[Theme 01]3年目編
12
いよいよ、夜には例のドラマの放送がはじまるという日。
はるかはテレビの前、ではなく神岡ドームの座席に座っていた。
明らかに会社帰りといった格好の二人組が、ビールを片手に通路を横切っているのが目に入り、思わず心の中で“お疲れさまです”と手を合わせる。
もしも会社勤めだったなら、定時すぐに電車に飛び乗って、あんなふうにここへ駆けつけるのにもロマンを感じてワクワクしていたかもしれない。
次に目に入ったのは、はるかと年の近そうな女性の二人組だった。
周囲を見渡す彼女らの視線が、はるかの隣辺りに収束したので、静かに席を立つ。
「あ、すいませーん」
「いえいえ」
会釈をしながら通り過ぎる二人に微笑みかけ、また腰を下ろす。
その寸前、片方の女性が身に着けていたユニフォームの背番号を、はるかは見逃さなかった。
「もうスタメン出てる?あ、よかったー。ヒノいる!」
「こないだ結局出てこなかったんだっけ?」
「そー!」
チームメイトが彼をそう呼ぶので、ファンにも浸透してきたその呼び方。
いけないと思いつつ横目でそっと見遣ると、アクリルスタンドを取り出して写真を撮っていた。
──あ、あれが噂の…!
手の平よりも小さな、ポスターの写真と同じ瑛の立ち姿。
オフィシャルストアの新商品一覧にその姿を見つけた時は、“ついに…!”と感慨深くなったことが記憶に新しい。
実物を見たのは、その時がはじめてだった。
──かわいいな…でも、家にあったら嫌かな…
密かにそんなことを思っていると、いよいよ試合開始が近付いてきた。
今は気持ちを切り替えて応援に集中しよう、とはるかもタオルを取り出し、膝に抱える。
タオルは2枚、瑛の分と──貴文の分は、家ではなんとなく隠している。
今夜の一戦は、何かとライバル扱いされがちなチームとのカード。
ベテランの美技が炸裂し、大差をつけての白星となった。
相手エースの完璧な一球を逆方向へ運んだ貴文の一発は、もはや超人の所業として動画チャンネルに切り抜かれることだろう。
一方、若手の打線に力がないことが、開幕当初から気がかりなところで。
昨シーズンをもって球界を去った彼然り、まだまだ圧倒的な活躍を見せているとはいえ、ベテランたちのタイムリミットは確実に近付いている。
お祭り騒ぎの空気に乗じて風船を飛ばしつつも、どこか胸がざわざわと落ち着かなかった。
その胸騒ぎの原因は、実は意外なところにあったのかもしれない。
「ねえちょっと、おねえさん」
ドームの傍で遅めの夕食をとり、車を停めていた場所へ向かっていると、明らかに一般人とは思えぬ体格の男に呼び止められた。
ニヤついた表情。聞き覚えのある呼び方。
「あの…何してるんですか…?」
「うーん、尾行?」
今日もセンターで華麗なキャッチを披露していた秀人が、へらへらと手を挙げていた。
変装も何もしていない秀人と二人、住宅街の路地で突っ立っているなど意味深でしかないので、手近な喫茶店に駆け込む。
これでも十分意味深だが、どこで誰が見ているか分からないような場所よりは、“知る人ぞ知る”といった雰囲気のこの店の方がまだマシな気がした。
店主が野球ファンでないことを祈るのみだが、幸い秀人の顔を見てもピンと来ている様子はなかった。
「で…なんですか、尾行って」
「待って。忘れてるよ、約束」
「あ…」
──次に会う時は、敬語ナシね。
鷺嶋のバッティングセンターで最後に会った日の言葉を、思い出す。
「…ええと…尾行って、何かな…?」
「アハハ、変なしゃべり方!言葉の通りだよ。ドームの周りうろついてたら、見覚えのあるかわいい子がいたから」
「何うろついてんの、そんなとこ!“気付いてください”って言ってるようなもんじゃ…」
「んーまあ、気付いて欲しかったからね。月城さんに」
嘘くさいセリフに、眉をひそめる。
そういえば、名前を呼ばれたのははじめてかもしれない。以外にも適切な距離感を持ったそれは、これでも一応野球人ということか。
「今日はじめて見つけたけど、いつも来てんの?」
「さすがにいつもってわけにはいかないけど…スケジュールが許す限りは、まあ」
「へえ、じゃあ今住んでんのここ?てかもう結婚してたりして」
「…住んでるけど、結婚はしてません」
「やっぱり?そんな気がした。指輪ないし」
相手の名前など、この男なら言わずもがなだろう。
ニヤニヤと笑みを浮かべて、はるかの左手を眺めている。
「一緒に帰んないの?」
「帰れるわけないでしょ!なんで君たちってそんなに自覚ないかな…」
「ええ、そんな芸能人じゃあるまいし。野球好きじゃなきゃ気付かないって」
「その野球好きに見られるのがまずいんだって!もうっ」
普段瑛に言って聞かせているような口調で言ってしまい、恥ずかしくなって思い切りコーヒーを流し込む。
