[Theme 01]3年目編
11
テーブルの上のキャンドルが、グラスをゆらゆらと照らす。
杏里が既に顔を赤くしているのが、遠目にもよく分かった。
こちらに背を向けている姿はおそらく、渚だろう。
すぐそばまで歩み寄ると、彼の手元のグラスは未だなみなみと満ちて、氷が浮かんでいた。
少し腰を屈めると、黒いレースアップのドレスがふわりと揺れる。
「久しぶりだね」
振り返った懐かしい顔ぶれに、胸がぎゅっとなった。
「おはる何?ビール?」
「んー、そうだね」
「好きだねー。どれ?こっち?」
驚くほど変わり果てた姿となった杏里だが、独特な呼び方も、二人の空気感も、顔を合わせれば一気に高校時代がよみがえる。
はるかの方も、一時期は短くしていた髪も、あの頃と同じくらいに伸びた。
そんなはるかの姿を、ぼうっと見つめる視線に気付く。
「文谷君?」
名前を呼んでも、渚はぼんやりとした表情のまま。
「…きれい、ですね」
ルージュを引いた唇を、小さく開く。
その様子を見た渚が、我に返ったように慌てふためいた。
「す、すいません…!!」
「ふふ、ありがとう。文谷君もなんか、大人っぽくなったね」
「えっ」
「おはる私は?ねえ私は?」
「杏里ちゃんはずっと杏里ちゃんだねえ」
くすくすと笑っていると、渚もなんだか調子を取り戻したようで、穏やかな笑みを浮かべた。
そういえば渚がはじめて吹奏楽部を訪れた日も、先ほど同じような表情をしていた気がする。
アメリカから日本に戻り、また一からだな、と覚悟していたのだけれど。
思っていたよりいろいろなところでいろいろな繋がりに恵まれ、演奏の機会を数多く得ていた。
アメリカ時代に出会った日本人ミュージシャン、カナリアの店主から噂を聞きつけた人、単純にはるかの演奏や動画を見て声をかけてくれる人。
今夜のように、同じメイウッド卒業生のイベントに招かれることもあった。
もちろんセッションに飛び込んだり、結婚式やイベントでの演奏を引き受けたり、自分から活躍の場を開拓していくことも怠らない。
アレンジや譜面起こしといった仕事は、ただ好きに弾くだけの以前の自分なら難しかったかもしれない。
学んできたことが活きている実感は、素直に嬉しい。
「あ、それなら左手デバイスおすすめですよ!」
「左手、なに…?」
「これ、僕が使ってるやつなんですけど。それぞれに機能を割り当てて…」
大学で作曲や電子音楽を学んでいるという渚は、PC作業に使うデバイスにも詳しいらしい。
今目の前で繰り広げられている話はかなりレベルが高そうだが、何かあったら相談させてもらうのもいいかもしれない。
「月城さん、ですよね?」
渚がスマホの画面で見せてくれている得体の知れないデバイスに瞬きをしていると、ふいに名前を呼ばれた。
顔を上げると、周りの大半の客たちと同じ、セミフォーマルといった装いの男性が佇んでいた。
「東峰テレビで制作をしている者なんですが…」
「え…?」
「月城さん、どこか事務所には入られてますか?」
差し出された名刺には、その男性が言う通りの社名と肩書──どうやらプロデューサーのようだ──が記されている。
「いえ…その、個人事業主ですが…?」
首を傾げるはるかの周りに、見えないハテナマークが溢れかえる。
杏里や渚は訝しげに目を見張っていた。
「そうですか。それなら直接お話しするので問題なさそうですね」
「何ですか?まさかおはるを、アイドルに…!?」
「あはは、ぜひそうしたいくらいお綺麗ですけどね。今回はそうじゃなくて…」
酔った勢いか、もともとの性格か、はるかを抱き寄せてメンチを切る杏里にやんわりと笑って、男性は驚くべき話を口にしたのだった。
「ドラマ…演奏吹き替え…」
「ええ。先ほどの月城さんの演奏を拝見して、監督がぜひ、と。もちろん私も…」
「その、監督さんは…?」
唖然としているはるかの代わりに、渚が尋ねる。
「申し訳ございません。なんせ、スケジュールがカツカツでして」
「確かに。今からで間に合うんですか?」
「…月城さんにも、スケジュール面ではかなりご無理を言ってしまうことにはなるかと思いますが…」
杏里までも身を乗り出して、プロデューサーの男を威圧している。
「演奏シーンに妥協したくない、というのが今回特にこだわっているところでして。それでなかなかお願いする方が見つからなかったんですが…」
「あの…それを、なぜわたしに…?」
はるかがやっとの思いで口を開くと、男はふいにやわらかな表情を見せた。
「失礼ながら過去の演奏なども動画で拝見したんですけど…月城さんの演奏には、なにかとても大きなエネルギーを感じまして」
「“エネルギー”…?」
「はい。音色はとても繊細なんですが、隠しきれない情熱というか。すごく素直な気持ちを思いっきりぶつけているような、そんなところが物語にもぴったりだと思ったんです」
その言葉に、なぜだか幼い日を思い出した。
──おれは、好きだけど。はるかの…ピアノの、そういうところ!
