[Theme 01]3年目編
03
念入りにストレッチをしながら、頭の中で今日の試合の流れをイメージする。
昨夜、無死三塁のチャンスで凡退してしまった場面が頭を過り、強張りかけた身体をピアノの音色がそっと和らげる。
イヤホンから聴こえるのは、高校時代からトレーニングの相棒にしてきたはるかの演奏動画。
球場には軽快なBGMが響いているけれど、やっぱり瑛が一番集中できるのはこれだった。
「お前、また目キマってねえか?」
開幕三戦目の日のように、達史が呆れた目をしていた。
イヤホンの片方を外して、少し考える。
「どっちかっていうとリラックスしてるつもりなんですけど」
「ならいいんだけど。また“口実”が必要なのかと思ったわ」
「…今回のは、そういう問題じゃないっす」
「え、やっぱそういうこと?」
数日前、晴れて“ふたりでゆっくり飲む”という実績を解除した夜。
気が緩んだのか、普段なら何ともない量で完全に出来上がり、ふわふわとした意識のままにはるかを求めてしまった。
翌朝“酔った勢いみたいなのは嫌”と怒られてしまい、一週間そういう行為を禁じられている。
はるか自身もほろ酔い気分でいつもより感じている様子は、決して満更でもなさそうに見えたのだけど。
「ていうかそれ、いつも何聴いてんの?」
自分の下であられもない声を漏らすはるかを思い起こしていると、達史の興味はイヤホンに移ったらしい。
「えっと…ピアノの動画ですね」
「やっぱジャズ?」
「あ…はい」
チャンネル名まではっきり言ってしまいたいが、確実に怒られそうなので伏せておく。
「もしかして最近話題のやつですか?まりんちゃんが推してる」
「え?」
カメラ片手に通りかかった広報スタッフが、あっさりとそれを口にする。
「Haruka Tsukishiro、でしたっけ」
あまりに安直なそのチャンネル名を、思いがけず他人の口から耳にする機会は、その後もかなり増えていった。
“最近流行ってるHaruka Tsukishiroさん、古参アピしていい?”
まりんちゃん、という名前は世間に疎い瑛でも(ギリギリ)知っていて、帰宅後にSNSのアカウントを検索してみたらこれだった。
瑛にとっては不穏なコメントとともに引用された、彼女自身の過去の投稿。
それはストリートピアノを奏でる、高校生のはるかの動画だった。
──そうか、こいつはあの時の…じゃなくて。
その動画はボカシが甘く、時折はるかの顔が見えてしまっていたことを思い出す。
強烈に嫌な予感がした。
“まりんちゃんも同じの聴いててアツい!”
“古参アピするまりんちゃんかわいい”
“この人顔出ししてないよね?ちょいちょいボカシ切れてるけど大丈夫?”
“待って、このチャンネルめっちゃ観てるんだけどこんなかわいいってこと?”
