[Theme 03]3年生編
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冷や汗が伝う。
自分は今とんでもない犯罪を犯しているのではないかという気がして、ふわふわと夢見心地だったはずの意識が一気に張り詰める。
「はるかがそれ着てんの、良いな」
たった今まで不機嫌そうだった顔をほころばせて呟く瑛の、なんと呑気なことだろうか。
甲子園真っ最中の高校球児が、宿泊先で彼女──しかもまったくの部外者──とこっそり会っているなんて、誰かに知られたら只事では済まないだろう。
監督の耳に入ったら、試合に出してもらえなくなるかもしれない。
「正也が着た後っていうのが嫌だけど…」
「か、返す!返すよ…!そしてわたしは帰る!!」
「待て待て、あんま大きい声出すな」
やんわりと口元を押さえられ、息を呑む。
硬い指先が顎のラインをするりと撫でて、離れていった。
「はるかが住所教えてくんねーから」
「教えても、出歩けないでしょ…」
「俺の知らないとこであいつらと遭遇してるし」
「びっくりしたよ!カツアゲされるのかと思った…」
なんだか力が抜けて、段差に座り込む。
濃い色のジーンズなので汚れても気にならないだろう。
今はそんなことを気にする余裕もなかったけれど。
「まあ、部屋に連れ込んでるわけじゃねえんだし。偶然会ってつい話し込んだってことにすればセーフだろ」
瑛もすぐ隣に腰を下ろした。
瑛にしては距離があるので、一応悪いことをしている自覚はあるようで安心した。
──いや、まったく安心するところではないのだけど。
「電話とか、できたらするつもりだったよ?」
「はるかは、それだけでいいの?さっきもさっさと帰るし…」
「…だって、今年は瑛くんたちが一番お兄さんなんだから。ちゃんとみんなのとこにいないとダメだよ」
「はるか…?」
ふいに瑛がはるかの顔を覗き込んできて、どきりとした。
もっともらしいことを語る声が震えていることに、はるか自身さえ気が付かなかったのに。
無意識に眉を寄せているのはきっと癖で、はじめて出会った時はふてくされた猫のようだと思った顔。
ずいぶん凛々しくなった。
薄暮の中でも鋭く光る、力強い瞳。
そこに映る自分の姿が、ひどく心許なく見えた。
「ねえ、瑛くん」
ここがどこだとか、今どんな状況なんだとか、もう分からなくなって。
「わたし、ただ瑛くんのそばでピアノを弾いていたいだけなの。そんなのダメかな…?」
そんなことを口にしていた。
今になって思えば、自分は“浮いて”いたんだと思う。
それはそうだ、とも。
流行りのキャラクターも、芸能人も、何も知らない。
プロ野球なら分かるけど、詳しすぎて逆に噛み合わない。
みんなと遊びには行かない。家に帰ったらピアノを弾くから。
よく会うのはカナリアのミュージシャンたち。親以上に年の離れた彼らのことを“友達”と言うのは、たぶん違う。
それでも最初のうちは、遠足で一緒にお弁当を食べようと言ってくれる子はたくさんいたし、昼休みは遊びの輪の中に入れてくれていた。
だけど自分はきっと、つまらない人間だったんだろう。
いつからかお弁当は先生と一緒に食べていて、昼休みは席で一人楽譜を眺めるだけになった。
放課後児童クラブで、母親を待つ時間と同じように。
クラスの子たちには別に意地悪をされるわけではないし、むしろたくさん話しかけてくれた。
ピアノや勉強を褒めてくれることだってあった。
それが、かえって悲しかった。
職場から迎えに来てくれて、自分と手を繋ぐ母親はいつも、自分にピアノを求めた。
虚ろな瞳が映しているのは自分だけど、自分じゃない。
求められているのは、自分じゃない。
「なあ、おれあんなの聞いてねーんだけど!」
「え?」
はじめて全校集会で、校歌の伴奏をした日。
瑛が泣きそうな目で訴えてきた。
「みんながはるかのピアノ聴くの、やだ」
きっとその瞬間から、世界が変わったんだと、今になって思う。
父親を失って、自分だって悲しかった。
だけど“ふたりだけの世界”を前に自分はどこか蚊帳の外で、その実、家でもカナリアでも“父の代わり”を求められて。
胸の痛みに目を背けてピアノに打ち込めば打ち込むほど、クラスメイトとの距離は離れていった。
そんな中、いつだって自分だけをその瞳に映して、物語の中心に引っ張り込んでくれる瑛のことが、心底眩しかった。
そして思った──瑛と、“ふたりだけの世界”をつくりたいと。
「ピアノが好き、大好き。ピアノを弾いている時、わたしはいちばん“生きてる”って感じられる」
地平を照らしていた夕陽が分厚い雲に隠れて、いよいよ何もかもがぼんやりとしはじめた。
「だけどそこに瑛くんがいないなら、弾かなくていい」
目の前でただじっとはるかを見つめる、瑛の姿以外には。
「…こんなの、誰よりも本気で野球やってる瑛くんに失礼だよね」
よりによって、なぜ今、こんなことを口走ってしまったのだろう。
焦燥感が急速に沸き上がって、そして瞬く間に消えていった。
力強い腕が、はるかを痛いほどに抱き締めていたから。
「なんで、そう思うんだよ」
「え…?だって…あまりに主体性ないし、重い、し」
「俺はその言葉をずっと待ってたよ」
耳元で響いた声に、息を呑んだ。
