[Theme 02]4年目編
27
授業が終われば帰っていくクラスメイトたちと違って、まだ大き過ぎるほどのランドセルを背負った瑛が向かうのは、放課後児童クラブの教室だった。
昼間に家に家族がいない児童が、迎えが来るまでの時間を過ごす場所。
共働きの家庭が増えてきていた頃で、クラス一つ分は児童がいたような気がする。
それがどんな人たちだったのかは、まったくと言っていいほど覚えていない。
──ただひとり、彼女を除いて。
彼女は窓際でひとり、黙々と宿題をしていた。
足を揃えて座り、しゃんと背筋を伸ばしたその姿は、まだほとんど幼児のような顔ぶれの中で、かなり異質に見えた。
無意識に、吸い寄せられるように、踏み出す足が彼女のもとへ向かう。
そんな瑛の気配に気付くなり、彼女は小さな子供とは思えない穏やかさを纏って、やわらかく微笑んだのだった。
「一年生の子?」
今よりは舌足らずな喋り方だったけれど、その声もずいぶん落ち着いて聞こえた。
胸がどくどくと早鐘を打って、言葉は喉に痞えて、瑛はただ頷くことしかできなかった。
「おとなり、座る?いっしょにあそぼっか」
あんなに集中していたドリルをさっと閉じて、身体ごと瑛に向けるその姿は、その日初めて会ったというのに──ひどく懐かしい気がした。
「わたし、はるかっていうの。月城 はるか。2年生だよ」
「瑛…」
「瑛くん?きれいな名前だね」
呟くように言ったそれを、かっこいいとかかわいいとかじゃなくそう形容したのも、特別な感性だと思った。
「なにして遊ぶ?キャッチボールする?」
「キャッチボール…?」
「はるちゃん宿題おわったのー?」
彼女がおもむろにランドセルを探り出すと、遠くで遊んでいたはずの児童たちが集まってきていた。
「はるちゃんあそぼ!」
「それなら瑛くん、みんなであそぼっか」
手を伸ばしたのは、咄嗟のことだった。
「ダメ…」
「え?」
「ダメ…!はるかと、ふたりがいい」
そう言ってぎりぎりと手を握れば、彼女は目を丸くして──今になって思えば少し、嬉しそうに笑っていたような気がする。
「…そっか。ごめんね、瑛くんが慣れるまではふたりであそんでてもいい?」
「えー、ずるーい!」
「わたしもはるちゃんとあそびたいー!」
口々に文句を言う児童たちから守るように、握り返してくれた手がとても、あたたかかった。
新幹線のホームは、連休中ということもあってかかなりの人でごった返していた。
そこに選手たちの到着を待つファンの姿も加わって、改札の向こう側の景色に眩暈を覚える。
「人やべー」
前を歩く佑人がそう呟きながら、改札口に切符を差し込む。
その瞬間、けたたましいアラートが鳴って、勢い良くゲートが閉じた。
「やべっ」
「おわっ」
突然立ち止まる形となった佑人の背中に衝突する、寸でのところで踏み留まった。
そんな二人を追い抜いて、先に改札を潜り抜けようとする女性の姿。
バッグを抱えたその腕が触れそうになった瞬間、ぞわりと全身が凍り付いた。
「あ、すんません」
水底のように、佑人の声がぼんやりと響く。
そのまま女性は改札を通り、人混みの中へ消えていった。
「おーいけたわ、ヒノごめん!」
いつの間にか佑人も改札の向こうにいて、後ろから先輩に急かされるままに瑛も先へ進んだ。
ふわふわと足元が覚束ない。
「ヒノ、大丈夫か」
声をかけてきたのは、やはり貴文だった。
「伊織 さん、ちょっと」
「はーい」
「ヒノ、俺たちが横にいるから。とりあえずここを離れよう」
「すいません…」
帯同していたトレーナーと二人で、瑛の両脇を歩いてくれるようだ。
ファンの目もあるので異変を感じさせないよう、どうにか足を動かした。
「思っていたより深刻だな…」
球場に戻り、三人はミーティングルームの机に腰を下ろした。
「あれくらい全然何ともなかったんすけど…」