そして思い出した。
スタメンとしてはじめて迎える開幕戦の数時間前、食堂で佑人が言っていた一言。
──あ、それ前にバズってたやつじゃない?まりんちゃんがリポストしてて
その時は正直話半分で、自分が何と返したかも覚えていなかったけれど。
洗濯機へ衣類を詰め込みながら、はるかが帰ってきたらどう問い詰めてやろうかと、思いを巡らせた。
「ただいまー」
リビングの扉を開けて、ふんわりと笑ったはるかの声は呑気なものだった。
「おかえり」
「ふふ。瑛くんに出迎えてもらえるの、なんか新鮮だなあ」
嬉しそうに笑みを深めながら、一度リビングを後にする。
荷物を置いて戻ってくるはるかは、少し速足だった。
「お洗濯してくれたの!?疲れてるのに、ごめんね」
「全然。普段マジでなんにもできてねえし…」
「いいだよそんなの、でもありがと。無理はしなくていいからね!」
「うん。で、あのさあ」
今夜は比較的ラフなライブだったのか、普段着に近いコーディネートに身を包んだはるかを背中から抱き締める。
短く息を呑むのが伝わってきて、相変わらず慣れないんだなと微笑ましくもなった。
「篠原 真凛 とは、どういう関係?」
SNSを見てはじめてフルネームを知った、モデルなのかタレントなのか分からないその女性の名前を口にする。
はるかは、大した動揺もなく答えた。
「あ、まりんちゃん?なんかDMもらって。高校生の時のやつ、また引用つけてもいいですかって」
「その時も俺、はるかの口からは聞いてねーんだけど」
「あれは…お母さんに聴かせたくてね。そしたら、見てた人が動画撮ってたの。それが後のまりんちゃんだったなんてびっくりだよ…!すごい人に宣伝してもらっちゃった」
瑛の腕の中にながら“まりんちゃん”に感激しているはるかに、苛立ちを覚える。
「顔出てんだけど、いいの?」
それが声音にも出てしまって、はるかが心配そうに見上げてきた。
「うーん、まああれくらいならいいんじゃない?わたしも、最初の方は角度がまずくてピアノに顔映っちゃってた時あったし」
「…」
「どっちかっていうと、別にいらない情報だからわざわざ出してないだけで、何が何でも絶対嫌!ってわけじゃないから多少はいいかな。ライブでよく会う人とかは普通に知ってるし」
それはたぶん、彼女が恵まれた容姿を自負しているから、とかではなくて。
“どっちでもいい”というのが本音なんだと思う。
それに、ピアニストとして名を挙げていくのには、彼女なら間違いなくその実力だけで十分だが、容姿が一つの武器になるのもまた事実だろう。
瑛は項垂れて、はるかの肩口に顔を埋めた。
「あ、瑛くん…?」
「俺も、しようかな。“古参アピ”」
「え…?あ、ダメだよ!絶対!」
「“ずっと昔から俺のです”って書いてさ」
「公序良俗とファンの気持ちを考えて!」
「はー…」
やっとはるかと自分だけの世界が手に入ったと思ったのに。
それでもどこかへ羽ばたいていこうとするはるかを、喜ばしく思いつつも、やっぱり複雑だった。
念入りにストレッチをしながら、頭の中で今日の試合の流れをイメージする。
昨夜、無死三塁のチャンスで凡退してしまった場面が頭を過り、強張りかけた身体をピアノの音色がそっと和らげる。
イヤホンから聴こえるのは、高校時代からトレーニングの相棒にしてきたはるかの演奏動画。
球場には軽快なBGMが響いているけれど、やっぱり瑛が一番集中できるのはこれだった。
「お前、また目キマってねえか?」
開幕三戦目の日のように、達史が呆れた目をしていた。
イヤホンの片方を外して、少し考える。
「どっちかっていうとリラックスしてるつもりなんですけど」
「ならいいんだけど。また“口実”が必要なのかと思ったわ」
「…今回のは、そういう問題じゃないっす」
「え、やっぱそういうこと?」
数日前、晴れて“ふたりでゆっくり飲む”という実績を解除した夜。
気が緩んだのか、普段なら何ともない量で完全に出来上がり、ふわふわとした意識のままにはるかを求めてしまった。
翌朝“酔った勢いみたいなのは嫌”と怒られてしまい、一週間そういう行為を禁じられている。
はるか自身もほろ酔い気分でいつもより感じている様子は、決して満更でもなさそうに見えたのだけど。
「ていうかそれ、いつも何聴いてんの?」
自分の下であられもない声を漏らすはるかを思い起こしていると、達史の興味はイヤホンに移ったらしい。
「えっと…ピアノの動画ですね」
「やっぱジャズ?」
「あ…はい」
チャンネル名まではっきり言ってしまいたいが、確実に怒られそうなので伏せておく。
「もしかして最近話題のやつですか?まりんちゃんが推してる」
「え?」
カメラ片手に通りかかった広報スタッフが、あっさりとそれを口にする。
「Haruka Tsukishiro、でしたっけ」
あまりに安直なそのチャンネル名を、思いがけず他人の口から耳にする機会は、その後もかなり増えていった。
“最近流行ってるHaruka Tsukishiroさん、古参アピしていい?”
