[Theme 03]3年生編
92
ここ最近、電話口での声音に元気がないことには気付いていた。
それをはるかが、話したい様子ではないことにも。
ピアノを弾く姿はこの上なく生き生きとしていて、演奏のことで行き詰っているわけではなさそうだと、その意味では安堵したりもしていた。
鈴井の件は片が付いたはずだが、まさか矛先がはるかの方に向かってしまっているのか。
いや、その場合も、今のはるかはちゃんと自分に言うはずで。
瑛の知り得ないところではるかを悩ませる存在に苛立ちが募っていたけれど、無理やり聞き出すことではるかをもっと苦しめるようならば本末転倒だ。
──だけどまさか、そんなことを思い悩んでいたなんて!
「俺だってそうだよ」
「…瑛、くん…?」
「“誰よりも本気で野球やってる”、そう思ってくれてんならそれは、俺が──」
声が上擦ってしまいそうなのを抑えながら、そっと囁く。
「野球をやる以外に、生き方を知らないだけだよ」
はるかの身体に力が入るのが分かった。
「はるかがいなくなってから、無心で野球に打ち込んでないと、死にそうだった」
きゅ、と小さな手がシャツを握り締める。
心許ない温度がいとおしい。
「もう一度はるかに会えなかったら、それも持たなかっただろうな」
「…瑛くん、わたし、」
少しだけ腕を緩めて、はるかを見た。
「どこまで辿り着いたとしても、そこにはるかがいないなら。そんな景色、何の価値もないよ」
暗闇で揺れる星空が、こんなにも美しい。
「…ねえ、もし…」
「うん?」
「もしも…あの時わたしがアメリカに行かないで、ずっと瑛くんと一緒にいても、同じことを思ってくれたのかな」
尚も不安そうなその顔。なんていじらしいんだろう。
「瑛くんは、友達が突然いなくなったことがすごくショックで…」
「はるか。それはさすがに、怒る」
そんなつもりもないのに少し強めに言い聞かせて、シャツを握り締めていた手をとった。
指を絡めて、固く結ぶ。
「俺は最初から、はるかが欲しかったよ」
「え…」
「何でお前に友達がいなかったのか、考えたことある?」
「それは、わたしがいろいろとズレてて、一緒に遊んでもつまらないから…」
それが本当なら、今だってこんなにたくさんの人に囲まれていないだろうに。
「全部俺のせいだよ」
まずい、頬が緩む。
「あの頃はるかと深い関わりを持とうとするやつは、全部俺が遠ざけてた。“ふたりだけの世界”を、つくりたかったから」
揺れる瞳には、涙すら浮かんでいた。
「…そっか」
瞬きとともに、こぼれ落ちる。
「そこまで、してくれてたんだね」
ようやく見せてくれた笑顔は、今までこの目に映してきた中で一番、美しかった。
「…ピアノが好きだからやりたい、それでいいって俺はずっと言ってるだろ」
「うん。ごめんなさい」
「なあ、分かったならもう帰って来いよ」
「それは…違うかな。だって瑛くん、今すぐ甲子園ほっぽりだして帰れる?」
「それこそ話がちげーだろ…」
正直半年にも満たない今の時点でいろいろともう限界だけど、はるかがそれでもアメリカでの大学生活に意義を見出しているというなら、やはり待つしかない。
そこでの経験が、これからもはるかに、瑛への感情をより強く自覚させることを期待しながら。
「長話しちゃってごめんね。試合の後なのに」
「…もう帰んの?」
思い出したように距離をとって、はるかがスマートフォンを見た。
「うん。明日朝早いし」
「え?他の試合も観んの?」
「ううん、まあいろいろと野暮用がね」
「何だよそれ」
「ふふ。内緒!」
ここまで来てもまだ、変なところで天邪鬼だ。
思ったより先は長いな、と瑛はふてくされた。
大会中の練習場所として割り振られたグラウンドでは、かなり良い雰囲気で練習ができていた。
慣れない環境ではあるものの、それがかえって気分転換になっているのか。
あるいは単に非日常の生活に浮かれているのか。
プラスの方向に転がっているのならばそれでも良しだろう。
「ワンナウト一、三塁ー!」
涼の声が響く。
ちらりと瑛を見遣ると、この男はやはり至っていつも通りの様子だった。
試合後にはるかに会えず不機嫌を極めていた瑛を見かねて、偶然の出会いをいいことにふたりを引き合わせたのは、果たして正解だったのか。
つくづく野球以外はどうしようもない人だなと3人で茶化していたあの時間が、数日前のことなのにもはや懐かしい。
恋人同士の会話を盗み聞きするなど、あまりに野暮だが状況が状況だった。
不要な外出は禁止されているものの、素振りやロードワークは自由とされていたので、他の部員があの場所を訪れる可能性は大いにあった。
今更ふたりのことなど周知の事実だが、監督やコーチの前で口を滑らせられては困る。
冬真はあの日、ふたりのすぐそばで周囲を見張っていたのだ。
あのふたりの間には、どこか危うい何かを、少なからず感じてはいたけれど。
もはや“異常”とも言えるそれが。
それでも尚、どこまでも純粋な彼らの瞳が。
おそろしいのに美しいと、思ってしまった。
「よし!今のいいぞー」
「あ…ありがとうございます」
グラブを手に声を張る、いつも通りの姿にさえ、なぜだか胸がざわついた。
ここ最近、電話口での声音に元気がないことには気付いていた。
それをはるかが、話したい様子ではないことにも。
ピアノを弾く姿はこの上なく生き生きとしていて、演奏のことで行き詰っているわけではなさそうだと、その意味では安堵したりもしていた。
鈴井の件は片が付いたはずだが、まさか矛先がはるかの方に向かってしまっているのか。
いや、その場合も、今のはるかはちゃんと自分に言うはずで。
瑛の知り得ないところではるかを悩ませる存在に苛立ちが募っていたけれど、無理やり聞き出すことではるかをもっと苦しめるようならば本末転倒だ。
──だけどまさか、そんなことを思い悩んでいたなんて!