「この間のことが、きっかけになっちゃったかな?」
ベテラントレーナーの伊織は、心配そうに眉を下げた。
万が一のためにと話を通していてくれたのだと聞いて、ますます貴文には頭が上がらない。
「接触の可能性から100%守ってあげるのは難しいし、何より本人がしんどいだろうからねえ…一度カウンセリング受けてみる?」
「それは…すいません。少し考えさせてください」
「うん。焦らなくていいよ…あ、ごめんちょっと電話」
伊織はスマートフォンを手に、ぱたぱたと部屋を出ていく。
貴文と二人だけになったその場には、しばらく沈黙が続いた。
「…何か、原因に心当たりはないか?」
おそるおそる、といった様子で貴文が口を開く。
扇の要でもバッターボックスでも、常にどっしりと構えている姿からは想像できないほど慎重な声音だった。
「ない、ですね…マジで…あの人とも、別に何かあったわけじゃないですし」
「あの時初めて知ったって言ってたもんな。ホントにテレビ観ないんだなお前…」
「はは…」
それからまた、沈黙が広がる。
貴文はおもむろに、瑛の方へ身を乗り出した。
「ヒノ」
「はい」
「お前…親御さんは、お父さんだけって、言ってたよな…?」
思いがけない質問に、目を見張る。
「え…はい。そうですけど…」
戸惑い気味に頷くと、貴文はまた考え込むように、少しだけ首を傾げた。
配球をやや長考する時にも似た、その仕草。
「…やっぱり一度、専門家の話を聞いた方がいいかもしれないな。実はうちの子が…少し、世話になってるんだ」
「そう、だったんですか…」
「ああ。その気になったら紹介するから、いつでも言ってくれ」
「…ありがとうございます」
何とも言えない心持で俯くと、ノックの音が聞こえた。
二人が振り返えるのとほぼ同時に、扉が開かれる。
「お迎えこられたよー」
伊織がひらひらと手を振る横で、ひゅっと息を呑む声が聞こえる。
全身ガチガチに縮こまったはるかが、そこに立っていた。
震える瞳が真っ先に瑛を映して、少しだけほっとしたような面持ちになる。
「あ…あき、日坂がお世話になっております…!?」
ほぼ直角に腰を曲げながらのその声は、やっぱり震えていた。
「どうも、わざわざすいません」
「いえ…!日坂のそばにいてくださって、誠にありがとうございます…!」
「お前、なんか面白いことになってんな…」
部屋に入ってくる気はないのか、伊織が開けた扉のところに立ち尽くしたまま、貴文のことは極力視界に入れないようにしているようだ。
はるかのことだから、このシチュエーションで“推し”を享受するのは不誠実だ、とでも思っているのだろう。
ろくに目も合わせないのは逆に失礼な気がしなくもないが。
「はは。まあ、今度改めてゆっくり。カミさんも子供も会いたがってるんでね」
「うぐ…っ!」
「あ、それ言うと呼吸困難になるんでやめてやってください」
「あはは!月城さんの方が帰れなくなっちゃうね」
別に瑛も、帰れないなんてことはまったくないのだけど。
平常心じゃないのに運転をするのはよくないと言って、伊織が譲らなかったのだ。
だけどそれはやっぱり正解だったかもしれない。
はるかの姿を見ただけで、こんなにも心が落ち着いていく。
二人に見送られながら、瑛の車へと向かった。
はるかは全力で周りを警戒していたが、駐車場に人影はなかった。
はるかの車を瑛が運転することはよくあるが、その逆はかなり珍しい。
瑛が乗ってきた時のままなので、はるかの足元にはかなり隙間がある。
それを詰めるよりも先に、はるかは瑛へと手を伸ばした。
その手はそっと、瑛の手を包んだ。
やっぱりあたたかくて、やさしくて、なんだか涙さえ込み上げてくるようだった。
「帰ろうね、瑛くん」
守られていたんだと、気付いた。
