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[Theme 01]3年目編

02

「おかえりなさい!」

玄関の扉を開くと、リビングからエプロン姿のはるかが顔を覗かせた。

そのままこちらへ歩み寄るその視線が、瑛の出で立ちをまじまじと眺める。

遠征先からの帰宅なので、纏っているのはカジュアル寄りのスーツ。
いつもは途中で外してくるネクタイやジャケットも、急いでいたのでそのままだ。

「…窮屈だけど、はるかが喜んでくれるからなあ」
「えっ!?バレてる…?」
「そんなに好きなら、このままする?」

屈みこんでぐっと距離を縮めれば、煮物の匂いが鼻をかすめた。

「もう…!今夜は一緒に飲むんでしょ?」

赤くなった顔を隠すように俯いたはるかを、見上げるようにキスをする。

数時間前まで試合をしていた人間のものとは思えない足取りで、リビングへ向かった。

本拠地でも敵地でもない、いつもと違う球場で繰り広げられたここ数日の試合。
その最終日である今日は、 “その日のうちに帰るから家で一緒に飲もう”と約束していたのだ。



お互いお酒が飲める年齢を迎えて、人並みに──瑛は場合によっては人並み以上に──嗜んではいるが、まだ“ふたりでゆっくり飲む”というシチュエーションには恵まれなかった。

今季からスタメンとしての出場が格段に増えた瑛にとって、休日といえば月曜日くらいで。
その日も半分近くは移動に費やされるので、とにかくチャンスがない。
地域活性化を謳い、毎年近隣県で試合が開催されるこのタイミングこそが、絶好の機会だったのだ。

はるかは“せっかくだし現地で飲もうって話になるんじゃないの?”と心配していて、実際そういう流れになってもいたのだが、今回ばかりはわがままを通させてもらった。

大人になってようやく、はるかと同じ家で一緒に過ごせる時間を、これほどまでに実感できるチャンスを逃すわけにはいかない。

「なんとなくおつまみっぽいメニューにしたけど、まずはしっかり食べてからにする?それとももう飲む?」

瑛が部屋着に着替えてリビングに顔を出すと、テーブルにはまるで居酒屋のような品々が並んでいた。
その絶景を目の前にしてしまったら、答えは一つだ。

「飲む。はるかは?」
「じゃあ、わたしも。もうちょっと待っててね」

できたてじゃなくてごめんね、なんて眉を下げるはるかに、ぶんぶんと首を振る。

つい先ほどまでピアノ演奏の配信をしていたことは、新幹線の中で観ていたので当然知っている。
それ以前も瑛にはよく分からない作業で忙しかっただろうに、これだけの料理をたったひとりで用意してくれていたのだから、つくづく頭が上がらない。

せめて今できることを、と取り皿や箸をせっせとテーブルに並べた。
冷蔵庫を開ければ、丁寧にグラスまで冷やしてあるのが、凝り性のはるからしい。

「あ、まずはビールかなって」
「はるかも?」
「うん、ありがと」

冷えたグラスと、缶ビールをふたつずつ。
既に幸せが込み上げた。


珠玉のおつまみたちをテーブルに並べ終えて、向かい合わせに座る。
プルタブの音は甘美な響きだった。

「かんぱーい」

既に楽しそうなはるかと、グラスを合わせる。

まだビールの美味しさを理解しきれていない瑛でも、その時ばかりは至福の味わいを実感した。

「瑛くんがビール飲んでるなんてねえ。ふふ、びっくり」
「…俺からしたら、はるかだってびっくりだよ」

──だんだん分かっていく、なんて聞いてたけど普通に美味しいね。

はるかが帰国前からの約束(?)通り、瑛の前で一杯だけ、“はじめてのお酒”としてビールを口にした瞬間の言葉には耳を疑った。

さてはそれが相当美味いビールだったのか、四六時中コーヒーを飲んでいるせいで苦味に鈍いのか。
その時瑛も同じものを飲んだので分かるが、たぶん後者だろう。


それにしても、今夜のビールは格別だ。

騒ぐ先輩たちに呆れるでもなく、ゆっくりとはるかの手料理を味わいながら、たわいもない会話を交わしながら。

はるかの頬がほんのりと赤く染まっているのも、なんだか美しい情景のようで、ついじっと見つめてしまった。


「そっかあ、やっぱり先輩たちは元気だねえ」

きゅうりに箸を伸ばしながら、はるかが微笑む。
そんな何気ないしぐさにすら、胸がぎゅっとなるのを感じた。

「ん、瑛くん大丈夫?ちょっと酔っ払ってきた?」

はるかの少し潤んだ瞳が、心配の色を浮かべる。

──そんなはずはない。

元気の良すぎる先輩たちのせい──もとい、“おかげ”でお酒を飲む機会は多く。
もっとハイペースに、倍以上の量を飲んでもさほど変化は感じなかった。

「ふふ。お水持ってこようね」

なのになぜだろう。


ふいに席を立ったはるかの背中が、こんなにも切ない。


「はるか」

瑛は無意識に手を伸ばして、はるかの手をとっていた。

「…瑛くん、そろそろやめとく?おつまみももうほとんどないし」
「え…?」
「あ、まだお腹空いてる?」
「帰んの…?」

尚もどこかへ行こうとするはるかに、視界が歪む。
ぎゅ、と両手を握った。

「“帰る”…?ここがお家だよ?」
「うち…」
「うん。瑛くんとわたしの、お家」

首を傾げながら答えたはるかの言葉が、ゆっくりと時間をかけて胸に沁みこんでいく。

「やっとだなあ、はるか!」
「うん?…えっ、わあ!!」

あまりの感情に、立ち上がってはるかを抱え上げた。

「あ、瑛くん!ケガするよ!」
「はるか、かわいい」
「はい!?」

腕の中の存在が、ただひたすらに、いとしい。

全体重を支えていても重さを感じない。
これは幻なんじゃないか、はるかに焦がれ続けたあまりに、夢と現実の境が分からなくなっているんじゃないかとすら思えた。

「あ、あのね、瑛くん…いい時間だしそろそろ寝ない?」

ああ、やっぱり夢か。

「なあに、はるか。やっぱり早くしたかったの?」

はるかをそっと床に下ろして、今度は背中から抱き締める。
耳元で囁きながら、シャツワンピースのボタンを弄んだ。

「瑛くん…手、熱いね…!眠いのかな…!?」
「ん…?」
「今日もいっぱい活躍してたもんね!ゆっくり休もうね!」

いつまで照れ隠しをしているんだろう、いじらしい。

小さな背中に手を引かれ、寝室に辿り着くなりベッドに転がった。
はるかはなぜかそれを、ベッドサイドから見下ろしている。

「お酒はまたオフシーズンにでもゆっくりね」
「ん…」
「…大丈夫だよ。これから先、ずっと一緒にいるんだから。ね?」

語りかけるように囁く、やさしい声。

これが夢ならもう、醒めなくたっていい。
未だ佇んだままのはるかを、腕の中へ引きずり込んだ。

「ええっ!?今のは完全におやすみなさいの流れでは…!?」

慌てたようにこぼれた声はもう、耳に入らない。

「はるか、こっち向いて」
「なっ、んむ…!」

夢の割には妙にリアルな唇の感触に、アルコール以上の酔いが脳髄まで回っていく。
その得も言われぬ心地良さに、今夜ばかりは身を任せることにした。
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