「俺だってそうだよ」
「…瑛、くん…?」
「“誰よりも本気で野球やってる”、そう思ってくれてんならそれは、俺が──」
声が上擦ってしまいそうなのを抑えながら、そっと囁く。
「野球をやる以外に、生き方を知らないだけだよ」
はるかの身体に力が入るのが分かった。
「はるかがいなくなってから、無心で野球に打ち込んでないと、死にそうだった」
きゅ、と小さな手がシャツを握り締める。
心許ない温度がいとおしい。
「もう一度はるかに会えなかったら、それも持たなかっただろうな」
「…瑛くん、わたし、」
少しだけ腕を緩めて、はるかを見た。
「どこまで辿り着いたとしても、そこにはるかがいないなら。そんな景色、何の価値もないよ」
暗闇で揺れる星空が、こんなにも美しい。
「…ねえ、もし…」
「うん?」
「もしも…あの時わたしがアメリカに行かないで、ずっと瑛くんと一緒にいても、同じことを思ってくれたのかな」
尚も不安そうなその顔。なんていじらしいんだろう。
「瑛くんは、友達が突然いなくなったことがすごくショックで…」
「はるか。それはさすがに、怒る」
そんなつもりもないのに少し強めに言い聞かせて、シャツを握り締めていた手をとった。
指を絡めて、固く結ぶ。
「俺は最初から、はるかが欲しかったよ」
「え…」
「何でお前に友達がいなかったのか、考えたことある?」
「それは、わたしがいろいろとズレてて、一緒に遊んでもつまらないから…」
それが本当なら、今だってこんなにたくさんの人に囲まれていないだろうに。
「全部俺のせいだよ」
まずい、頬が緩む。
「あの頃はるかと深い関わりを持とうとするやつは、全部俺が遠ざけてた。“ふたりだけの世界”を、つくりたかったから」
揺れる瞳には、涙すら浮かんでいた。
「…そっか」
瞬きとともに、こぼれ落ちる。
「そこまで、してくれてたんだね」
ようやく見せてくれた笑顔は、今までこの目に映してきた中で一番、美しかった。
「…ピアノが好きだからやりたい、それでいいって俺はずっと言ってるだろ」
「うん。ごめんなさい」
「なあ、分かったならもう帰って来いよ」
「それは…違うかな。だって瑛くん、今すぐ甲子園ほっぽりだして帰れる?」
「それこそ話がちげーだろ…」
正直半年にも満たない今の時点でいろいろともう限界だけど、はるかがそれでもアメリカでの大学生活に意義を見出しているというなら、やはり待つしかない。
そこでの経験が、これからもはるかに、瑛への感情をより強く自覚させることを期待しながら。
「長話しちゃってごめんね。試合の後なのに」
「…もう帰んの?」
思い出したように距離をとって、はるかがスマートフォンを見た。
「うん。明日朝早いし」
「え?他の試合も観んの?」
「ううん、まあいろいろと野暮用がね」
「何だよそれ」
「ふふ。内緒!」
ここまで来てもまだ、変なところで天邪鬼だ。
思ったより先は長いな、と瑛はふてくされた。
大会中の練習場所として割り振られたグラウンドでは、かなり良い雰囲気で練習ができていた。
慣れない環境ではあるものの、それがかえって気分転換になっているのか。
あるいは単に非日常の生活に浮かれているのか。
プラスの方向に転がっているのならばそれでも良しだろう。
「ワンナウト一、三塁ー!」
涼の声が響く。
ちらりと瑛を見遣ると、この男はやはり至っていつも通りの様子だった。
試合後にはるかに会えず不機嫌を極めていた瑛を見かねて、偶然の出会いをいいことにふたりを引き合わせたのは、果たして正解だったのか。
つくづく野球以外はどうしようもない人だなと3人で茶化していたあの時間が、数日前のことなのにもはや懐かしい。
恋人同士の会話を盗み聞きするなど、あまりに野暮だが状況が状況だった。
不要な外出は禁止されているものの、素振りやロードワークは自由とされていたので、他の部員があの場所を訪れる可能性は大いにあった。
今更ふたりのことなど周知の事実だが、監督やコーチの前で口を滑らせられては困る。
冬真はあの日、ふたりのすぐそばで周囲を見張っていたのだ。
あのふたりの間には、どこか危うい何かを、少なからず感じてはいたけれど。
もはや“異常”とも言えるそれが。
それでも尚、どこまでも純粋な彼らの瞳が。
おそろしいのに美しいと、思ってしまった。
「よし!今のいいぞー」
「あ…ありがとうございます」
グラブを手に声を張る、いつも通りの姿にさえ、なぜだか胸がざわついた。