[Theme 01]3年目編
22
キャンプ地からふたりの家に戻り、息つく間もなく週明けにはオープン戦がスタートするというある日の夕方。
瑛は荷物を置くなりスーツ姿のまま、はるかの前で正座していた。
「瑛くん…?」
「謝罪したいことが…」
「ええ…?」
夕飯の支度をしていたらしいはるかはエプロン姿で、瑛につられるように正座をした。
きょとんとした顔が堪らなくかわいいが、抱き締めている場合ではないと拳を握る。
「はるかが、ドラマの撮影に行ってた時…俺、最低なメッセージ送ったよな…」
「あ…」
それだけでピンとくるということは、やはり彼らの散々な言い草は正しかったのだろう。
「すいませんでした」
膝の上で拳を握り締めたまま、深々と頭を下げた。
「えっ、あ、瑛くん…!」
慌てた声が降ってきて、やさしい手にそっと起こされる。
はるかはひどく不安そうな顔で、じっと言葉を選んでいるように見えた。
「あのね、瑛くん…」
はるかは小さな声で呼びかけながら、胸元でぎゅっと手を結んだ。
「わたしも、その…瑛くんとたくさん触れ合うの、好きです。ええと…そういうこと、するのも…嫌じゃ、ないです。決して」
全身が燃え上がる。
真っ赤な顔で、一生懸命に言葉を紡ぐはるかを今すぐどうにかしてしまいたくなるが、気力を総動員して堪える。
「だけど…一緒に暮らしてからの瑛くんは、なんだかそればっかりな気がしまして」
どくり、鼓動が跳ねた。
「嫌じゃなくても…頻繁過ぎるとつらいし、ご遠慮いただきたいタイミングもあるし…疲れてたり、次の日のこと考えたら、とかね。それに…」
ゆらり、星空が揺れた。
「あんなふうに言われたら…なんというか。そういうことのために一緒に住んでるみたいで、ちょっと複雑だよ…」
星空の中の自分が、どうしようもなく情けない表情を浮かべていて、腹が立った。
頭の中であの日のメンバーが、口々に“最低”と吐き捨てる。
──そうだ、最低だ。最低すぎる。
「申し訳ありません」
考えるより先に、もう一度、フローリングを叩き割る勢いで頭を下げていた。
「瑛くん…!」
「“そういうことのために一緒に住んでる”つもり、ないです。断じて」
照れ隠しや、難しい話をする時のはるかの癖がうつったような口調が、転がり出た。
「はるかという存在が第一です。はるかと同じ家で、少しでも同じ時間を過ごせることが、目的であり醍醐味です」
「わ、わあ…」
「…だけど俺、他にはるかとの隙間を埋める方法、分かんなくて」
誰よりもそばにいるのは自分なんだと、短い時間で実感できる方法は、それしかないと思っていた。
「…そっか」
ぽつり、やさしい雨のような声が降ってきた。
「ごめんね。わたしも…ほんとはちゃんとわかってるよ。気持ちに余裕がないと、よくない方に考えちゃって」
おそるおそる顔を上げると、はるかはそっと微笑んでいた。
まるでそれは聖母のようだと、大袈裟じゃなく思う。
「わたしはね、ただ何でもない話をしたり…人目に付くとこはあれだけど、たまにはのんびりお散歩したり…そういうのに、憧れてたよ」
穏やかな声が、胸に降り積もっていく。
「やっとそういう、何気ない時間を一緒に過ごせるようになったから。けど、そういう時間もあんまりたくさんはないから、できるだけその…正気でいたいなって…」
「…正気って?」
「う…あ、あの…そういうことして頭回んなくなってると、あっという間に時間が過ぎちゃうから…!その後なんにもできないし…っ」
気付いたら、そのいとしい存在を抱き締めていた。
「わ…」
「ごめん。ホントにごめん」
肩口に顔を埋めて、繰り返す。
「俺、普通に正気だから、気付いてやれなかった」
「ええっ!?やめて…!そこはあやふやであってよ…!」
「それはたぶん無理。もったいなさすぎ」
そう言い返して、はっとした。
その“もったいない”という気持ちこそが、はるかの抱えているものに近いのかもしれない──はるかは決して“最中”のことだけを言っているのではないのだけど──。
「…そうだよな。今までろくにしてやれなかったこと、やっとできるんだよな」
朝も夜も、土日も平日もなしに、野球だけをやっていたあの頃。
それに何一つ嫌な顔をしないどころか、全力で応援してくれていたはるか。
今だって世間一般のそれとはかけ離れた生活リズムだけど、それでも同じ家に暮らしている分、共有できる時間は格段に増えた。
