[Theme 02]4年目編
29
朝晩は冬のように冷え込む日々が続いていたかと思えば、早くも夏を思わせる暑さが全土を襲った。
日本よりも過ごしやすいボストンの夏が、少しだけ恋しくなる。
今シーズンも、交流戦の幕が上がった。
昨シーズンはあまりに思い出深い甲子園という地や神岡の本拠地で、鷺嶋時代の仲間たちと相見えるという非常に熱い試合が繰り広げられていた。
はるかはドラマの撮影で忙しく、一度もこの目で見届けられなかったことが未だに悔やまれる。
今シーズンは千景や冬真もそこに加わり、ますます見逃せないカードばかりだ。
そこに瑛の姿がないことは、はるかにとってもどうしようもなく、もどかしかった。
「ホントにいいのかよ、東峰行かなくて」
今夜は東峰ドームで、拓真と千景の同級生対決が見られるという日。
瑛は複雑そうな表情で、はるかを見下ろしていた。
「うん。あとで配信観るし!」
「観るのは観るんだな…」
「さすがに見逃せないよ」
日本に戻って、約一年。
演奏の機会が格段に増え、有り難いながらも慌ただしい日々を送っているはるかにとって、その日はちょうど貴重な休日と重なっていた。
今からでも飛行機に乗れば、試合開始には十分間に合うだろう。
「でも、この目で見届けるのは、瑛くんの試合がいいな」
はるかがそう言うのを分かっていて、それを聞きたくて、あんなふうに尋ねてきたのはどう見ても明らかだった。
瑛はす、と目を細めて、満足そうに頬を緩めている。
見透かされたようでなんだか悔しいけれど、本心なので仕方がない。
「車すげーから、電車がいいかも」
「うん、そのつもりだよ。瑛くんも気をつけてね」
「ん。待ってる。行ってきます」
いってらっしゃい、と返す前に、唇をふさがれた。
今の状況に納得なんて到底できていないだろうけど、前向きに立ち向かえている様子には、ほっと胸を撫で下ろした。
青空の下にフィールドが広がる野外球場の風景は、胸が詰まるほどの懐かしさを感じさせた。
思わず大きく息を吸い込むと、芝生と土の混ざったにおいがする。
それだけでじんわりと、涙さえ浮かんでくるようだ。
本拠地ではいつも、遊撃手である瑛の守備を、そして打席に立つ背中を見られるように内野三塁側に座っている。
一応ビジター側に当たるのだが、熱心なファンはほぼ専用応援席に集中しているため、周りの観客の様子はあまり変わらない。
ホーム側ではハリアーズベンチが死角になるので、あえてビジター側を選ぶファンもいるほどだ。
ぜひとも今日もそんな位置取りで瑛のプレーを見届けたいところだが、ハリアーズの二軍本拠地にはバックネット裏の限られた部分にしか屋根がない。
野外球場での観戦が常だった高校時代から4年が経ち、炎天下における耐性が落ちていく一方で、日本の異常気象は加速している。
自らの体力のなさを恨みつつ、屋根の下に収まることを選んだ。
進んでメディアに売り込んでいくことはしなくとも、世間一般におけるはるかの知名度もそこそこのものになりつつあったので、人目を避けるという意味でもこの位置が最善ともいえる。
慣れないメガネのレンズ越しに、フィールドに姿を現した選手たちへと目を凝らした。
層の厚いハリアーズなので、二軍戦にもレベルの高い選手たちが何人も登場する。
平日の昼過ぎでも、スタンドには多くのファンが詰めかけていた。
試合開始間際となった今も、ゲートから一人、また一人と観客が入場してくる。
その中の一人──真っ黒なサングラスをかけた男性の横顔に、とてつもなく見覚えがあるような気がした。
違っていたらどうしよう、そんな不安を抱えながらも、そっと近付く。
「あの…」
「はい?えっ!!」
呼びかけに振り返った瞬間、大袈裟なほどに声を上げたその姿。
濃いレンズの先に薄っすらと見える瞳。
「やっぱり…お父さん、ですよね…!」
会うのは高校時代以来だが、ビールを片手に笑う姿は、どこからどう見ても裕士その人だった。
