えていないようにも見える。
彼は試合中のベンチでもだいたいそうだ。
「…そうか。まあ、分かったわ」
それだけ言って、監督は手を挙げて去っていった。
その背中を見送ることもなく、バッターボックスへ戻った。
今の瑛にできるのは、彼の決断を待つこと、それから目の前の試合に全力を注ぐことだけだから。
________________
■Fly Me To The Moon/Bart Howard
【トムソン椅子】背もたれがあるタイプのピアノ椅子。