[Theme 02]4年目編
31
“実は今日観てたんだけど、ちょっと面貸せよ”
試合が終わるとそんな物騒なメッセージが届いていて、度肝を抜かれた。
それがこんなところにいるとは思いもしない、父親からだったというのだから。
「何やってんだよ、マジで。何やってんの?」
「2回も言うことねーだろ!」
どうせただの父親なので、堂々とスタンド席で待ち合わせた。
瑛の身内として彼の顔が割れたところで、試合前に一緒にいたらしいはるかまで特定されることはさすがにないだろう。
「来るなら言えよ。断るから」
「はっはっは!やっぱりな!」
まともに話すのさえ、高校の卒業式以来だ。
3年以上経っているが、何一つ変わっていない。
中年にもなった男が、たった数年でどこか変わるとも思えないが。
「…悪かったな、情けねえことになってて」
「はるかちゃんに見捨てられなくてよかったな!ホントにあの子はいい子だよ、もっと大事にしろ!」
「うるせえな…」
着替えたばかりのシャツに、汗が滲む。
はるかは体調を崩さなかっただろうかと、思いを馳せた。
そんな瑛の横で裕士は屋根が狭くて暑いとか、駐車場が少ないから不便だとか、散々文句を垂れていた。どうせ車じゃ来ないくせに。
「お前さ、うまくやってるか」
その質問も、危うく適当に聞き流してしまうところだった。
「…は…?」
「いや、やれてねえから、こんなとこ来てんのか!ハハハ!」
「うっせーな!何なんだよマジで!」
あまりに無神経な発言に、つい声を荒らげる。
グラウンド整備をしていたスタッフがこちらを見上げて、くすくすと笑った。
もちろん本気で怒ったわけではまったくないが、どうにもばつが悪い。
「ま、こんなんでも親だからな。何でも言えよ」
「な…」
何だ急に、と突き放しかけて。
その時唐突に、ある疑問が胸の中を漂いはじめた。
今まで生きていて、たった一度も浮かばなかった疑問。
「あのさ…母さんって、どんな人だったの…?」
口に出していたのは、ほとんど無意識のことだった。
裕士は目を丸くして、少しだけ苦い顔をした。
「…見るか」
「え…」
「写真。ひとつだけとってあるんだ」
裕士がスマートフォンを取り出して、ぎこちなく指を動かす。
たった今はじめてその存在を気にしたというのに、まさか顔を見ることになるなんて。
心の準備もできないままに、画面を掲げられた。
「…なんか、普通だな」
口をついて出たのは、そんな言葉。
それもそうかもしれない。瑛にとってはまったく見覚えのない人物なのだから。
「そうだな…普通だよ。全然、普通の人だった。ただ少し…頑張り過ぎてしまうだけの」
「…」
「言っとくけど浮気とかじゃねえし、今も元気に生きてるよ。きっと」
裕士の横顔は、高校時代、ほんの数回だけ見せたような──後悔のようなものを滲ませていた。
「仕事で出会った人でな、そりゃーもう優秀な人だったよ。俺もその人もまだ若かったけど、会社に期待されてんのをすごい感じた。俺なんかと違ってな」
写真の中の凛とした顔立ちを見ていると、なんとなくしっくりくるような気がした。
「お前を産んでからも速攻復帰して、お前を社長の息子にしてやるって息巻いてたよ」
「社長って…」
「はは。まあ言葉の綾だけど、相当出世してんのは間違いないだろうなあ」
離婚してから、二人は会っていないのだろうか。
先ほどから言葉の節々にそんなことが伺える。
「…それが強がりで、ホントは全然気持ちの整理ができてなかったことに、俺は気付いてやれなかったんだよ」
どくり、鼓動が重く打ち付けた。
「やっぱりなあ…今でもそうだけど、産休明けたらハイ元通り、なんてできねえんだよ。あの人がいた会社は特にな。あの人はそれが…自分で思っていたよりずっと、つらかったんだ」
ようやく傾いてきた太陽が、肌を焦がす。
さっきまでひりひりと少し痛んだのに、その時は何も感じなくなっていた。
「母親としてちゃんとしなきゃいけないって気持ちと、仕事で早く上を目指したいって気持ちでぐちゃぐちゃになって…そんなあの人に俺は、“それでも母親でいてくれ”とは言えなかった」
横目に見遣った裕士の表情は、先ほどと変わらない。
だけどその瞳は、ゆらゆらと揺れていた。
