[Theme 01]3年目編
19
「…部屋で、ゆっくり話そう。ケーキも、残ったら包んでもらえるって言ってたし」
ガラガラと世界が崩れていくような感覚だったけれど、案外落ち着いてそう声をかけられたのは、その涙が“拒絶”を現しているのではないことだけはなんとなく分かったからか。
なんとか涙は引いたものの、明らかに目元が赤いはるかを連れて、花束を片手に個室を出るとスタッフたちがにこやかに拍手で出迎えた。
まさかこれで“失敗”しているだなんて思いもしないのだろう。
もはや苦笑いするしかなかった。
はるかをバスルームへと見送った頃、コンシェルジュが箱に入れたケーキを持ってきてくれた。
「おめでとうございます」
「あ…どうも…」
「発表されるまでは口外いたしませんので、ご安心ください」
ぜひともそうして欲しい。
なんせ“発表”は、まだ遠い先の話になりそうだから。
瑛もシャワーを浴びて、バスルームを出るとはるかは花束を花瓶に活けていた。
心底大切そうなその手つきに、思わずほっとした。
「はるか」
振り返った顔はまだ、思い詰めたように曇っていた。
「ケーキ、冷蔵庫入れてるから。腹減ったら食おう」
「うん…」
「…はるか。こっち来て」
大きなソファに腰を下ろして腕を広げると、はるかは素直に身を寄せてくれた。
そっと抱き締めると、小さく鼻をすする音が聞こえる。
今は無理に話を聞こうとしない方がいいだろうか。
瑛がそう思った一方で、はるかは自分から口を開いた。
「わたし…瑛くんと、結婚したくないわけじゃない。それだけは、誤解しないで欲しい」
ふっと、肩の力が抜け落ちる。
なんとなく分かっていたけれど、はるかの言葉で確かめられて、心の底から安堵した。
「…でもね」
続く言葉に、再び緊張感が走る。
そうだ、理解できていなかったはるかの気持ちを、ちゃんと聞かなくては。
「怖いんだ」
それは、はるかと再会してすぐの体育祭の日、旧館の理科室で聞いた声に似ていた。
「結婚して…“家族”になることが、怖い」
「…それは父さんや、おじいさんおばあさんのことがあったから…?」
結論を急いではいけないと思っていても、つい口を挟んでしまう。
あの頃の方がまだ上手く話を聞けていたんじゃないかと自己嫌悪に陥りかけた。
「それも、あると思うよ」
それでもはるかは嫌な顔もせず、続けてくれた。
「わたしは、“家族”というものを知らなすぎる」
瑛と同じ、幼い頃に片方の親を失ったはるか。
物心つく前に離婚してしまった瑛の場合と違って、おぼろげながら“父親の記憶”自体は存在するのだけど、それがかえって“いない”ということを意識させるのかもしれない。
愛する人を失った母親の姿を、幼い頃からずっと見てきた。
そんな母親も、自分の前から姿を消した。
父方の祖父母だってとてもよくしてくれたと思っているし、高校卒業間際には母とも一緒に暮らすことができた。
だけどそれが、世間一般的な“家族”の形とは程遠いものだということは、紛れもない事実だった。
そんな自分に、“家族”をつくれるのか。
愛する人を、幸せにできるのか。
それは誰もが恋に恋するような年頃から、ずっと胸の底に抱えてきた思いだった。
「…だけど、そんな自信、誰だってないだろ。俺も父さんと二人だったし。それに俺は、はるかがいればそれで…」
「うん。それは…わかってきた、なんとなく。別に両親ふたりともいたって、みんな何かしら悩みを抱えていたりするんだろうし。瑛くんとなら、大丈夫って…そんな気もしてたよ」
してた、過去形のその言葉が胸にひっかかった。
「わたしには…“家族”になるにはきっと瑛くんしか、いないよ。だけど…瑛くんにとってそれがわたしでいいのか。それがいちばん不安で、怖いの」
──そんなの、決まってる。
だけど瑛がそう言ったところで、はるかの答えが変わらないことは、その瞳を見ていれば明らかだった。
「もしもわたしがアメリカに行かなかったら、なんて話。甲子園の時にしたよね」
それは忘れもしない、はるかがようやく瑛と“同じところ”まで来てくれたと確信した日。
──俺は最初から、はるかが欲しかったよ
その言葉に、はるかは確かに喜びの涙を流してくれたはずだった。
「それなら、そもそも出会っていなかったら?」
「…え…?」
「はじめからわたしと出会っていなかったら、瑛くんはもっと…しがらみのない人生だったんじゃないかなって」
