[Theme 02]4年目編
24
目が覚めると、腕の中に閉じ込めていたはずのぬくもりがそこになかった。
寝室を出てリビングを覗くと、はるかはもう出ていくところだった。
フォーマルな装いを見るに、今日は結婚式の演奏だろうか。
「おはよう。今朝はちょっとゆっくりだね」
振り返って微笑むその表情に、きっとこれまでの瑛なら何の違和感も覚えなかっただろう。
瞳を見れば、こんなにも明らかなのに。
「…はるか」
「うん?」
近付いて手をとると、はるかは首を傾げて瑛を見上げる。
気にするな、と言うのも、苦しませてごめん、と謝るのも違う気がして。
はるかの瞳の陰りに気付いても、結局どうしてやることもできない自分がもどかしかった。
「気をつけてな」
言葉にできたのは、ただそれだけで。
それなのにはるかは、すべてを見透かし、包み込むかのようにふんわりと微笑むのだ。
「うん、ありがとう。瑛くんも気をつけていってらっしゃい」
「ん。いってらっしゃい」
いってきます、そう言って歩き出したその手を、もう一度引き寄せた。
リップが取れないようにそっと口付ける。
照れてはにかむはるかの瞳は、先ほどより少しだけ明るくなった気がした。
車を降りるなりイヤホンをつけて、車内で聴いていた曲の続きを再生する。
見慣れた通路を進んでいると、遠くに不審な男女二人組の姿が見えた。
近付いていくとどうやらカメラマンの姿もあり、これはまずいとスマートフォンを手に取る。
あからさまにイヤホンをいじるそぶりをしながら、決して一行の姿が視界に入らないよう、下を向いて画面に集中しながら通り過ぎることにした。
「わー、待って待って!」
そうはさせない、とばかりに行く手を阻んできた男。
よく見たら神岡出身の俳優、だったような気がする。
「日坂君ー!待ってー!」
彼の背後から顔を覗かせた女性の方には、やはり見覚えはなかった。
こうなってはさすがに逃げ場はないと、しぶしぶイヤホンを外す。
「…何すか」
「お忙しいとこすんません!僕ら“神岡全力チャンネル”でして、」
「出勤してくる選手に突撃インタビューやってるんですー!」
確か動画サイトに、そんなチャンネルがあったような。
ハリアーズ選手が出演している動画を、はるかがたまに観ていた覚えがあった。
いろいろと理解して、改めて気が重くなる。
ここはさっさと切り抜けてしまおうと、俳優(たぶん)の方に向き直った。
「日坂選手、昨日も見事な堅守でしたね!代打の桐谷選手は、同じ高校の先輩なんですよね?」
「あー、はい。何とかアウトにできてよかったです」
「桐谷君カッコいいですよねー!でも私は断然、日坂君推しです!」
「あはは。日坂選手、ズバリ今季はこれを頑張りたい!って思うことは何ですか?」
なんとも漠然とした質問で、つい言葉に詰まった。
しかしここで時間を食いたくはないので、まとまらない考えのまま口を開く。
「昨シーズン以上に活躍して、もっとお立ち台にも登って…最後に忘れ物を取りに行く、ことですかね」
「おおっ、それはつまり、日本一?」
「…まあ、はい」
本当はそれだけではないのだけど、今ここで口に出せるはずもなく。
うんうんと頷いている彼の姿を見る限り、どうやら十分なコメントができたようだ。
手の中に握ったままだったイヤホンを、また耳元に宛てがいながら歩き出そうとする。
「じゃあ、そういうことで…」
「日坂君、いつも音楽聴きながら球場入りしてるんですかー?」
それを阻んだのは、今度は女性の方だった。
「あ、はい」
「へー、何聴いてるんですか?」
「は?」
「日坂選手、ジャズ好きですもんね!今聴いてるのもジャズ?」
「…そうっすね」
「そうなんだー!」
女性は何やら目を輝かせて、ぐっと身を乗り出した。
「私、実はピアノが特技なんです!」
唐突にそんなことを言われたので、ただ言葉もなく呆然とする。
「小学校の時習っててー。ジャズの曲もちょっと弾けますよ!」
「…はあ…?」
「えー、ちょっと日坂君、塩過ぎー!」
その話と自分に、一体何の関係があるのか。
心底不思議に思って無意識に眉を寄せていると、女性はおかしそうに笑って小さく手を挙げた。
その手がじゃれつくように、自分の腕へと向かってくるのを感じた瞬間、ぞわりとした感覚が全身を駆け抜けた。
「え…?」
スニーカーの靴底が、キュ、と耳障りな音を立てる。
薄暗い地下通路で、その音は思いのほか大きく響いた。