きっとそれは、はじめて出会ったあの日から、ずっと。
授業が終われば帰っていくクラスメイトたちと違って、まだ大き過ぎるほどのランドセルを背負った瑛が向かうのは、放課後児童クラブの教室だった。
昼間に家に家族がいない児童が、迎えが来るまでの時間を過ごす場所。
共働きの家庭が増えてきていた頃で、クラス一つ分は児童がいたような気がする。
それがどんな人たちだったのかは、まったくと言っていいほど覚えていない。
──ただひとり、彼女を除いて。
彼女は窓際でひとり、黙々と宿題をしていた。
足を揃えて座り、しゃんと背筋を伸ばしたその姿は、まだほとんど幼児のような顔ぶれの中で、かなり異質に見えた。
無意識に、吸い寄せられるように、踏み出す足が彼女のもとへ向かう。
そんな瑛の気配に気付くなり、彼女は小さな子供とは思えない穏やかさを纏って、やわらかく微笑んだのだった。
「一年生の子?」
今よりは舌足らずな喋り方だったけれど、その声もずいぶん落ち着いて聞こえた。
胸がどくどくと早鐘を打って、言葉は喉に痞えて、瑛はただ頷くことしかできなかった。
「おとなり、座る?いっしょにあそぼっか」
あんなに集中していたドリルをさっと閉じて、身体ごと瑛に向けるその姿は、その日初めて会ったというのに──ひどく懐かしい気がした。
「わたし、はるかっていうの。月城 はるか。2年生だよ」
「瑛…」
「瑛くん?きれいな名前だね」
呟くように言ったそれを、かっこいいとかかわいいとかじゃなくそう形容したのも、特別な感性だと思った。
「なにして遊ぶ?キャッチボールする?」
「キャッチボール…?」
「はるちゃん宿題おわったのー?」
彼女がおもむろにランドセルを探り出すと、遠くで遊んでいたはずの児童たちが集まってきていた。
「はるちゃんあそぼ!」
「それなら瑛くん、みんなであそぼっか」
手を伸ばしたのは、咄嗟のことだった。
「ダメ…」
「え?」
「ダメ…!はるかと、ふたりがいい」
そう言ってぎりぎりと手を握れば、彼女は目を丸くして──今になって思えば少し、嬉しそうに笑っていたような気がする。
「…そっか。ごめんね、瑛くんが慣れるまではふたりであそんでてもいい?」
「えー、ずるーい!」
「わたしもはるちゃんとあそびたいー!」
口々に文句を言う児童たちから守るように、握り返してくれた手がとても、あたたかかった。
新幹線のホームは、連休中ということもあってかかなりの人でごった返していた。
そこに選手たちの到着を待つファンの姿も加わって、改札の向こう側の景色に眩暈を覚える。
「人やべー」
前を歩く佑人がそう呟きながら、改札口に切符を差し込む。
その瞬間、けたたましいアラートが鳴って、勢い良くゲートが閉じた。
「やべっ」
「おわっ」
突然立ち止まる形となった佑人の背中に衝突する、寸でのところで踏み留まった。
そんな二人を追い抜いて、先に改札を潜り抜けようとする女性の姿。
バッグを抱えたその腕が触れそうになった瞬間、ぞわりと全身が凍り付いた。
「あ、すんません」
水底のように、佑人の声がぼんやりと響く。
そのまま女性は改札を通り、人混みの中へ消えていった。
「おーいけたわ、ヒノごめん!」
いつの間にか佑人も改札の向こうにいて、後ろから先輩に急かされるままに瑛も先へ進んだ。
ふわふわと足元が覚束ない。
「ヒノ、大丈夫か」
声をかけてきたのは、やはり貴文だった。
「
「はーい」
「ヒノ、俺たちが横にいるから。とりあえずここを離れよう」
「すいません…」
帯同していたトレーナーと二人で、瑛の両脇を歩いてくれるようだ。
ファンの目もあるので異変を感じさせないよう、どうにか足を動かした。
「思っていたより深刻だな…」
球場に戻り、三人はミーティングルームの机に腰を下ろした。
「あれくらい全然何ともなかったんすけど…」