「あの人を、“母親”という役割から解放してやることしか、俺にはできなかった」
「は…」
「だから瑛。あの人を責めないでやってくれ。お前から母ちゃん奪ったのは、俺だよ」
なんて勝手なんだろう、そう思った。
浮気が原因だとか、そういう話の方がまだすんなり受け入れられる気がした。
そんな話、どう整理をつければいいというのか。
そして何より、許しがたいと思ったのは──
「…何やってたんだよ、父さんは」
何もかも他人事のような、裕士の口ぶりだった。
「なんで…母さんに、全部一人で…!」
まるでそれは、はるかの痛みを分かってやれない瑛自身のようだったから。
「…ふ、はは」
真一文字に結ばれていた裕士の口元が、ゆっくりと弧を描いた。
「お前な、そんな単純な問題じゃねーんだぞ」
「それは…」
「けど、そうだよ。もう見てられないなんて、結局はこっちの勝手だよな」
ふいに裕士の顔がこちらを向いた。
「もっと一緒に考えて、たくさん話をして、解決していくことだってできたんじゃないか。そうすれば、お前から“母親”という存在を奪うこともなかったんじゃないか。俺はそれを、ずっと後悔してる。たぶん一生、死ぬまでそうだよ」
死ぬまで。
それこそ言葉の綾に違いないはずが、ひどく重たい響きをもって、瑛の鼓膜を揺らした。
いつの間にか硬く握りしめていた拳が、ぎりぎりと軋む。
傷でも付いたら厄介だと、慌てて力を抜いた。
「…そっか」
そう呟いて、息を吐く。
「俺は…母親がいないことは、やっぱりもう“そういうもん”としか思ってねえよ」
ここまで聞いてもやはり、それは変わらなかった。
それを伝えると裕士は、ただ黙って、目を細めた。
変わりようがないと思っていたが、目尻に刻まれた皺は、記憶よりもずいぶん増えたように見えた。
「…はるかちゃんのおかげだなあ、ホントに」
「あ?」
ここでどうしてその名前が出るのかと、つい間抜けな声がこぼれる。
「大事にしろよ。ひとりで、泣かせるんじゃねえぞ」
──正しい選択をしろって言ってんじゃねえんだ。悔いのない選択をしろ。
卒業式の日、喧騒の中で聞いた父の言葉が、胸の奥によみがえった。
“実は今日観てたんだけど、ちょっと面貸せよ”
試合が終わるとそんな物騒なメッセージが届いていて、度肝を抜かれた。
それがこんなところにいるとは思いもしない、父親からだったというのだから。
「何やってんだよ、マジで。何やってんの?」
「2回も言うことねーだろ!」
どうせただの父親なので、堂々とスタンド席で待ち合わせた。
瑛の身内として彼の顔が割れたところで、試合前に一緒にいたらしいはるかまで特定されることはさすがにないだろう。
「来るなら言えよ。断るから」
「はっはっは!やっぱりな!」
まともに話すのさえ、高校の卒業式以来だ。
3年以上経っているが、何一つ変わっていない。
中年にもなった男が、たった数年でどこか変わるとも思えないが。
「…悪かったな、情けねえことになってて」
「はるかちゃんに見捨てられなくてよかったな!ホントにあの子はいい子だよ、もっと大事にしろ!」
「うるせえな…」
着替えたばかりのシャツに、汗が滲む。
はるかは体調を崩さなかっただろうかと、思いを馳せた。
そんな瑛の横で裕士は屋根が狭くて暑いとか、駐車場が少ないから不便だとか、散々文句を垂れていた。どうせ車じゃ来ないくせに。
「お前さ、うまくやってるか」
その質問も、危うく適当に聞き流してしまうところだった。
「…は…?」
「いや、やれてねえから、こんなとこ来てんのか!ハハハ!」
「うっせーな!何なんだよマジで!」
あまりに無神経な発言に、つい声を荒らげる。
グラウンド整備をしていたスタッフがこちらを見上げて、くすくすと笑った。
もちろん本気で怒ったわけではまったくないが、どうにもばつが悪い。
「ま、こんなんでも親だからな。何でも言えよ」
「な…」
何だ急に、と突き放しかけて。
その時唐突に、ある疑問が胸の中を漂いはじめた。
今まで生きていて、たった一度も浮かばなかった疑問。
「あのさ…母さんって、どんな人だったの…?」
口に出していたのは、ほとんど無意識のことだった。
裕士は目を丸くして、少しだけ苦い顔をした。
「…見るか」
「え…」