それでもガツンとこないほど、この店のコーヒーはまろやかさが売りのようだ。
「…一緒に住んでてどう?アイツは」
「最近は走塁意識も高くて、若手なりにいろいろと模索する姿勢に伸びしろを感じる」
「そういうのじゃなくて。分かってて言ってるでしょ?」
「だって…“どう”って、言われても…」
プロ野球の試合は基本的に、月曜日を除いてほぼ毎日行われている。
昼と夜の違いはあるが、これがどうも運命のいたずらというものか、どうもはるかの仕事と噛み合わないことが多い。
瑛がデーゲームの日ははるかが夜のライブやセッションだったり、瑛がナイターの日ははるかが昼間の結婚式やイベントだったり。
最近でははるかがドラマの撮影に追われていたこともあり、家にふたり揃っている時間というものがほとんどないのだ。
ようやく噛み合ったと思えば、瑛はすぐに素肌の触れ合いを求める。
そうなればあっという間に意識は持って行かれてしまって、目が覚めたらもう昼前で瑛は既にいない、なんてことばかりだった。
はるかにとって最後の撮影の日、交流戦で拓真とチームとの対戦を終えた瑛から届いたメッセージが、今もモヤモヤと頭の中で滞っている。
「あんまり一緒に住んでる気、しない?」
胸の内を見透かしたかのような言葉に、俯いたままはっと息を呑む。
この反応では肯定しているのと同じだ。はるかは小さく溜め息をこぼした。
「え…」
小さなテーブルと、コーヒーカップだけの視界に現れた、大きな手。
その指先がするり、とはるかの頬を撫でた。
「顔色、良くない。それで気になったら、月城さんだった」
先ほどまでのニヤけ面はどこへ行ってしまったのか、視線を反らせないほど、真っ直ぐな瞳が向けられていた。
「…まあ、それならこんなとこに連れ込んでないで早く帰してあげろよって話なんだけど」
「連れ込んだのは、わたしだから…?」
「はは。そっか」
指先が静かに離れていって、秀人の表情も元に戻った。
「ねえ、連絡先聞いていい?」
「はい?」
「別にしょっちゅう連絡寄越したりしないからさ。ていうか、嫌なら俺からはしない。月城さんが誰かに何か話したい気分の時、連絡ちょうだい。友達として」
あの日、同じようなセリフとともに、背中を押されたことをまたなんとなく思い出す。
その手が思ったよりもあたたかくて、少し驚いたことも。
海岸線に沿って走る都市高速は、平日の夜間でもそこそこの交通量だった。
地下鉄の沿線からは離れてしまうものの、都市高速の出口傍という立地に居を構えたのは正解だった。
隣県や遠方への移動に便利で、球場にもほぼひたすら真っ直ぐ走るだけで辿り着ける。
中心地から少し距離がある上に、未だ開発途中のエリアなので、瑛と一緒でもさほど人目を気にする必要がないのも助かっている。
とはいえこれから開発が進み、近辺が盛り上がっていくようなことがあれば、考え物だなとも思う。
もちろんそれも承知の上で、ひとまずの拠点として選んだに過ぎないので、ゆくゆくはまた別の場所を探そうという話にはなっている。
──“ゆくゆく”、かあ。
街を見下ろす高層マンションか、郊外の一軒家か──そこで寛ぐ瑛の姿はなんとなく想像できる一方で、はるか自身がそこにいるビジョンは、まったく浮かんでこなかった。
ふと時計を見れば既に日付が変わろうとしているところで、“例のドラマ”はとっくに第1話の放送を終えているはずだ。
もっとも、その瞬間が楽しみなようで怖いような気がして、気を紛らわすように球場に足を運んでいた訳だけど。
これが上手くいけば、胸の奥に痞えた何かも、どこかへ行ってくれるだろうか。
鈍い頭痛に気付かないふりをしながら、アクセルを踏み込んだ。
いよいよ、夜には例のドラマの放送がはじまるという日。
はるかはテレビの前、ではなく神岡ドームの座席に座っていた。
明らかに会社帰りといった格好の二人組が、ビールを片手に通路を横切っているのが目に入り、思わず心の中で“お疲れさまです”と手を合わせる。
もしも会社勤めだったなら、定時すぐに電車に飛び乗って、あんなふうにここへ駆けつけるのにもロマンを感じてワクワクしていたかもしれない。
次に目に入ったのは、はるかと年の近そうな女性の二人組だった。
周囲を見渡す彼女らの視線が、はるかの隣辺りに収束したので、静かに席を立つ。
「あ、すいませーん」
「いえいえ」
会釈をしながら通り過ぎる二人に微笑みかけ、また腰を下ろす。
その寸前、片方の女性が身に着けていたユニフォームの背番号を、はるかは見逃さなかった。
「もうスタメン出てる?あ、よかったー。ヒノいる!」
「こないだ結局出てこなかったんだっけ?」
「そー!」
チームメイトが彼をそう呼ぶので、ファンにも浸透してきたその呼び方。
いけないと思いつつ横目でそっと見遣ると、アクリルスタンドを取り出して写真を撮っていた。
──あ、あれが噂の…!