「それと、もちろん月城さんのお名前はクレジットに記載させていただきますし、月城さんさえよければ番宣にもご協力いただければと。微力ながら、PRのお手伝いにもなるかなと思います」
「え?それっておはるがテレビに出るってこと…?」
「そうですね。あくまで月城さんがよければ、ですが」
もちろん抵抗があるようでしたら無理には、と続けた男の声が、頭の中に反響していく。
正直抵抗しかないし、それを自分の活動に対するメリットだとも感じなかった。
だけどそんな思考の端に過ったのも、瑛のことで。
瑛のチームメイトのパートナーといえば、モデルや元アイドル、アナウンサーなど芸能界の人間も多く。
はるかの長年の“推し”である貴文も、国民的人気俳優との結婚が当時大きな話題となった。
彼女は今は芸能界を引退しているが、時折SNSで献身的に貴文を支えている様子が垣間見える。
──インフルエンサー?だから、俺を知ってもらうためだったんだとか…プロ行っても力になれるとか…
今更になって、そんなことまで思い出してしまうとは。
「…ということで。引き受けていただけるということでしたら、電話でもメールでもご連絡いただければ」
「あ、はい…!」
「急で申し訳ないんですけど、週明けくらいまでには…ほんと、すいませんね」
それから二、三言葉を交わして、男は会釈をしながら立ち去っていった。
今この場で決断、ということではなかったようで安堵しつつも、考えれば考えるほど答えは一つのような気がした。
テーブルの上のキャンドルが、グラスをゆらゆらと照らす。
杏里が既に顔を赤くしているのが、遠目にもよく分かった。
こちらに背を向けている姿はおそらく、渚だろう。
すぐそばまで歩み寄ると、彼の手元のグラスは未だなみなみと満ちて、氷が浮かんでいた。
少し腰を屈めると、黒いレースアップのドレスがふわりと揺れる。
「久しぶりだね」
振り返った懐かしい顔ぶれに、胸がぎゅっとなった。
「おはる何?ビール?」
「んー、そうだね」
「好きだねー。どれ?こっち?」
驚くほど変わり果てた姿となった杏里だが、独特な呼び方も、二人の空気感も、顔を合わせれば一気に高校時代がよみがえる。
はるかの方も、一時期は短くしていた髪も、あの頃と同じくらいに伸びた。
そんなはるかの姿を、ぼうっと見つめる視線に気付く。
「文谷君?」
名前を呼んでも、渚はぼんやりとした表情のまま。
「…きれい、ですね」
ルージュを引いた唇を、小さく開く。
その様子を見た渚が、我に返ったように慌てふためいた。
「す、すいません…!!」
「ふふ、ありがとう。文谷君もなんか、大人っぽくなったね」
「えっ」
「おはる私は?ねえ私は?」
「杏里ちゃんはずっと杏里ちゃんだねえ」
くすくすと笑っていると、渚もなんだか調子を取り戻したようで、穏やかな笑みを浮かべた。
そういえば渚がはじめて吹奏楽部を訪れた日も、先ほど同じような表情をしていた気がする。
アメリカから日本に戻り、また一からだな、と覚悟していたのだけれど。
思っていたよりいろいろなところでいろいろな繋がりに恵まれ、演奏の機会を数多く得ていた。
アメリカ時代に出会った日本人ミュージシャン、カナリアの店主から噂を聞きつけた人、単純にはるかの演奏や動画を見て声をかけてくれる人。
今夜のように、同じメイウッド卒業生のイベントに招かれることもあった。
もちろんセッションに飛び込んだり、結婚式やイベントでの演奏を引き受けたり、自分から活躍の場を開拓していくことも怠らない。
アレンジや譜面起こしといった仕事は、ただ好きに弾くだけの以前の自分なら難しかったかもしれない。
学んできたことが活きている実感は、素直に嬉しい。
「あ、それなら左手デバイスおすすめですよ!」
「左手、なに…?」
「これ、僕が使ってるやつなんですけど。それぞれに機能を割り当てて…」
大学で作曲や電子音楽を学んでいるという渚は、PC作業に使うデバイスにも詳しいらしい。