「写真。ひとつだけとってあるんだ」
裕士がスマートフォンを取り出して、ぎこちなく指を動かす。
たった今はじめてその存在を気にしたというのに、まさか顔を見ることになるなんて。
心の準備もできないままに、画面を掲げられた。
「…なんか、普通だな」
口をついて出たのは、そんな言葉。
それもそうかもしれない。瑛にとってはまったく見覚えのない人物なのだから。
「そうだな…普通だよ。全然、普通の人だった。ただ少し…頑張り過ぎてしまうだけの」
「…」
「言っとくけど浮気とかじゃねえし、今も元気に生きてるよ。きっと」
裕士の横顔は、高校時代、ほんの数回だけ見せたような──後悔のようなものを滲ませていた。
「仕事で出会った人でな、そりゃーもう優秀な人だったよ。俺もその人もまだ若かったけど、会社に期待されてんのをすごい感じた。俺なんかと違ってな」
写真の中の凛とした顔立ちを見ていると、なんとなくしっくりくるような気がした。
「お前を産んでからも速攻復帰して、お前を社長の息子にしてやるって息巻いてたよ」
「社長って…」
「はは。まあ言葉の綾だけど、相当出世してんのは間違いないだろうなあ」
離婚してから、二人は会っていないのだろうか。
先ほどから言葉の節々にそんなことが伺える。
「…それが強がりで、ホントは全然気持ちの整理ができてなかったことに、俺は気付いてやれなかったんだよ」
どくり、鼓動が重く打ち付けた。
「やっぱりなあ…今でもそうだけど、産休明けたらハイ元通り、なんてできねえんだよ。あの人がいた会社は特にな。あの人はそれが…自分で思っていたよりずっと、つらかったんだ」
ようやく傾いてきた太陽が、肌を焦がす。
さっきまでひりひりと少し痛んだのに、その時は何も感じなくなっていた。
「母親としてちゃんとしなきゃいけないって気持ちと、仕事で早く上を目指したいって気持ちでぐちゃぐちゃになって…そんなあの人に俺は、“それでも母親でいてくれ”とは言えなかった」
横目に見遣った裕士の表情は、先ほどと変わらない。
だけどその瞳は、ゆらゆらと揺れていた。
「あの人を、“母親”という役割から解放してやることしか、俺にはできなかった」
「は…」
「だから瑛。あの人を責めないでやってくれ。お前から母ちゃん奪ったのは、俺だよ」
なんて勝手なんだろう、そう思った。
浮気が原因だとか、そういう話の方がまだすんなり受け入れられる気がした。
そんな話、どう整理をつければいいというのか。
そして何より、許しがたいと思ったのは──
「…何やってたんだよ、父さんは」
何もかも他人事のような、裕士の口ぶりだった。
「なんで…母さんに、全部一人で…!」
まるでそれは、はるかの痛みを分かってやれない瑛自身のようだったから。
「…ふ、はは」
真一文字に結ばれていた裕士の口元が、ゆっくりと弧を描いた。
「お前な、そんな単純な問題じゃねーんだぞ」
「それは…」
「けど、そうだよ。もう見てられないなんて、結局はこっちの勝手だよな」
ふいに裕士の顔がこちらを向いた。
「もっと一緒に考えて、たくさん話をして、解決していくことだってできたんじゃないか。そうすれば、お前から“母親”という存在を奪うこともなかったんじゃないか。俺はそれを、ずっと後悔してる。たぶん一生、死ぬまでそうだよ」
死ぬまで。
それこそ言葉の綾に違いないはずが、ひどく重たい響きをもって、瑛の鼓膜を揺らした。
いつの間にか硬く握りしめていた拳が、ぎりぎりと軋む。
傷でも付いたら厄介だと、慌てて力を抜いた。
「…そっか」
そう呟いて、息を吐く。
「俺は…母親がいないことは、やっぱりもう“そういうもん”としか思ってねえよ」
ここまで聞いてもやはり、それは変わらなかった。
それを伝えると裕士は、ただ黙って、目を細めた。
変わりようがないと思っていたが、目尻に刻まれた皺は、記憶よりもずいぶん増えたように見えた。
「…はるかちゃんのおかげだなあ、ホントに」
「あ?」
ここでどうしてその名前が出るのかと、つい間抜けな声がこぼれる。
「大事にしろよ。ひとりで、泣かせるんじゃねえぞ」
──正しい選択をしろって言ってんじゃねえんだ。悔いのない選択をしろ。
卒業式の日、喧騒の中で聞いた父の言葉が、胸の奥によみがえった。