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[Theme 02]4年目編

32

瑛が裕士と話をしたのは、ほんの2、30分のことだった。

だけど球場を去る姿を見送った後には、全身に試合以上の疲労感をおぼえた。

母親のことを知ったことで、別に瑛の中で何かが変わった訳ではない。
もっと前、子供の頃に聞いていたとしたら、少しは違う受け取り方をしただろうか。
あまりそんな自分は想像ができないけれど。

それでも、写真の中の母親の姿が、頭から離れなかった。



テレビ画面は、再生終了を知らせたままで止まっている。

テーブルの上のマグカップには、はるかが観戦のお供にしていたであろうコーヒーが3分の2ほど残っている。
きっともうとっくに冷えてしまっているだろう。

はるかは静かに唇を結んだまま、身体ごと瑛に向けていた。
膝同士がくっついていて、そんな小さな触れ合いすらも心地良い。
相手がはるかなら、恐怖なんてどこにも感じない。

「聞いても、いい…?」

こんなに真っ直ぐ見つめ合っているのに、まるで物陰から恐る恐る様子を伺うような口ぶりだった。
一体何を、と聞かなければ返事もできないはずだけど、迷いなく頷く。

「それは、どんな写真だったの…?」
「えっ」
「答えたくなかったら、無理しないで。聞いてもよければ…」
「いや、いいよ。全然」

どんな写真、か。
開口一番に飛び出すのがそんな質問とは思わなくて、驚いた。
裕士に見せられてから、ずっと脳裏に浮かんだままの姿を、確かめるように言葉にしてみる。

「なんか、公園みたいな場所で赤ちゃん…まあ、俺か。抱きかかえて笑ってる写真。顔は全然似てなかったな」

凛とした、気丈な笑顔だった。
父の話を聞いたからかもしれないけれど、そこには脆さも滲んで見えた。

「ていうか俺、自分の赤ちゃんの頃の写真見たのもはじめてだったかも…」

揺れた瞳に、息を呑んだ。

二軍落ちを伝えたあの夜のように、はるかは涙を堪えるように眉を寄せた。

「はるか…泣いてもいいんだぞ、別に」
「いや…ダメだよ。ますますダメ…」
「なんで、どうしたんだよ…」
「嫌な気持ちになったら、ぶん殴っていいから」

不穏過ぎる前置きの後に、はるかは続けた。

「わたし、瑛くんのお母さんの気持ちが…ほんの少しだけ分かる気がする」
「…それは…母親と仕事の間で、悩む気持ちってこと…?」
「ううん、そうじゃない」

無造作にソファの上に置いていた手に、はるかの手が重なった。

「この手を離す瞬間の、気持ちが…」

ぽとり、そこに雫がこぼれ落ちた。

「どんなに…心が、ちぎれてしまいそうだったか…」

震える声に胸が詰まって、衝動的にはるかを抱き寄せていた。
瑛の腕の中で、はるかはしばらく肩を震わせて、やがて小さく息を吐いた。

「難しいね…本当に…」
「難しい…?」
「うん…ひとを愛することって、本当に、難しい」

その声は、耳元から心の奥にまで、すっと染み込んでいった。

「それぞれが、それぞれを、愛した結果なんだと…わたしは思ったよ」

それは誰一人、自分自身すら触れることのなかった場所にまでじわりと滲んで、ほろほろととかしていくような。

「俺にも、赤ちゃんの頃があったんだな」
「…ふふ、そりゃそうだよ」
「俺にも、母さんはいたんだな」

鼻をすする音がした。

「うん。瑛くんを抱っこしてくれたお母さんは、ちゃんといたよ」

目の前の景色がぐらぐらと揺らいだのは、そんなふうにまた、はるかが声を震わせたせいに違いない。



「記念撮影、ですか」
「そうなんです…ファンの方からのご要望も多くて…」

週末の試合前、スタッフからファンとの記念撮影に応じてくれないかという話を持ちかけられた。
サイン会と並んで行われている恒例のイベントで、瑛も一軍昇格前に何度か経験があった。

しかし、今回の二軍落ち以降はまだ一度もその場に立っていなかった。

「あの…事情は聞いてますので、無理にとは。一応、男女問わず触れるのはNGにしてるんですけど…」
「大丈夫です。やります」

この上なく気が重いけれど、瑛は頷いた。
原因も解決策も一向に見つからないならば、無理にでも慣れていくしかない。
プレー以外のことで足踏みをしているのにはもう限界だった。


キャンプの時のように、はるかがこっそり紛れ込んでいてくれたらいいのに。
シャッターの音を聞きながら、そんなことを思った。
試合を観に来るとは聞いていたけど、残念ながら長い列の中にその姿は見当たらない。

「あ…」

心臓が、一瞬で凍り付いた。

「日坂君ー!こんにちは!」

サングラスを外して笑顔を見せる女性。
並んでいた観客たちもざわざわと浮足立っている。
その反面、瑛の心はずしりと重苦しさを増した。

「調子が悪いって聞いて、居ても立っても居られなくて来ちゃいました…!応援してるんで、頑張ってくださいね!」
「…どうも」

誰のせいで、こんな。
そう思いかけてやめた。あくまでこれは自分自身の問題だ。

スタッフにスマートフォンを預けて隣に並んだ彼女は、案の定かなり距離を詰めてきた。
そればかりか、すぐそばのスタッフにすら聞こえないように囁きかけてくる。

「日坂君…あとで連絡先とか、いいですか?」

肩が触れそうになった瞬間、咄嗟に口を開いた。

「あの、すいません」
「え?」

間に入ろうとしたスタッフを視線で制する。

その時ふと思い出したのはなぜか、アメリカに渡ってすぐの、はるかの言葉だった。

「…大事な人が、いるんです」

空気がしん、と静まり返る。

「なので、度を越したファンサはちょっと…すいません」
「は…」

──ファンを大事にして欲しいとは言ったけど、明確に下心で近付こうとする方々は別です!

電話口で珍しく声を荒らげるその様子に、朝っぱらから腹を抱えて笑ったんだっけか。
そして“一緒に”戦えていることを、実感したんだった。

「“ファンサ”って…私はただのファンのつもりじゃ、」
「はい、撮れましたのでご移動お願いしまーす!」
「え、ちょっと待って!」
「すみません、次の方がお待ちですので…」

申し訳なさそうに眉を下げて言いながら、ぐいぐいとスマートフォンを押し付けるスタッフの姿に目を見張る。
彼女のようなタイプ以外にも、“困ったお客様”を大勢見てきているのかもしれない。

「“大事な人”って…」
「まだ引きずってるってこと…?オフの…」

ひそひそと話す声。
瑛にとってはこれもある意味“困ったお客様”なのだが、いつかすべてを公にするその瞬間までは、耐えるしかない。


次に並んでいたファンが隣に立ち、再びカメラを見る。

すると長い列のさらに後方で、はるかがこちらを見ていた。
丸みのあるフレームのメガネがよく似合っている。
はるかは少し呆れたように笑って、自らの頬を指さした。
“もっと笑え”ということだろうか。

「やばい、ニヤニヤしてる…」
「思い出してんのかな…」

はるかのせいでまたそんなことを囁かれてしまったので、帰ったら文句を付けてやろうと心に決めた。
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