なのにそれを尽く、身体を求めあう行為にばかり持っていかれたのでは、不満に思うのも当然だろう。
「無理に何かしようとしてくれなくていいの。シーズン中は自分のことだけ考えて欲しい。ただ、そういうことの頻度はご配慮くださいということ…」
瑛がこんな有様でも、はるかの発言は献身的で、つくづく罪悪感が募った。
「それとその…これはすごく都合のいい要望だなって、自分でも思うんだけど…」
「うん…?」
それまで穏やかな表情をしていたはるかが、またふいに頬を染めた。
その色はみるみるうちに顔中に広がる。
はるかはそれを隠すように、瑛の胸元に顔を埋めた。
「だからって、全然しなくなるのは…寂しい、です…」
再び、全身がかっと熱くなった。
今度はもう、どうしたってやり過ごせる気がしない。
「あの、はるかさん…」
「え…?」
「言われたばっかなのに、悪いんだけど…」
はるかがおずおずと顔を上げる。
同じ温度の瞳が、そこにあった。
「ん…大丈夫、です…」
よそよそしい会話に笑い合って、唇を重ねた。
「え、これで合ってる…?」
リビングに差し込んでいた夕陽が、すっかり水平線の向こうに消えていった後。
瑛ははるかのエプロンを着けて、フライパンを握っていた。
「うん!めちゃくちゃ上手だよ!」
フライパンを覗くはるかは、少し掠れた声を弾ませた。
瑛が料理というものに挑戦したのは、ほとんどこれがはじめてだった。
高校でも球団でも寮の部屋にキッチンはなかったから、無理もないだろう。
──いや、寮を出てこの家に移り住んだ時点で、そんな言い訳はとっくに意味を失っていたんだ。
「でも、なんで急に…?」
てきぱきと皿を用意しながら、はるかが瑛を見上げる。
「…こういうの、俺もできるようになったら、もっと時間できるかなって」
下準備も帰宅前にはるかが済ませていたし、今やっている工程も確実にはるかがやった方が早いというのは明らかだけど。
練習すればきっと、はるかに任せきりという現状は打開できるだろう。
「ありがとう。すっごく嬉しい…!」
はるかは頬を緩め、きらきらと瞳を揺らした。
「…こういう時間、たくさん見つけていこうね」
そう言って目を細める横顔を見ていると、ふたりにとって大切な何かを、少しずつ分かっていくような気がした。
キャンプ地からふたりの家に戻り、息つく間もなく週明けにはオープン戦がスタートするというある日の夕方。
瑛は荷物を置くなりスーツ姿のまま、はるかの前で正座していた。
「瑛くん…?」
「謝罪したいことが…」
「ええ…?」
夕飯の支度をしていたらしいはるかはエプロン姿で、瑛につられるように正座をした。
きょとんとした顔が堪らなくかわいいが、抱き締めている場合ではないと拳を握る。
「はるかが、ドラマの撮影に行ってた時…俺、最低なメッセージ送ったよな…」
「あ…」
それだけでピンとくるということは、やはり彼らの散々な言い草は正しかったのだろう。
「すいませんでした」
膝の上で拳を握り締めたまま、深々と頭を下げた。
「えっ、あ、瑛くん…!」
慌てた声が降ってきて、やさしい手にそっと起こされる。
はるかはひどく不安そうな顔で、じっと言葉を選んでいるように見えた。
「あのね、瑛くん…」
はるかは小さな声で呼びかけながら、胸元でぎゅっと手を結んだ。
「わたしも、その…瑛くんとたくさん触れ合うの、好きです。ええと…そういうこと、するのも…嫌じゃ、ないです。決して」
全身が燃え上がる。
真っ赤な顔で、一生懸命に言葉を紡ぐはるかを今すぐどうにかしてしまいたくなるが、気力を総動員して堪える。
「だけど…一緒に暮らしてからの瑛くんは、なんだかそればっかりな気がしまして」
どくり、鼓動が跳ねた。
「嫌じゃなくても…頻繁過ぎるとつらいし、ご遠慮いただきたいタイミングもあるし…疲れてたり、次の日のこと考えたら、とかね。それに…」
ゆらり、星空が揺れた。
「あんなふうに言われたら…なんというか。そういうことのために一緒に住んでるみたいで、ちょっと複雑だよ…」
星空の中の自分が、どうしようもなく情けない表情を浮かべていて、腹が立った。
頭の中であの日のメンバーが、口々に“最低”と吐き捨てる。
──そうだ、最低だ。最低すぎる。
「申し訳ありません」
考えるより先に、もう一度、フローリングを叩き割る勢いで頭を下げていた。
「瑛くん…!」
「“そういうことのために一緒に住んでる”つもり、ないです。断じて」
照れ隠しや、難しい話をする時のはるかの癖がうつったような口調が、転がり出た。