手の平よりも小さな、ポスターの写真と同じ瑛の立ち姿。
オフィシャルストアの新商品一覧にその姿を見つけた時は、“ついに…!”と感慨深くなったことが記憶に新しい。
実物を見たのは、その時がはじめてだった。
──かわいいな…でも、家にあったら嫌かな…
密かにそんなことを思っていると、いよいよ試合開始が近付いてきた。
今は気持ちを切り替えて応援に集中しよう、とはるかもタオルを取り出し、膝に抱える。
タオルは2枚、瑛の分と──貴文の分は、家ではなんとなく隠している。
今夜の一戦は、何かとライバル扱いされがちなチームとのカード。
ベテランの美技が炸裂し、大差をつけての白星となった。
相手エースの完璧な一球を逆方向へ運んだ貴文の一発は、もはや超人の所業として動画チャンネルに切り抜かれることだろう。
一方、若手の打線に力がないことが、開幕当初から気がかりなところで。
昨シーズンをもって球界を去った彼然り、まだまだ圧倒的な活躍を見せているとはいえ、ベテランたちのタイムリミットは確実に近付いている。
お祭り騒ぎの空気に乗じて風船を飛ばしつつも、どこか胸がざわざわと落ち着かなかった。
その胸騒ぎの原因は、実は意外なところにあったのかもしれない。
「ねえちょっと、おねえさん」
ドームの傍で遅めの夕食をとり、車を停めていた場所へ向かっていると、明らかに一般人とは思えぬ体格の男に呼び止められた。
ニヤついた表情。聞き覚えのある呼び方。
「あの…何してるんですか…?」
「うーん、尾行?」
今日もセンターで華麗なキャッチを披露していた秀人が、へらへらと手を挙げていた。
変装も何もしていない秀人と二人、住宅街の路地で突っ立っているなど意味深でしかないので、手近な喫茶店に駆け込む。
これでも十分意味深だが、どこで誰が見ているか分からないような場所よりは、“知る人ぞ知る”といった雰囲気のこの店の方がまだマシな気がした。
店主が野球ファンでないことを祈るのみだが、幸い秀人の顔を見てもピンと来ている様子はなかった。
「で…なんですか、尾行って」
「待って。忘れてるよ、約束」
「あ…」
──次に会う時は、敬語ナシね。
鷺嶋のバッティングセンターで最後に会った日の言葉を、思い出す。
「…ええと…尾行って、何かな…?」
「アハハ、変なしゃべり方!言葉の通りだよ。ドームの周りうろついてたら、見覚えのあるかわいい子がいたから」
「何うろついてんの、そんなとこ!“気付いてください”って言ってるようなもんじゃ…」
「んーまあ、気付いて欲しかったからね。月城さんに」
嘘くさいセリフに、眉をひそめる。
そういえば、名前を呼ばれたのははじめてかもしれない。以外にも適切な距離感を持ったそれは、これでも一応野球人ということか。
「今日はじめて見つけたけど、いつも来てんの?」
「さすがにいつもってわけにはいかないけど…スケジュールが許す限りは、まあ」
「へえ、じゃあ今住んでんのここ?てかもう結婚してたりして」
「…住んでるけど、結婚はしてません」
「やっぱり?そんな気がした。指輪ないし」
相手の名前など、この男なら言わずもがなだろう。
ニヤニヤと笑みを浮かべて、はるかの左手を眺めている。
「一緒に帰んないの?」
「帰れるわけないでしょ!なんで君たちってそんなに自覚ないかな…」
「ええ、そんな芸能人じゃあるまいし。野球好きじゃなきゃ気付かないって」
「その野球好きに見られるのがまずいんだって!もうっ」
普段瑛に言って聞かせているような口調で言ってしまい、恥ずかしくなって思い切りコーヒーを流し込む。
それでもガツンとこないほど、この店のコーヒーはまろやかさが売りのようだ。
