[Theme 03]3年生編
78
父はあまりに若すぎるうちにその生涯を閉じた上に、生前活動していた場所も、日本よりもアメリカがメインだったという。
だから“ピアニスト”としての父の存在を感じる場面といえば、家やカナリアでピアノを弾く姿の、おぼろげな記憶だけ。
薫とふたりだけの世界で、薫のためだけにピアノを弾く姿は、何よりもはっきりと脳裏に焼き付いているけれど。
彼の亡き後、日本にいて父の名を聞くことはほとんどなかった。
「へえ、ヨウの…!」
セッションやライブの場で、ミュージシャンたちから喜びとも哀しみともとれる眼差しを向けられるたびに、はるかは何とも言えない気持ちになった。
もしかしたら幼い頃に一度この地を訪れた時も、こんなふうに声をかけられていたのかもしれない。
だけどあいにくあの頃の記憶もかなり曖昧で。
幸いにもあの頃のはるかのことは、知らないか覚えていない人がほとんどでなんとなく助かっている。
「ヨウって誰?まさか元カレ?」
「…父親です。小さい頃に亡くなってますけど」
デリカシーのなさすぎる質問に眉をひそめながら答える。
はるかの返答を受けても、圭はへらへらとしていた。
「こないだはゴメン。さすがに勝手だったね」
「…いえ」
「まあ、全部本心だから否定はしないけどね」
正直しばらく話したくなかった、そんなはるかを救うように、誰からともなくまた音が重なる。
はるか自身もその海へと身を投じれば、頭の中は一転してクリアになる。
ピアノが好きだ。音楽が好きだ。
ここが自分の生きる場所だと、心底思う。
その思いをぶつけるだけにならないようにと心がけてはいるが、どうしたって全身が疼く。
ウッドベースを奏でる初老の男性が、こちらを見ていることに気が付いた。
その視線は訳知り気味で、微笑ましそうで。
それにどこかカチンとくるような心持がした。
そんなふうに自分を通して父の姿を見るのは、いい加減やめて欲しいんだ。
自分の中ですら、父と自分の繋がりは、どこかぼんやりとしているというのに。
いや、そんなことは今はどうでもいい。
ここには“自分自身の勝負”をしに来た。
一度すべてを失ったこの街で、どれだけのものを手に入れられるか。
父の姿など見えなくなるほど、自分のピアノを焼き付けてやればいい。
大人たちを相手に、全員一人残らず本気にさせたいと小さな手を伸ばし続けたあの頃から、結局自分は何も変わっていない。
この手でもっと、知らない景色を──
拍手や口笛が、フロアを満たす。
今宵の同士たちと代わる代わる握手を交わし、一際強く握られた手に顔を上げる。
──ほら、ね?
まるでそう言わんばかりの笑顔で、圭が見下ろしていた。
「だから、ニンジン残すなっつってんだろ!」
「何だオメー!食事にまで口出す気かよ!オカンか!」
朝練後の食堂に、今日も怒号が響く。
「よかったですね、なんとかなって」
あれだけ険悪だったバッテリーだが、近頃はなんだかんだでいつも一緒にいる。
何があったかは知らないが、さすがに嫌でも息を合わせないとマズいと気付いたのだろうか。
「相変わらずうるせえのは迷惑だけどな」
なんとかなりそうなのは、この男もまた。
「あいつらがケンカしないように援護してやろうな」
「…はっ。お前なんかすぐに引きずり降ろしてやるから」
「おー。待ってる」
瑛がそう言うと、祥太はあからさまな溜め息を吐いて食堂を出ていった。
「…なんか、わざと煽ってます?」
冬真が訝しげに見上げてくる。
「なんか、煽ると打てるっぽいから」
「そんな人を動物みたいに…」
「人も動物だろ」
「…それ、月城さんにも同じこと言えます?」
「は?何言ってんだよ。あいつは別だろ」
祥太に続き、冬真も盛大な溜め息をこぼした。
「瑛先輩が月城さん以外を全員猿とかゴリラと同義だと思うのは勝手ですけど」
「そこまで言ってねえよ」
「その猿とかゴリラが月城さんに危害を加えることがないかどうかくらいは、関心持った方がいいと思いますよ」
「は…?」
「こんなの見て、いくら月城さんでも何も感じないとか思いませんよね?」
ずい、と押し付けられた画面に、目を見張る。
──“ドラフト候補の大型遊撃手、同級生ヒロインに甲子園誓う”
「…なんだ、これ…?」
「ファンのしつけも仕事の内じゃないですか」
「それチカさんにも言われたんだけど」
「言われたのに何もしてないんですか…?」
「勝手に“推し”だのなんだの言われるだけならどうでもいいと思ってたんだよ…はるかには何か危害がありそうなら言えって言っておいたし」
箸を置き、冬真が改めて瑛に視線を寄越した。
「言うと思いますか。月城さんが」
「な…」
「月城さんと生きていくのに、月城さんのことだけ考えてればいいなんてこと、ないと思いますよ」
一つ下で身体も小さい冬真だけど、こういう時はものすごく大きな存在に見えてしまって、瑛は口を噤んだ。