二度も、自分勝手な約束で縛り付けて、瑛をひとりにした。
そのくせそばにいても、プロ野球選手としての瑛を、すべてを懸けて支えることなんてできない。
瑛のそばでピアノを弾くことが、何より一番大切なことだから。
芸能界で脚光を浴びるような存在になることも、できないし、望まない。
それで瑛のそばにいられなくなるのは違うと思ったから。
そんな自分はこの先、瑛にとって足枷にしかならないんじゃないか。
今の、これからの瑛にふさわしい自分にはきっとなれない──そんな自分と結婚することが、いよいよ瑛の人生を縛る“呪い”になってしまうんじゃないか。
そして、そんな自分を、瑛はこの先もずっと愛してくれるだろうか。
「そう思うと怖くて仕方ない。瑛くんが、わたしの前からいなくなってしまうことが。そしたらわたしは、どうなっちゃうんだろうって」
「…」
「やっぱり何もかも中途半端なのがいけないのかな…やっぱりもっと、表に出るような仕事頑張ってみようかな…」
「はるか」
瑛は深く、息をついた。
「つまりはるかは…自分が俺の奥さんとしてふさわしいかどうかを、気にしてるってこと?」
「えっと…まあ平たく言えば、そうなるかな…?」
「そっか」
少しだけ腕を緩めて、はるかと向き合うように姿勢を動かす。
大好きなこの瞳が、不安そうに揺れているのに、どうして気付いてあげられなかったんだろう。
「わかった」
「え…」
「今の話、一個ずつ突っ込み入れていきたいとこなんだけど。今それしても、安心できないだろうから」
揺れる瞳を、真っ直ぐに見つめた。
「俺がどれだけ、はるかだけを愛しているか。一年かけて分からせてやる」
小さな手をとり、ぎゅっと指を絡める。
「ついでに日本一でもオマケにつけてやるよ。だから、待ってろ」
そう言って微笑むと、はるかの瞳からまた、涙があふれた。
──今日は泣かせてばかりだな。
だけどそれは、その日見たどの涙とも違う。
「ありがとう。瑛くん…ごめんね。ありがとう…」
「俺も…ごめん。いろいろ、勝手すぎた」
「ううん…」
もう一度強く抱き締めると、はるかも腕を回してくれた。
抱き締め合うふたりの関係は、もう少しこのまま。
来シーズンは完膚なきまでに暴れてやろうと、心に誓った。
「…部屋で、ゆっくり話そう。ケーキも、残ったら包んでもらえるって言ってたし」
ガラガラと世界が崩れていくような感覚だったけれど、案外落ち着いてそう声をかけられたのは、その涙が“拒絶”を現しているのではないことだけはなんとなく分かったからか。
なんとか涙は引いたものの、明らかに目元が赤いはるかを連れて、花束を片手に個室を出るとスタッフたちがにこやかに拍手で出迎えた。
まさかこれで“失敗”しているだなんて思いもしないのだろう。
もはや苦笑いするしかなかった。
はるかをバスルームへと見送った頃、コンシェルジュが箱に入れたケーキを持ってきてくれた。
「おめでとうございます」
「あ…どうも…」
「発表されるまでは口外いたしませんので、ご安心ください」
ぜひともそうして欲しい。
なんせ“発表”は、まだ遠い先の話になりそうだから。
瑛もシャワーを浴びて、バスルームを出るとはるかは花束を花瓶に活けていた。
心底大切そうなその手つきに、思わずほっとした。
「はるか」
振り返った顔はまだ、思い詰めたように曇っていた。
「ケーキ、冷蔵庫入れてるから。腹減ったら食おう」
「うん…」
「…はるか。こっち来て」
大きなソファに腰を下ろして腕を広げると、はるかは素直に身を寄せてくれた。
そっと抱き締めると、小さく鼻をすする音が聞こえる。
今は無理に話を聞こうとしない方がいいだろうか。
瑛がそう思った一方で、はるかは自分から口を開いた。
「わたし…瑛くんと、結婚したくないわけじゃない。それだけは、誤解しないで欲しい」
ふっと、肩の力が抜け落ちる。
なんとなく分かっていたけれど、はるかの言葉で確かめられて、心の底から安堵した。
「…でもね」
続く言葉に、再び緊張感が走る。
そうだ、理解できていなかったはるかの気持ちを、ちゃんと聞かなくては。
「怖いんだ」
それは、はるかと再会してすぐの体育祭の日、旧館の理科室で聞いた声に似ていた。
「結婚して…“家族”になることが、怖い」
「…それは父さんや、おじいさんおばあさんのことがあったから…?」
結論を急いではいけないと思っていても、つい口を挟んでしまう。