女性は空を切った自分の手を、きょとんと見つめている。
咄嗟に身を翻した瑛自身も、驚いたような──怯えたような表情を浮かべていた。
「…こらこら、選手に肩パンはダメだって!日坂選手すんません!」
「え?私そんな、」
「それじゃあ日坂選手、お忙しいとこありがとうございましたー!」
やや強引に割り込んで来た彼が、視線で瑛に促す。
瑛はそのまま、足早に通路を突き進んでいった。
「ボディタッチはやめとこうね。万が一にもケガさせたら大変だしさ」
今のインタビューはお蔵入りだな、と肩を落としながら、声をかける。
予想に反して、振り返ったその表情はどこか飄々としていた。
「…別に、他の人にはやらないですよ」
「え?」
「私、日坂君はガチなんで」
瞬間、なぜだか自分までぞっとしてしまった。
「エリちゃん…」
日坂選手には後ほど謝罪に行かせてもらおうと思っているが、彼女は連れて行かない方がいいかもしれない。
どくどくと鼓動が暴れている。
不快感か、嫌悪感か、あるいはその類の感情すべてがいっぺんに押し寄せてきたような。
ロッカールームに辿り着くなり、座り込んでしまった。
「ヒノ…?」
落ち着いた声が、奥の方から聞こえた。
少しだけ、ざわざわとした胸の内が凪いでいく。
「おい、ヒノ大丈夫か?どうした?」
駆け寄ってきたその声は、先ほどより焦りをはらんでいた。
視界に移るシューズのデザインに、やはりこの人かと確信する。
「フミさん…すいません…」
「いいから、どうした?どこか痛むか?」
貴文の手が、背中に触れた。
“あの時”のような感覚は、そこにはない。
それに気付くと同時に、なんだか無性に──はるかに触れたくなった。
正確には、触れて欲しい、という方が正しいかもしれない。
「…どこも痛くないっす。ちょっとふらっときただけというか…」
「それも良くないだろ。とりあえずトレーナー呼ぶか」
「いや、あの…」
ゆっくりと顔を上げた瑛の顔を見て、外科的な何かではないと悟ったのか、貴文はゆっくりとその場に腰を下ろした。
おそらく話を聞いてくれるということなのだろう。
つくづくこの男には敵う気がしない、そんなことを思いながら、瑛は口を開いた。
目が覚めると、腕の中に閉じ込めていたはずのぬくもりがそこになかった。
寝室を出てリビングを覗くと、はるかはもう出ていくところだった。
フォーマルな装いを見るに、今日は結婚式の演奏だろうか。
「おはよう。今朝はちょっとゆっくりだね」
振り返って微笑むその表情に、きっとこれまでの瑛なら何の違和感も覚えなかっただろう。
瞳を見れば、こんなにも明らかなのに。
「…はるか」
「うん?」
近付いて手をとると、はるかは首を傾げて瑛を見上げる。
気にするな、と言うのも、苦しませてごめん、と謝るのも違う気がして。
はるかの瞳の陰りに気付いても、結局どうしてやることもできない自分がもどかしかった。
「気をつけてな」
言葉にできたのは、ただそれだけで。
それなのにはるかは、すべてを見透かし、包み込むかのようにふんわりと微笑むのだ。
「うん、ありがとう。瑛くんも気をつけていってらっしゃい」
「ん。いってらっしゃい」
いってきます、そう言って歩き出したその手を、もう一度引き寄せた。
リップが取れないようにそっと口付ける。
照れてはにかむはるかの瞳は、先ほどより少しだけ明るくなった気がした。
車を降りるなりイヤホンをつけて、車内で聴いていた曲の続きを再生する。
見慣れた通路を進んでいると、遠くに不審な男女二人組の姿が見えた。
近付いていくとどうやらカメラマンの姿もあり、これはまずいとスマートフォンを手に取る。
あからさまにイヤホンをいじるそぶりをしながら、決して一行の姿が視界に入らないよう、下を向いて画面に集中しながら通り過ぎることにした。
「わー、待って待って!」
そうはさせない、とばかりに行く手を阻んできた男。
よく見たら神岡出身の俳優、だったような気がする。
「日坂君ー!待ってー!」
彼の背後から顔を覗かせた女性の方には、やはり見覚えはなかった。
こうなってはさすがに逃げ場はないと、しぶしぶイヤホンを外す。
「…何すか」
「お忙しいとこすんません!僕ら“神岡全力チャンネル”でして、」
「出勤してくる選手に突撃インタビューやってるんですー!」
確か動画サイトに、そんなチャンネルがあったような。
ハリアーズ選手が出演している動画を、はるかがたまに観ていた覚えがあった。
いろいろと理解して、改めて気が重くなる。