瑛の名前を出す訳にもいかず、まるで自分の父親のように呼んでしまったことが後から気になってしまうが、本人はまったく気にしていないようだ。以前もこんなことがあった気がする。
「ご挨拶に行けていなくて、すみません」
「いやいや!帰ってくる時も正月も電話くれたし、それだけで嬉しいよ」
「あの、今日いらっしゃることは、本人には…?」
言ってくれたら何か手土産でも用意したのに、などと思いながら小声で尋ねると、裕士は急に笑顔を強張らせた。
「はは…実はお忍びなんだよ!」
「えっ」
「いつか行くとはずっと言ってたんだけど…最初はあっちがよかっただろうしなあ。だからはるかちゃんも黙っててもらっていいかな?」
あっち、というのは本拠地のことだろう。
二軍戦だってきっと嬉しいと思うのだが、男の子はそういうものなのだろうか。
「そういうことなら、もちろんですけど…どうして?」
バックスクリーンのビジョンが試合開始前の演出に切り替わった。
もうあまり時間はなさそうだ。
「なんかな…どうも心配でねえ…」
裕士は微笑みを浮かべたまま、そう言った。
フィールドを見下ろす瞳が、す、と細められる。
それがどうにも、瑛と瓜二つに見えた。
「はるかちゃん、席は?」
「あ、わたしは向こうの…」
「指定席か!さすがだねえ。俺この辺で観るから、終わったらまた話そうか」
「はい。連絡しますね」
はるかが裕士のもとを離れ、自分の席に戻った頃、いよいよ試合がはじまった。
ハリアーズのスターティングメンバーには、瑛と同じく調整中の一軍選手のほか、昨年のドラフトで入団したルーキー、支配下登録を目指す育成選手の姿もあった。
本日の対戦相手は千景が入団した球団。
大卒で即戦力として指名を受けた千景は、ここではなく東峰で、拓真との戦いに立つ。
瑛も間違いなく、意識しているはずだ。
朝からはるかを試すようなことを聞いてきたくらいだから。
その悔しさも、彼ならきっとバネにできる。
そう信じて、守備位置に向かう姿を見守った。
朝晩は冬のように冷え込む日々が続いていたかと思えば、早くも夏を思わせる暑さが全土を襲った。
日本よりも過ごしやすいボストンの夏が、少しだけ恋しくなる。
今シーズンも、交流戦の幕が上がった。
昨シーズンはあまりに思い出深い甲子園という地や神岡の本拠地で、鷺嶋時代の仲間たちと相見えるという非常に熱い試合が繰り広げられていた。
はるかはドラマの撮影で忙しく、一度もこの目で見届けられなかったことが未だに悔やまれる。
今シーズンは千景や冬真もそこに加わり、ますます見逃せないカードばかりだ。
そこに瑛の姿がないことは、はるかにとってもどうしようもなく、もどかしかった。
「ホントにいいのかよ、東峰行かなくて」
今夜は東峰ドームで、拓真と千景の同級生対決が見られるという日。
瑛は複雑そうな表情で、はるかを見下ろしていた。
「うん。あとで配信観るし!」
「観るのは観るんだな…」
「さすがに見逃せないよ」
日本に戻って、約一年。
演奏の機会が格段に増え、有り難いながらも慌ただしい日々を送っているはるかにとって、その日はちょうど貴重な休日と重なっていた。
今からでも飛行機に乗れば、試合開始には十分間に合うだろう。
「でも、この目で見届けるのは、瑛くんの試合がいいな」
はるかがそう言うのを分かっていて、それを聞きたくて、あんなふうに尋ねてきたのはどう見ても明らかだった。
瑛はす、と目を細めて、満足そうに頬を緩めている。
見透かされたようでなんだか悔しいけれど、本心なので仕方がない。
「車すげーから、電車がいいかも」
「うん、そのつもりだよ。瑛くんも気をつけてね」
「ん。待ってる。行ってきます」
いってらっしゃい、と返す前に、唇をふさがれた。
今の状況に納得なんて到底できていないだろうけど、前向きに立ち向かえている様子には、ほっと胸を撫で下ろした。
青空の下にフィールドが広がる野外球場の風景は、胸が詰まるほどの懐かしさを感じさせた。