「…一緒に住んでてどう?アイツは」
「最近は走塁意識も高くて、若手なりにいろいろと模索する姿勢に伸びしろを感じる」
「そういうのじゃなくて。分かってて言ってるでしょ?」
「だって…“どう”って、言われても…」
プロ野球の試合は基本的に、月曜日を除いてほぼ毎日行われている。
昼と夜の違いはあるが、これがどうも運命のいたずらというものか、どうもはるかの仕事と噛み合わないことが多い。
瑛がデーゲームの日ははるかが夜のライブやセッションだったり、瑛がナイターの日ははるかが昼間の結婚式やイベントだったり。
最近でははるかがドラマの撮影に追われていたこともあり、家にふたり揃っている時間というものがほとんどないのだ。
ようやく噛み合ったと思えば、瑛はすぐに素肌の触れ合いを求める。
そうなればあっという間に意識は持って行かれてしまって、目が覚めたらもう昼前で瑛は既にいない、なんてことばかりだった。
はるかにとって最後の撮影の日、交流戦で拓真とチームとの対戦を終えた瑛から届いたメッセージが、今もモヤモヤと頭の中で滞っている。
「あんまり一緒に住んでる気、しない?」
胸の内を見透かしたかのような言葉に、俯いたままはっと息を呑む。
この反応では肯定しているのと同じだ。はるかは小さく溜め息をこぼした。
「え…」
小さなテーブルと、コーヒーカップだけの視界に現れた、大きな手。
その指先がするり、とはるかの頬を撫でた。
「顔色、良くない。それで気になったら、月城さんだった」
先ほどまでのニヤけ面はどこへ行ってしまったのか、視線を反らせないほど、真っ直ぐな瞳が向けられていた。
「…まあ、それならこんなとこに連れ込んでないで早く帰してあげろよって話なんだけど」
「連れ込んだのは、わたしだから…?」
「はは。そっか」
指先が静かに離れていって、秀人の表情も元に戻った。
「ねえ、連絡先聞いていい?」
「はい?」
「別にしょっちゅう連絡寄越したりしないからさ。ていうか、嫌なら俺からはしない。月城さんが誰かに何か話したい気分の時、連絡ちょうだい。友達として」
あの日、同じようなセリフとともに、背中を押されたことをまたなんとなく思い出す。
その手が思ったよりもあたたかくて、少し驚いたことも。
海岸線に沿って走る都市高速は、平日の夜間でもそこそこの交通量だった。
地下鉄の沿線からは離れてしまうものの、都市高速の出口傍という立地に居を構えたのは正解だった。
隣県や遠方への移動に便利で、球場にもほぼひたすら真っ直ぐ走るだけで辿り着ける。
中心地から少し距離がある上に、未だ開発途中のエリアなので、瑛と一緒でもさほど人目を気にする必要がないのも助かっている。
とはいえこれから開発が進み、近辺が盛り上がっていくようなことがあれば、考え物だなとも思う。
もちろんそれも承知の上で、ひとまずの拠点として選んだに過ぎないので、ゆくゆくはまた別の場所を探そうという話にはなっている。
──“ゆくゆく”、かあ。
街を見下ろす高層マンションか、郊外の一軒家か──そこで寛ぐ瑛の姿はなんとなく想像できる一方で、はるか自身がそこにいるビジョンは、まったく浮かんでこなかった。
ふと時計を見れば既に日付が変わろうとしているところで、“例のドラマ”はとっくに第1話の放送を終えているはずだ。
もっとも、その瞬間が楽しみなようで怖いような気がして、気を紛らわすように球場に足を運んでいた訳だけど。
これが上手くいけば、胸の奥に痞えた何かも、どこかへ行ってくれるだろうか。
鈍い頭痛に気付かないふりをしながら、アクセルを踏み込んだ。