まりんちゃん、という名前は世間に疎い瑛でも(ギリギリ)知っていて、帰宅後にSNSのアカウントを検索してみたらこれだった。
瑛にとっては不穏なコメントとともに引用された、彼女自身の過去の投稿。
それはストリートピアノを奏でる、高校生のはるかの動画だった。
──そうか、こいつはあの時の…じゃなくて。
その動画はボカシが甘く、時折はるかの顔が見えてしまっていたことを思い出す。
強烈に嫌な予感がした。
“まりんちゃんも同じの聴いててアツい!”
“古参アピするまりんちゃんかわいい”
“この人顔出ししてないよね?ちょいちょいボカシ切れてるけど大丈夫?”
“待って、このチャンネルめっちゃ観てるんだけどこんなかわいいってこと?”
そして思い出した。
スタメンとしてはじめて迎える開幕戦の数時間前、食堂で佑人が言っていた一言。
──あ、それ前にバズってたやつじゃない?まりんちゃんがリポストしてて
その時は正直話半分で、自分が何と返したかも覚えていなかったけれど。
洗濯機へ衣類を詰め込みながら、はるかが帰ってきたらどう問い詰めてやろうかと、思いを巡らせた。
「ただいまー」
リビングの扉を開けて、ふんわりと笑ったはるかの声は呑気なものだった。
「おかえり」
「ふふ。瑛くんに出迎えてもらえるの、なんか新鮮だなあ」
嬉しそうに笑みを深めながら、一度リビングを後にする。
荷物を置いて戻ってくるはるかは、少し速足だった。
「お洗濯してくれたの!?疲れてるのに、ごめんね」
「全然。普段マジでなんにもできてねえし…」
「いいだよそんなの、でもありがと。無理はしなくていいからね!」
「うん。で、あのさあ」
今夜は比較的ラフなライブだったのか、普段着に近いコーディネートに身を包んだはるかを背中から抱き締める。
短く息を呑むのが伝わってきて、相変わらず慣れないんだなと微笑ましくもなった。
「
SNSを見てはじめてフルネームを知った、モデルなのかタレントなのか分からないその女性の名前を口にする。
はるかは、大した動揺もなく答えた。
「あ、まりんちゃん?なんかDMもらって。高校生の時のやつ、また引用つけてもいいですかって」
「その時も俺、はるかの口からは聞いてねーんだけど」
「あれは…お母さんに聴かせたくてね。そしたら、見てた人が動画撮ってたの。それが後のまりんちゃんだったなんてびっくりだよ…!すごい人に宣伝してもらっちゃった」
瑛の腕の中にながら“まりんちゃん”に感激しているはるかに、苛立ちを覚える。
「顔出てんだけど、いいの?」
それが声音にも出てしまって、はるかが心配そうに見上げてきた。
「うーん、まああれくらいならいいんじゃない?わたしも、最初の方は角度がまずくてピアノに顔映っちゃってた時あったし」
「…」
「どっちかっていうと、別にいらない情報だからわざわざ出してないだけで、何が何でも絶対嫌!ってわけじゃないから多少はいいかな。ライブでよく会う人とかは普通に知ってるし」
それはたぶん、彼女が恵まれた容姿を自負しているから、とかではなくて。
“どっちでもいい”というのが本音なんだと思う。
それに、ピアニストとして名を挙げていくのには、彼女なら間違いなくその実力だけで十分だが、容姿が一つの武器になるのもまた事実だろう。
瑛は項垂れて、はるかの肩口に顔を埋めた。
「あ、瑛くん…?」
「俺も、しようかな。“古参アピ”」
「え…?あ、ダメだよ!絶対!」
「“ずっと昔から俺のです”って書いてさ」
「公序良俗とファンの気持ちを考えて!」
「はー…」
やっとはるかと自分だけの世界が手に入ったと思ったのに。
それでもどこかへ羽ばたいていこうとするはるかを、喜ばしく思いつつも、やっぱり複雑だった。
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【無死】ノーアウト。野球ではアウトを「死」と表現したり、アウトにすることを「殺」と表現したりします。よく考えると物騒…