思わず大きく息を吸い込むと、芝生と土の混ざったにおいがする。
それだけでじんわりと、涙さえ浮かんでくるようだ。
本拠地ではいつも、遊撃手である瑛の守備を、そして打席に立つ背中を見られるように内野三塁側に座っている。
一応ビジター側に当たるのだが、熱心なファンはほぼ専用応援席に集中しているため、周りの観客の様子はあまり変わらない。
ホーム側ではハリアーズベンチが死角になるので、あえてビジター側を選ぶファンもいるほどだ。
ぜひとも今日もそんな位置取りで瑛のプレーを見届けたいところだが、ハリアーズの二軍本拠地にはバックネット裏の限られた部分にしか屋根がない。
野外球場での観戦が常だった高校時代から4年が経ち、炎天下における耐性が落ちていく一方で、日本の異常気象は加速している。
自らの体力のなさを恨みつつ、屋根の下に収まることを選んだ。
進んでメディアに売り込んでいくことはしなくとも、世間一般におけるはるかの知名度もそこそこのものになりつつあったので、人目を避けるという意味でもこの位置が最善ともいえる。
慣れないメガネのレンズ越しに、フィールドに姿を現した選手たちへと目を凝らした。
層の厚いハリアーズなので、二軍戦にもレベルの高い選手たちが何人も登場する。
平日の昼過ぎでも、スタンドには多くのファンが詰めかけていた。
試合開始間際となった今も、ゲートから一人、また一人と観客が入場してくる。
その中の一人──真っ黒なサングラスをかけた男性の横顔に、とてつもなく見覚えがあるような気がした。
違っていたらどうしよう、そんな不安を抱えながらも、そっと近付く。
「あの…」
「はい?えっ!!」
呼びかけに振り返った瞬間、大袈裟なほどに声を上げたその姿。
濃いレンズの先に薄っすらと見える瞳。
「やっぱり…お父さん、ですよね…!」
会うのは高校時代以来だが、ビールを片手に笑う姿は、どこからどう見ても裕士その人だった。
瑛の名前を出す訳にもいかず、まるで自分の父親のように呼んでしまったことが後から気になってしまうが、本人はまったく気にしていないようだ。以前もこんなことがあった気がする。
「ご挨拶に行けていなくて、すみません」
「いやいや!帰ってくる時も正月も電話くれたし、それだけで嬉しいよ」
「あの、今日いらっしゃることは、本人には…?」
言ってくれたら何か手土産でも用意したのに、などと思いながら小声で尋ねると、裕士は急に笑顔を強張らせた。
「はは…実はお忍びなんだよ!」
「えっ」
「いつか行くとはずっと言ってたんだけど…最初はあっちがよかっただろうしなあ。だからはるかちゃんも黙っててもらっていいかな?」
あっち、というのは本拠地のことだろう。
二軍戦だってきっと嬉しいと思うのだが、男の子はそういうものなのだろうか。
「そういうことなら、もちろんですけど…どうして?」
バックスクリーンのビジョンが試合開始前の演出に切り替わった。
もうあまり時間はなさそうだ。
「なんかな…どうも心配でねえ…」
裕士は微笑みを浮かべたまま、そう言った。
フィールドを見下ろす瞳が、す、と細められる。
それがどうにも、瑛と瓜二つに見えた。
「はるかちゃん、席は?」
「あ、わたしは向こうの…」
「指定席か!さすがだねえ。俺この辺で観るから、終わったらまた話そうか」
「はい。連絡しますね」
はるかが裕士のもとを離れ、自分の席に戻った頃、いよいよ試合がはじまった。
ハリアーズのスターティングメンバーには、瑛と同じく調整中の一軍選手のほか、昨年のドラフトで入団したルーキー、支配下登録を目指す育成選手の姿もあった。
本日の対戦相手は千景が入団した球団。
大卒で即戦力として指名を受けた千景は、ここではなく東峰で、拓真との戦いに立つ。
瑛も間違いなく、意識しているはずだ。
朝からはるかを試すようなことを聞いてきたくらいだから。
その悔しさも、彼ならきっとバネにできる。
そう信じて、守備位置に向かう姿を見守った。