胸元に伝わる鼓動が混ざり合って、どちらのものか分からなくなっていった。
冷や汗が伝う。
自分は今とんでもない犯罪を犯しているのではないかという気がして、ふわふわと夢見心地だったはずの意識が一気に張り詰める。
「はるかがそれ着てんの、良いな」
たった今まで不機嫌そうだった顔をほころばせて呟く瑛の、なんと呑気なことだろうか。
甲子園真っ最中の高校球児が、宿泊先で彼女──しかもまったくの部外者──とこっそり会っているなんて、誰かに知られたら只事では済まないだろう。
監督の耳に入ったら、試合に出してもらえなくなるかもしれない。
「正也が着た後っていうのが嫌だけど…」
「か、返す!返すよ…!そしてわたしは帰る!!」
「待て待て、あんま大きい声出すな」
やんわりと口元を押さえられ、息を呑む。
硬い指先が顎のラインをするりと撫でて、離れていった。
「はるかが住所教えてくんねーから」
「教えても、出歩けないでしょ…」
「俺の知らないとこであいつらと遭遇してるし」
「びっくりしたよ!カツアゲされるのかと思った…」
なんだか力が抜けて、段差に座り込む。
濃い色のジーンズなので汚れても気にならないだろう。
今はそんなことを気にする余裕もなかったけれど。
「まあ、部屋に連れ込んでるわけじゃねえんだし。偶然会ってつい話し込んだってことにすればセーフだろ」
瑛もすぐ隣に腰を下ろした。
瑛にしては距離があるので、一応悪いことをしている自覚はあるようで安心した。
──いや、まったく安心するところではないのだけど。
「電話とか、できたらするつもりだったよ?」
「はるかは、それだけでいいの?さっきもさっさと帰るし…」
「…だって、今年は瑛くんたちが一番お兄さんなんだから。ちゃんとみんなのとこにいないとダメだよ」
「はるか…?」
ふいに瑛がはるかの顔を覗き込んできて、どきりとした。
もっともらしいことを語る声が震えていることに、はるか自身さえ気が付かなかったのに。
無意識に眉を寄せているのはきっと癖で、はじめて出会った時はふてくされた猫のようだと思った顔。
ずいぶん凛々しくなった。
薄暮の中でも鋭く光る、力強い瞳。
そこに映る自分の姿が、ひどく心許なく見えた。
「ねえ、瑛くん」
ここがどこだとか、今どんな状況なんだとか、もう分からなくなって。
「わたし、ただ瑛くんのそばでピアノを弾いていたいだけなの。そんなのダメかな…?」
そんなことを口にしていた。
今になって思えば、自分は“浮いて”いたんだと思う。
それはそうだ、とも。
流行りのキャラクターも、芸能人も、何も知らない。
プロ野球なら分かるけど、詳しすぎて逆に噛み合わない。
みんなと遊びには行かない。家に帰ったらピアノを弾くから。
よく会うのはカナリアのミュージシャンたち。親以上に年の離れた彼らのことを“友達”と言うのは、たぶん違う。
それでも最初のうちは、遠足で一緒にお弁当を食べようと言ってくれる子はたくさんいたし、昼休みは遊びの輪の中に入れてくれていた。
だけど自分はきっと、つまらない人間だったんだろう。
いつからかお弁当は先生と一緒に食べていて、昼休みは席で一人楽譜を眺めるだけになった。
放課後児童クラブで、母親を待つ時間と同じように。
クラスの子たちには別に意地悪をされるわけではないし、むしろたくさん話しかけてくれた。
ピアノや勉強を褒めてくれることだってあった。
それが、かえって悲しかった。
職場から迎えに来てくれて、自分と手を繋ぐ母親はいつも、自分にピアノを求めた。
虚ろな瞳が映しているのは自分だけど、自分じゃない。
求められているのは、自分じゃない。
「なあ、おれあんなの聞いてねーんだけど!」
「え?」
はじめて全校集会で、校歌の伴奏をした日。
瑛が泣きそうな目で訴えてきた。
「みんながはるかのピアノ聴くの、やだ」
きっとその瞬間から、世界が変わったんだと、今になって思う。
父親を失って、自分だって悲しかった。
だけど“ふたりだけの世界”を前に自分はどこか蚊帳の外で、その実、家でもカナリアでも“父の代わり”を求められて。
胸の痛みに目を背けてピアノに打ち込めば打ち込むほど、クラスメイトとの距離は離れていった。
そんな中、いつだって自分だけをその瞳に映して、物語の中心に引っ張り込んでくれる瑛のことが、心底眩しかった。
そして思った──瑛と、“ふたりだけの世界”をつくりたいと。
「ピアノが好き、大好き。ピアノを弾いている時、わたしはいちばん“生きてる”って感じられる」
地平を照らしていた夕陽が分厚い雲に隠れて、いよいよ何もかもがぼんやりとしはじめた。
「だけどそこに瑛くんがいないなら、弾かなくていい」
目の前でただじっとはるかを見つめる、瑛の姿以外には。
「…こんなの、誰よりも本気で野球やってる瑛くんに失礼だよね」
よりによって、なぜ今、こんなことを口走ってしまったのだろう。
焦燥感が急速に沸き上がって、そして瞬く間に消えていった。
力強い腕が、はるかを痛いほどに抱き締めていたから。
「なんで、そう思うんだよ」
「え…?だって…あまりに主体性ないし、重い、し」
「俺はその言葉をずっと待ってたよ」
耳元で響いた声に、息を呑んだ。
胸元に伝わる鼓動が混ざり合って、どちらのものか分からなくなっていった。