あの頃の方がまだ上手く話を聞けていたんじゃないかと自己嫌悪に陥りかけた。
「それも、あると思うよ」
それでもはるかは嫌な顔もせず、続けてくれた。
「わたしは、“家族”というものを知らなすぎる」
瑛と同じ、幼い頃に片方の親を失ったはるか。
物心つく前に離婚してしまった瑛の場合と違って、おぼろげながら“父親の記憶”自体は存在するのだけど、それがかえって“いない”ということを意識させるのかもしれない。
愛する人を失った母親の姿を、幼い頃からずっと見てきた。
そんな母親も、自分の前から姿を消した。
父方の祖父母だってとてもよくしてくれたと思っているし、高校卒業間際には母とも一緒に暮らすことができた。
だけどそれが、世間一般的な“家族”の形とは程遠いものだということは、紛れもない事実だった。
そんな自分に、“家族”をつくれるのか。
愛する人を、幸せにできるのか。
それは誰もが恋に恋するような年頃から、ずっと胸の底に抱えてきた思いだった。
「…だけど、そんな自信、誰だってないだろ。俺も父さんと二人だったし。それに俺は、はるかがいればそれで…」
「うん。それは…わかってきた、なんとなく。別に両親ふたりともいたって、みんな何かしら悩みを抱えていたりするんだろうし。瑛くんとなら、大丈夫って…そんな気もしてたよ」
してた、過去形のその言葉が胸にひっかかった。
「わたしには…“家族”になるにはきっと瑛くんしか、いないよ。だけど…瑛くんにとってそれがわたしでいいのか。それがいちばん不安で、怖いの」
──そんなの、決まってる。
だけど瑛がそう言ったところで、はるかの答えが変わらないことは、その瞳を見ていれば明らかだった。
「もしもわたしがアメリカに行かなかったら、なんて話。甲子園の時にしたよね」
それは忘れもしない、はるかがようやく瑛と“同じところ”まで来てくれたと確信した日。
──俺は最初から、はるかが欲しかったよ
その言葉に、はるかは確かに喜びの涙を流してくれたはずだった。
「それなら、そもそも出会っていなかったら?」
「…え…?」
「はじめからわたしと出会っていなかったら、瑛くんはもっと…しがらみのない人生だったんじゃないかなって」
二度も、自分勝手な約束で縛り付けて、瑛をひとりにした。
そのくせそばにいても、プロ野球選手としての瑛を、すべてを懸けて支えることなんてできない。
瑛のそばでピアノを弾くことが、何より一番大切なことだから。
芸能界で脚光を浴びるような存在になることも、できないし、望まない。
それで瑛のそばにいられなくなるのは違うと思ったから。
そんな自分はこの先、瑛にとって足枷にしかならないんじゃないか。
今の、これからの瑛にふさわしい自分にはきっとなれない──そんな自分と結婚することが、いよいよ瑛の人生を縛る“呪い”になってしまうんじゃないか。
そして、そんな自分を、瑛はこの先もずっと愛してくれるだろうか。
「そう思うと怖くて仕方ない。瑛くんが、わたしの前からいなくなってしまうことが。そしたらわたしは、どうなっちゃうんだろうって」
「…」
「やっぱり何もかも中途半端なのがいけないのかな…やっぱりもっと、表に出るような仕事頑張ってみようかな…」
「はるか」
瑛は深く、息をついた。
「つまりはるかは…自分が俺の奥さんとしてふさわしいかどうかを、気にしてるってこと?」
「えっと…まあ平たく言えば、そうなるかな…?」
「そっか」
少しだけ腕を緩めて、はるかと向き合うように姿勢を動かす。
大好きなこの瞳が、不安そうに揺れているのに、どうして気付いてあげられなかったんだろう。
「わかった」
「え…」
「今の話、一個ずつ突っ込み入れていきたいとこなんだけど。今それしても、安心できないだろうから」
揺れる瞳を、真っ直ぐに見つめた。
「俺がどれだけ、はるかだけを愛しているか。一年かけて分からせてやる」
小さな手をとり、ぎゅっと指を絡める。
「ついでに日本一でもオマケにつけてやるよ。だから、待ってろ」
そう言って微笑むと、はるかの瞳からまた、涙があふれた。
──今日は泣かせてばかりだな。
だけどそれは、その日見たどの涙とも違う。
「ありがとう。瑛くん…ごめんね。ありがとう…」
「俺も…ごめん。いろいろ、勝手すぎた」
「ううん…」
もう一度強く抱き締めると、はるかも腕を回してくれた。
抱き締め合うふたりの関係は、もう少しこのまま。
来シーズンは完膚なきまでに暴れてやろうと、心に誓った。