父はあまりに若すぎるうちにその生涯を閉じた上に、生前活動していた場所も、日本よりもアメリカがメインだったという。
だから“ピアニスト”としての父の存在を感じる場面といえば、家やカナリアでピアノを弾く姿の、おぼろげな記憶だけ。
薫とふたりだけの世界で、薫のためだけにピアノを弾く姿は、何よりもはっきりと脳裏に焼き付いているけれど。
彼の亡き後、日本にいて父の名を聞くことはほとんどなかった。
「へえ、ヨウの…!」
セッションやライブの場で、ミュージシャンたちから喜びとも哀しみともとれる眼差しを向けられるたびに、はるかは何とも言えない気持ちになった。
もしかしたら幼い頃に一度この地を訪れた時も、こんなふうに声をかけられていたのかもしれない。
だけどあいにくあの頃の記憶もかなり曖昧で。
幸いにもあの頃のはるかのことは、知らないか覚えていない人がほとんどでなんとなく助かっている。
「ヨウって誰?まさか元カレ?」
「…父親です。小さい頃に亡くなってますけど」
デリカシーのなさすぎる質問に眉をひそめながら答える。
はるかの返答を受けても、圭はへらへらとしていた。
「こないだはゴメン。さすがに勝手だったね」
「…いえ」
「まあ、全部本心だから否定はしないけどね」
正直しばらく話したくなかった、そんなはるかを救うように、誰からともなくまた音が重なる。
はるか自身もその海へと身を投じれば、頭の中は一転してクリアになる。
ピアノが好きだ。音楽が好きだ。
ここが自分の生きる場所だと、心底思う。
その思いをぶつけるだけにならないようにと心がけてはいるが、どうしたって全身が疼く。
ウッドベースを奏でる初老の男性が、こちらを見ていることに気が付いた。
その視線は訳知り気味で、微笑ましそうで。
それにどこかカチンとくるような心持がした。
そんなふうに自分を通して父の姿を見るのは、いい加減やめて欲しいんだ。
自分の中ですら、父と自分の繋がりは、どこかぼんやりとしているというのに。
いや、そんなことは今はどうでもいい。
ここには“自分自身の勝負”をしに来た。
一度すべてを失ったこの街で、どれだけのものを手に入れられるか。
父の姿など見えなくなるほど、自分のピアノを焼き付けてやればいい。
大人たちを相手に、全員一人残らず本気にさせたいと小さな手を伸ばし続けたあの頃から、結局自分は何も変わっていない。
この手でもっと、知らない景色を──
拍手や口笛が、フロアを満たす。
今宵の同士たちと代わる代わる握手を交わし、一際強く握られた手に顔を上げる。
──ほら、ね?
まるでそう言わんばかりの笑顔で、圭が見下ろしていた。
「だから、ニンジン残すなっつってんだろ!」
「何だオメー!食事にまで口出す気かよ!オカンか!」
朝練後の食堂に、今日も怒号が響く。
「よかったですね、なんとかなって」
あれだけ険悪だったバッテリーだが、近頃はなんだかんだでいつも一緒にいる。
何があったかは知らないが、さすがに嫌でも息を合わせないとマズいと気付いたのだろうか。
「相変わらずうるせえのは迷惑だけどな」
なんとかなりそうなのは、この男もまた。
「あいつらがケンカしないように援護してやろうな」
「…はっ。お前なんかすぐに引きずり降ろしてやるから」
「おー。待ってる」
瑛がそう言うと、祥太はあからさまな溜め息を吐いて食堂を出ていった。
「…なんか、わざと煽ってます?」
冬真が訝しげに見上げてくる。
「なんか、煽ると打てるっぽいから」
「そんな人を動物みたいに…」
「人も動物だろ」
「…それ、月城さんにも同じこと言えます?」
「は?何言ってんだよ。あいつは別だろ」
祥太に続き、冬真も盛大な溜め息をこぼした。
「瑛先輩が月城さん以外を全員猿とかゴリラと同義だと思うのは勝手ですけど」
「そこまで言ってねえよ」
「その猿とかゴリラが月城さんに危害を加えることがないかどうかくらいは、関心持った方がいいと思いますよ」
「は…?」
「こんなの見て、いくら月城さんでも何も感じないとか思いませんよね?」
ずい、と押し付けられた画面に、目を見張る。
──“ドラフト候補の大型遊撃手、同級生ヒロインに甲子園誓う”
「…なんだ、これ…?」
「ファンのしつけも仕事の内じゃないですか」
「それチカさんにも言われたんだけど」
「言われたのに何もしてないんですか…?」
「勝手に“推し”だのなんだの言われるだけならどうでもいいと思ってたんだよ…はるかには何か危害がありそうなら言えって言っておいたし」
箸を置き、冬真が改めて瑛に視線を寄越した。
「言うと思いますか。月城さんが」
「な…」
「月城さんと生きていくのに、月城さんのことだけ考えてればいいなんてこと、ないと思いますよ」
一つ下で身体も小さい冬真だけど、こういう時はものすごく大きな存在に見えてしまって、瑛は口を噤んだ。