今目の前で繰り広げられている話はかなりレベルが高そうだが、何かあったら相談させてもらうのもいいかもしれない。
「月城さん、ですよね?」
渚がスマホの画面で見せてくれている得体の知れないデバイスに瞬きをしていると、ふいに名前を呼ばれた。
顔を上げると、周りの大半の客たちと同じ、セミフォーマルといった装いの男性が佇んでいた。
「東峰テレビで制作をしている者なんですが…」
「え…?」
「月城さん、どこか事務所には入られてますか?」
差し出された名刺には、その男性が言う通りの社名と肩書──どうやらプロデューサーのようだ──が記されている。
「いえ…その、個人事業主ですが…?」
首を傾げるはるかの周りに、見えないハテナマークが溢れかえる。
杏里や渚は訝しげに目を見張っていた。
「そうですか。それなら直接お話しするので問題なさそうですね」
「何ですか?まさかおはるを、アイドルに…!?」
「あはは、ぜひそうしたいくらいお綺麗ですけどね。今回はそうじゃなくて…」
酔った勢いか、もともとの性格か、はるかを抱き寄せてメンチを切る杏里にやんわりと笑って、男性は驚くべき話を口にしたのだった。
「ドラマ…演奏吹き替え…」
「ええ。先ほどの月城さんの演奏を拝見して、監督がぜひ、と。もちろん私も…」
「その、監督さんは…?」
唖然としているはるかの代わりに、渚が尋ねる。
「申し訳ございません。なんせ、スケジュールがカツカツでして」
「確かに。今からで間に合うんですか?」
「…月城さんにも、スケジュール面ではかなりご無理を言ってしまうことにはなるかと思いますが…」
杏里までも身を乗り出して、プロデューサーの男を威圧している。
「演奏シーンに妥協したくない、というのが今回特にこだわっているところでして。それでなかなかお願いする方が見つからなかったんですが…」
「あの…それを、なぜわたしに…?」
はるかがやっとの思いで口を開くと、男はふいにやわらかな表情を見せた。
「失礼ながら過去の演奏なども動画で拝見したんですけど…月城さんの演奏には、なにかとても大きなエネルギーを感じまして」
「“エネルギー”…?」
「はい。音色はとても繊細なんですが、隠しきれない情熱というか。すごく素直な気持ちを思いっきりぶつけているような、そんなところが物語にもぴったりだと思ったんです」
その言葉に、なぜだか幼い日を思い出した。
──おれは、好きだけど。はるかの…ピアノの、そういうところ!
「それと、もちろん月城さんのお名前はクレジットに記載させていただきますし、月城さんさえよければ番宣にもご協力いただければと。微力ながら、PRのお手伝いにもなるかなと思います」
「え?それっておはるがテレビに出るってこと…?」
「そうですね。あくまで月城さんがよければ、ですが」
もちろん抵抗があるようでしたら無理には、と続けた男の声が、頭の中に反響していく。
正直抵抗しかないし、それを自分の活動に対するメリットだとも感じなかった。
だけどそんな思考の端に過ったのも、瑛のことで。
瑛のチームメイトのパートナーといえば、モデルや元アイドル、アナウンサーなど芸能界の人間も多く。
はるかの長年の“推し”である貴文も、国民的人気俳優との結婚が当時大きな話題となった。
彼女は今は芸能界を引退しているが、時折SNSで献身的に貴文を支えている様子が垣間見える。
──インフルエンサー?だから、俺を知ってもらうためだったんだとか…プロ行っても力になれるとか…
今更になって、そんなことまで思い出してしまうとは。
「…ということで。引き受けていただけるということでしたら、電話でもメールでもご連絡いただければ」
「あ、はい…!」
「急で申し訳ないんですけど、週明けくらいまでには…ほんと、すいませんね」
それから二、三言葉を交わして、男は会釈をしながら立ち去っていった。
今この場で決断、ということではなかったようで安堵しつつも、考えれば考えるほど答えは一つのような気がした。