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[Theme 01]3年目編

16

「きれいだった…生物として、格の違いを感じた…」

家に辿り着いてもどこか夢心地で、先に帰宅していた瑛の隣で恍惚と呟いた。

「そうか?もう全然普通のおばさんじゃね?」
「…お子さん、瑛くんにそっくりだと思ったけど、あの子の方が素直かもなあ」
「おい」

ぐっと身を寄せて、不機嫌そうな顔が近付いてくる。
そういう表情をしていると、幼い頃の面影を感じる気がした。

「やっぱりすごい世界だよね」
「え?」
「瑛くんも、ああなっていくんだよね…」

ふとこぼれた言葉に、自分でもはっとする。

瑛の恋人として、プロ野球ファンとしても、自分はそれを望んでいたはずではなかったのか──

「…よくわかんねえけど、俺ははるかの方が遠くに行ってしまいそうって、ずっと言ってるだろ」

瑛はそう言って、はるかを抱き寄せた。

その手は思ったよりも強くはるかの腕を掴んでいて、そこから瑛の心の叫びが伝わってくるような気がした。


今、ふたりの未来のために自分がしていることは、間違いなのだろうか。



敵地の夜空に、監督が舞った。

テレビ中継は番組の枠をギリギリ過ぎてしまい、慌てて配信に切り替える。
本拠地で見られなかったのは残念だけど、これからだってチャンスはある。
まずはペナントレースを“優勝”という形で完走した選手たち、首脳陣、そしてすべてのハリアーズファンに思いを込めて、拍手をした。家にひとりで。


『皆分かっているとは思うけど、勝負はまだまだこれからです。絶対に勝って、あと2回やりましょう。それでは──』

カウントダウンの後、全員が今季のスローガンを叫んで、配信画面は一瞬にして阿鼻叫喚の絵面へ。
どこからともなく嵐のように降り注ぐビールにまみれ、選手たちは晴れやかな笑顔だ。

インタビュー担当の球団OBにも容赦はなく、時折カメラのレンズも泡まみれになっていた。

『日坂選手ー!』

瑛が見当たらないと思っていたら、隅で気配を消していたらしい。

『はじめてのビールかけですが、いかがですか?あれ、あんまりかけられてないんじゃない?』
『いや、すごいっすね…』

お立ち台やカメラの前でしゃべることにはまだ慣れない様子の瑛だが、相手が見知った人物ということもあるのか、いつもよりはリラックスしているように見えた。

『日本一でリベンジ、ということですね!』

その言葉に、瑛はしっかりと頷いて。
微笑ましく見ていたはずが、ふいに胸がぎゅっとなった。

『真面目か!おもんねーぞ!』
『うわっ!!』

画面外から姿を現した佑人が、瑛の顔面に思いきりビールをぶちまける。
ほぼ無傷だった瑛も、とうとう“洗礼”を受ける時が来たようだ。


贔屓がリーグの王者となった歓喜の光景──その中に、瑛がいる。


なんだか不思議な気がするけど、ビールにまみれて文句を言っているその姿はもうすっかりチームの一員で。

同じチームでも必要最低限のコミュニケーションしかとろうとしなかった頃の瑛が、ずいぶん懐かしく感じた。



それを喜び半分、どこか切ない気持ちで眺めていたことが、神様に伝わってしまったとでもいうのか。

ベンチから駆け出し、喜びを爆発させる敵チームの姿を前に、はるかは石のように固まっていた。

──どうして、こんなことが。

空振りを喫したまま動けずにいるバッターも、ベンチに立ち尽くすチームメイトも、そしてスタンドの観客たちも。
悪夢としか言いようのない黒星に、ただひたすらに絶望していた。



“ハリアーズの正捕手・藤堂 貴文、来シーズンで引退”

傷心に咽ぶはるかの息の根さえ奪うように、そのニュースはSNSを駆け抜けた。

既にその年齢で現役を続けられているのは奇跡だとも言われていたほどのレジェンドだ。
本人も数年前から“100%のパフォーマンスができなくなった時点で辞める”と言っていた。
つまりは来シーズンが、それができる最後のシーズンだと判断したのだろう。

それでも、つらい。
あまりにもつらい。

「悲劇過ぎる…地獄のオフシーズン…」

瑛の前で、普段のはるかなら口が裂けても言わないことを、呆然と口にしていた。

「はは、耳がいてーわ」

瑛は咎める様子もなく笑っていたけど、それを見ているとますます罪悪感が沸いた。

こんな時、パートナーなら一年間頑張って戦ってきた相手を労い、元気付けるような一言をかけるべきなのだろう。
だけど今のはるかがそれをしても、中身のない言葉になってしまいそうな気がしてできなかった。



「あのさ。誕生日…どっか行く?」

ベッドの上でシーツに縫い付けられていると、そんな問いかけが降ってきた。

「ん、どっちの…?」

ふたりの誕生日はたった数日違いなので、どちらでもあまり変わらないのかもしれないけれど。

「はるかの。どっか行きたいとこある?」

どうやら、“あまり変わらない”ということはないらしい。
雨のようにキスを降らせる途中で、はっきりとそう言った。

こんな時に聞かれても、と戸惑いながら思考を手繰り寄せる。

はるかの答えを聞く気があるのかないのか、瑛はいつの間にかはるかのシャツのボタンを一つ残らず外していた。

「…甲子園、とか…?」
「え?」

閉じたまぶたの裏に浮かんだのは、あの夏の景色。

黒土のフィールド、灼熱の日差し、そして今も尚、世界で最も美しいあの──

「確かに、いいかもな」

目を開けると、瑛があまりに真っ直ぐはるかを見つめていたので、思わず息を呑んだ。

瑛もその胸の中で、同じ景色を描いているのかもしれないと思うと、自然と頬が緩んだ。

「…ね。周辺とか、ゆっくり見る時間なんてなかっただろうし」
「何があるのか知らねえけどな」
「ふふ、ちょっと調べてみるよ」

暗いニュースばかりで、もう来シーズンまで冬眠してしまおうかと思っていたけれど。

はじめての旅行に胸を躍らせながら、近付いてきた唇に、もう一度まぶたを閉じた。
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