ここはさっさと切り抜けてしまおうと、俳優(たぶん)の方に向き直った。
「日坂選手、昨日も見事な堅守でしたね!代打の桐谷選手は、同じ高校の先輩なんですよね?」
「あー、はい。何とかアウトにできてよかったです」
「桐谷君カッコいいですよねー!でも私は断然、日坂君推しです!」
「あはは。日坂選手、ズバリ今季はこれを頑張りたい!って思うことは何ですか?」
なんとも漠然とした質問で、つい言葉に詰まった。
しかしここで時間を食いたくはないので、まとまらない考えのまま口を開く。
「昨シーズン以上に活躍して、もっとお立ち台にも登って…最後に忘れ物を取りに行く、ことですかね」
「おおっ、それはつまり、日本一?」
「…まあ、はい」
本当はそれだけではないのだけど、今ここで口に出せるはずもなく。
うんうんと頷いている彼の姿を見る限り、どうやら十分なコメントができたようだ。
手の中に握ったままだったイヤホンを、また耳元に宛てがいながら歩き出そうとする。
「じゃあ、そういうことで…」
「日坂君、いつも音楽聴きながら球場入りしてるんですかー?」
それを阻んだのは、今度は女性の方だった。
「あ、はい」
「へー、何聴いてるんですか?」
「は?」
「日坂選手、ジャズ好きですもんね!今聴いてるのもジャズ?」
「…そうっすね」
「そうなんだー!」
女性は何やら目を輝かせて、ぐっと身を乗り出した。
「私、実はピアノが特技なんです!」
唐突にそんなことを言われたので、ただ言葉もなく呆然とする。
「小学校の時習っててー。ジャズの曲もちょっと弾けますよ!」
「…はあ…?」
「えー、ちょっと日坂君、塩過ぎー!」
その話と自分に、一体何の関係があるのか。
心底不思議に思って無意識に眉を寄せていると、女性はおかしそうに笑って小さく手を挙げた。
その手がじゃれつくように、自分の腕へと向かってくるのを感じた瞬間、ぞわりとした感覚が全身を駆け抜けた。
「え…?」
スニーカーの靴底が、キュ、と耳障りな音を立てる。
薄暗い地下通路で、その音は思いのほか大きく響いた。
女性は空を切った自分の手を、きょとんと見つめている。
咄嗟に身を翻した瑛自身も、驚いたような──怯えたような表情を浮かべていた。
「…こらこら、選手に肩パンはダメだって!日坂選手すんません!」
「え?私そんな、」
「それじゃあ日坂選手、お忙しいとこありがとうございましたー!」
やや強引に割り込んで来た彼が、視線で瑛に促す。
瑛はそのまま、足早に通路を突き進んでいった。
「ボディタッチはやめとこうね。万が一にもケガさせたら大変だしさ」
今のインタビューはお蔵入りだな、と肩を落としながら、声をかける。
予想に反して、振り返ったその表情はどこか飄々としていた。
「…別に、他の人にはやらないですよ」
「え?」
「私、日坂君はガチなんで」
瞬間、なぜだか自分までぞっとしてしまった。
「エリちゃん…」
日坂選手には後ほど謝罪に行かせてもらおうと思っているが、彼女は連れて行かない方がいいかもしれない。
どくどくと鼓動が暴れている。
不快感か、嫌悪感か、あるいはその類の感情すべてがいっぺんに押し寄せてきたような。
ロッカールームに辿り着くなり、座り込んでしまった。
「ヒノ…?」
落ち着いた声が、奥の方から聞こえた。
少しだけ、ざわざわとした胸の内が凪いでいく。
「おい、ヒノ大丈夫か?どうした?」
駆け寄ってきたその声は、先ほどより焦りをはらんでいた。
視界に移るシューズのデザインに、やはりこの人かと確信する。
「フミさん…すいません…」
「いいから、どうした?どこか痛むか?」
貴文の手が、背中に触れた。
“あの時”のような感覚は、そこにはない。
それに気付くと同時に、なんだか無性に──はるかに触れたくなった。
正確には、触れて欲しい、という方が正しいかもしれない。
「…どこも痛くないっす。ちょっとふらっときただけというか…」
「それも良くないだろ。とりあえずトレーナー呼ぶか」
「いや、あの…」
ゆっくりと顔を上げた瑛の顔を見て、外科的な何かではないと悟ったのか、貴文はゆっくりとその場に腰を下ろした。
おそらく話を聞いてくれるということなのだろう。
つくづくこの男には敵う気がしない、そんなことを思いながら、瑛は口を開いた。
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※スマホ歩きは危険です。