「この間のことが、きっかけになっちゃったかな?」
ベテラントレーナーの伊織は、心配そうに眉を下げた。
万が一のためにと話を通していてくれたのだと聞いて、ますます貴文には頭が上がらない。
「接触の可能性から100%守ってあげるのは難しいし、何より本人がしんどいだろうからねえ…一度カウンセリング受けてみる?」
「それは…すいません。少し考えさせてください」
「うん。焦らなくていいよ…あ、ごめんちょっと電話」
伊織はスマートフォンを手に、ぱたぱたと部屋を出ていく。
貴文と二人だけになったその場には、しばらく沈黙が続いた。
「…何か、原因に心当たりはないか?」
おそるおそる、といった様子で貴文が口を開く。
扇の要でもバッターボックスでも、常にどっしりと構えている姿からは想像できないほど慎重な声音だった。
「ない、ですね…マジで…あの人とも、別に何かあったわけじゃないですし」
「あの時初めて知ったって言ってたもんな。ホントにテレビ観ないんだなお前…」
「はは…」
それからまた、沈黙が広がる。
貴文はおもむろに、瑛の方へ身を乗り出した。
「ヒノ」
「はい」
「お前…親御さんは、お父さんだけって、言ってたよな…?」
思いがけない質問に、目を見張る。
「え…はい。そうですけど…」
戸惑い気味に頷くと、貴文はまた考え込むように、少しだけ首を傾げた。
配球をやや長考する時にも似た、その仕草。
「…やっぱり一度、専門家の話を聞いた方がいいかもしれないな。実はうちの子が…少し、世話になってるんだ」
「そう、だったんですか…」
「ああ。その気になったら紹介するから、いつでも言ってくれ」
「…ありがとうございます」
何とも言えない心持で俯くと、ノックの音が聞こえた。
二人が振り返えるのとほぼ同時に、扉が開かれる。
「お迎えこられたよー」
伊織がひらひらと手を振る横で、ひゅっと息を呑む声が聞こえる。
全身ガチガチに縮こまったはるかが、そこに立っていた。
震える瞳が真っ先に瑛を映して、少しだけほっとしたような面持ちになる。
「あ…あき、日坂がお世話になっております…!?」
ほぼ直角に腰を曲げながらのその声は、やっぱり震えていた。
「どうも、わざわざすいません」
「いえ…!日坂のそばにいてくださって、誠にありがとうございます…!」
「お前、なんか面白いことになってんな…」
部屋に入ってくる気はないのか、伊織が開けた扉のところに立ち尽くしたまま、貴文のことは極力視界に入れないようにしているようだ。
はるかのことだから、このシチュエーションで“推し”を享受するのは不誠実だ、とでも思っているのだろう。
ろくに目も合わせないのは逆に失礼な気がしなくもないが。
「はは。まあ、今度改めてゆっくり。カミさんも子供も会いたがってるんでね」
「うぐ…っ!」
「あ、それ言うと呼吸困難になるんでやめてやってください」
「あはは!月城さんの方が帰れなくなっちゃうね」
別に瑛も、帰れないなんてことはまったくないのだけど。
平常心じゃないのに運転をするのはよくないと言って、伊織が譲らなかったのだ。
だけどそれはやっぱり正解だったかもしれない。
はるかの姿を見ただけで、こんなにも心が落ち着いていく。
二人に見送られながら、瑛の車へと向かった。
はるかは全力で周りを警戒していたが、駐車場に人影はなかった。
はるかの車を瑛が運転することはよくあるが、その逆はかなり珍しい。
瑛が乗ってきた時のままなので、はるかの足元にはかなり隙間がある。
それを詰めるよりも先に、はるかは瑛へと手を伸ばした。
その手はそっと、瑛の手を包んだ。
やっぱりあたたかくて、やさしくて、なんだか涙さえ込み上げてくるようだった。
「帰ろうね、瑛くん」
守られていたんだと、気付いた。
きっとそれは、はじめて出会ったあの日から、ずっと。