「はるかという存在が第一です。はるかと同じ家で、少しでも同じ時間を過ごせることが、目的であり醍醐味です」
「わ、わあ…」
「…だけど俺、他にはるかとの隙間を埋める方法、分かんなくて」
誰よりもそばにいるのは自分なんだと、短い時間で実感できる方法は、それしかないと思っていた。
「…そっか」
ぽつり、やさしい雨のような声が降ってきた。
「ごめんね。わたしも…ほんとはちゃんとわかってるよ。気持ちに余裕がないと、よくない方に考えちゃって」
おそるおそる顔を上げると、はるかはそっと微笑んでいた。
まるでそれは聖母のようだと、大袈裟じゃなく思う。
「わたしはね、ただ何でもない話をしたり…人目に付くとこはあれだけど、たまにはのんびりお散歩したり…そういうのに、憧れてたよ」
穏やかな声が、胸に降り積もっていく。
「やっとそういう、何気ない時間を一緒に過ごせるようになったから。けど、そういう時間もあんまりたくさんはないから、できるだけその…正気でいたいなって…」
「…正気って?」
「う…あ、あの…そういうことして頭回んなくなってると、あっという間に時間が過ぎちゃうから…!その後なんにもできないし…っ」
気付いたら、そのいとしい存在を抱き締めていた。
「わ…」
「ごめん。ホントにごめん」
肩口に顔を埋めて、繰り返す。
「俺、普通に正気だから、気付いてやれなかった」
「ええっ!?やめて…!そこはあやふやであってよ…!」
「それはたぶん無理。もったいなさすぎ」
そう言い返して、はっとした。
その“もったいない”という気持ちこそが、はるかの抱えているものに近いのかもしれない──はるかは決して“最中”のことだけを言っているのではないのだけど──。
「…そうだよな。今までろくにしてやれなかったこと、やっとできるんだよな」
朝も夜も、土日も平日もなしに、野球だけをやっていたあの頃。
それに何一つ嫌な顔をしないどころか、全力で応援してくれていたはるか。
今だって世間一般のそれとはかけ離れた生活リズムだけど、それでも同じ家に暮らしている分、共有できる時間は格段に増えた。
なのにそれを尽く、身体を求めあう行為にばかり持っていかれたのでは、不満に思うのも当然だろう。
「無理に何かしようとしてくれなくていいの。シーズン中は自分のことだけ考えて欲しい。ただ、そういうことの頻度はご配慮くださいということ…」
瑛がこんな有様でも、はるかの発言は献身的で、つくづく罪悪感が募った。
「それとその…これはすごく都合のいい要望だなって、自分でも思うんだけど…」
「うん…?」
それまで穏やかな表情をしていたはるかが、またふいに頬を染めた。
その色はみるみるうちに顔中に広がる。
はるかはそれを隠すように、瑛の胸元に顔を埋めた。
「だからって、全然しなくなるのは…寂しい、です…」
再び、全身がかっと熱くなった。
今度はもう、どうしたってやり過ごせる気がしない。
「あの、はるかさん…」
「え…?」
「言われたばっかなのに、悪いんだけど…」
はるかがおずおずと顔を上げる。
同じ温度の瞳が、そこにあった。
「ん…大丈夫、です…」
よそよそしい会話に笑い合って、唇を重ねた。
「え、これで合ってる…?」
リビングに差し込んでいた夕陽が、すっかり水平線の向こうに消えていった後。
瑛ははるかのエプロンを着けて、フライパンを握っていた。
「うん!めちゃくちゃ上手だよ!」
フライパンを覗くはるかは、少し掠れた声を弾ませた。
瑛が料理というものに挑戦したのは、ほとんどこれがはじめてだった。
高校でも球団でも寮の部屋にキッチンはなかったから、無理もないだろう。
──いや、寮を出てこの家に移り住んだ時点で、そんな言い訳はとっくに意味を失っていたんだ。
「でも、なんで急に…?」
てきぱきと皿を用意しながら、はるかが瑛を見上げる。
「…こういうの、俺もできるようになったら、もっと時間できるかなって」
下準備も帰宅前にはるかが済ませていたし、今やっている工程も確実にはるかがやった方が早いというのは明らかだけど。
練習すればきっと、はるかに任せきりという現状は打開できるだろう。
「ありがとう。すっごく嬉しい…!」
はるかは頬を緩め、きらきらと瞳を揺らした。
「…こういう時間、たくさん見つけていこうね」
そう言って目を細める横顔を見ていると、ふたりにとって大切な何かを、少しずつ分かっていくような気がした。