[Theme 03]3年生編
69
目が覚めると瑛は地元の空港のロビーにいて、目の前には黙って涙を流す少年がいた。
すぐにそれが、幼い頃の自分だと気付く。
ならば自分は“目が覚めた”わけではないということも。
近付いてみても少年の声は聞こえず、ただ静かに床を睨み付けて、そこへ大粒の涙をこぼすばかりだ。
「こんな時すら何も言えないんだな、俺は」
しゃがみ込んで、ポケットからハンドタオルを取り出す。
バレンタインデーにはるかからもらったそれを、特別に少年の目元に宛てがってやる。
「…だれ」
かすれた声で、問いかけられた。
「俺は…俺だよ」
「サギかよ」
「…ムカつくガキだな」
少年はあっという間に瑛への──この少年も“瑛”だが──興味を失ったのか、また大理石の床を睨み付けた。
その様子を呆れたように眺めていると、突然周囲の景色が歪んだ。
そしてそこは、どこだったかも思い出せないグラウンドに変わる。
目の前の少年は少し大きくなって、ユニフォーム姿に変わっていた。
珍しくリトル時代の話なんかしたからだろうか。こんな夢を見ているのは。
ふてくされた顔は相変わらずで、その瞳は生きているのか死んでいるのかさえも分からない。
いよいよ溜め息がこぼれた。
「…あのなあ。お前がそうしてる間に、あいつは遠くで泣いてたんだぞ」
少年は、ぴくりともしなかった。
「いや、涙すら流せなかったのかもしれない。あいつはたったひとり、すべてを失った」
「…失ったのは、俺の方だよ」
黙り込んでいた少年が、虚ろな瞳のまま口を開く。
「今の俺は、たったひとり置いて行かれて…野球やるだけの亡霊だよ。空っぽの世界で…こんなの、いつまで続くの?」
「…」
「いつになったら、はるかは帰ってくるの?」
──ああ、そうだな。
あの頃もこんなふうに、はるかがいない世界に取り残されて、もがくように生きていた。
見えない何かに溺れるように、苦しかった。
そんな自分は世界一孤独だとでも言うような顔をして。
「…そう思うなら、お前から何か声をかけてやればよかっただろ」
電話番号や住所なら、父親に聞けば教えてもらえたはずだ。
なんせ瑛の試合の結果が載った新聞記事を、瑛に黙って送っていたのだから。
「苦しかったのはお前だけじゃないと、なぜ気付けなかった?」
いくら大人びて見えても自分とたった一つしか変わらない、旅立つ少女の抱える不安に、なぜ。
「俺はお前とは違う。悪いけど、置いて行かせてもらうぞ」
一度だけ、虚ろな少年の瞳が揺れた。
「安心しろ。後でちゃんと、迎えに来る」
──“待て”は得意だろ?
野球帽の上から、少年の頭にそっと手を置いて、目を閉じた。
次に目を開けた時、眼前に広がったのは見慣れた寮の天井。
視線を部屋の隅に移すと祥太はまだ寝ているようだ。
寝ぐせもそのままに、ベッドを降りてドアを開けた。
無意識にバットを携えて。
「おはよ」
すぐに繋がった電話の向こうに呼びかける。
『えっ、待って、そっち今何時…?』
日の出前の薄暗い道を歩きながら、耳元に届く慌てた声に微笑む。
「この間、電話出れなくてごめん」
『あ…ううん、忙しいタイミングなの分かってたから。わたしもごめん…』
その声音は至っていつも通り、今までの瑛ならきっとそう思っていただろう。
「あのさ、大学のSNS見たんだけど。何あれ?」
『え?』
ごそごそと音がする。はるか自身も初耳だったのだろうか。
『うわ、なにこれ…』
「聞きてーのこっちだから。誰だよそいつ。何ベタベタ触らせてんの?ちゃんと洗った?」
『え、あ、瑛くん?』
「あと髪!切ったとか聞いてねえんだけど。そういうの、一番に写真送ってくれなきゃ困るんですけど」
『え、っと…』
「化粧した顔とかもさ。すげーかわいい。どういうこと?」
『…あの…瑛さん…?』
次々言い放つと、はるかは戸惑ったり照れたり、きっところころと表情を変えているんだろうと、すべてが伝わってきた。
「…はるかは?何か話したかったこと、あるんじゃねえの」
そう問いかけると、電話の向こうの空気が、変わった。
『…ピアノの先生に、結構ガツンと言われて、ちょっとだけへこんでた』
「…そっか。なんて…?」
『なんか、“お前のは猿がピアノ弾いてるのと同じだ”って…』
「はあ!?」
思わず大きな声が出た。
早朝であることを思い出し、口元を押さえる。
『“再構築”の時から、ある程度は理論的な部分も勉強したつもりだったけど…やっぱりあまりにも感覚だけでやってきてたから。曲そのものの理解だったり、音楽理論ももっと深いところまで理解して弾くことが大事っていうのを痛感してるよ。周りの子は小さい頃からそのへんもしっかりやってきてて、みんなが知ってて当たり前のことを、わたしはなんにも知らない』
淡々と語るはるかの声に、胸が震えた。
今すぐ抱き締めてやれないことが、ひどくもどかしかった。
『“好き!”って気持ちを、独りよがりにぶつけてるだけだって怒られちゃったよ』
「俺はそれが、好きなんだけどな」
自然と口にしていた言葉。
はるかが、息を呑むのが聞こえた。
『…うん、ありがとう。わたしも、それがダメってわけじゃないと思ってるよ。先生が言いたいのも、それ“だけ”じゃダメってことなのかなって』
「どういうこと…?」
『もう少し曲の世界や、一緒に演奏する人たちに寄り添えたら…そしたらきっと、もっと豊かに表現できる。そういうことなんじゃないかなって思うの』
はるかの声は、自然と明るくなっていた。
『それを考えてたら、なんだか吹奏楽を思い出すんだ』
「…確かに、吹部ではちゃんと周りに馴染んでたもんな」
『どういう意味かな?』
「はは、深い意味はねえよ」
はるかは海の向こうで、瑛には想像もつかないようなことを、毎日必死で学んでいる。
もう一度はるかのピアノを聴くとき、それはきっと耳を疑うほどの進化を遂げていることだろう。
「…また、一人で戦わせてしまったな」
少年に豪語した自分が、恥ずかしくなる。
『そんなことないよ、全然…!』
そんな瑛に、はるかは突然声を大きくした。
『メッセージのやり取りができなくても、それってきっと瑛君がまた新しいマメつくってバット振ってるんだろうなあとか、打球を追って駆け回ってるんだろうなあとか、そう思ったら負けてらんないなって思った』
「…」
『でも…全然声聞けないのは、やっぱり寂しいな…わたしが出られなかったせいなんだけど…』
「はるか」
手を伸ばすかわりに、名前を呼んだ。
「好きだ」
抱き締めるかわりに、そう告げた。
『わ…ええと…ふふ。わたしも。瑛くんが、大好きです』
これからは何度だって、電話をしてやろうと思った。
はるかが出られない日が続いても。ほんの1、2分しか話せない時でも。
目が覚めると瑛は地元の空港のロビーにいて、目の前には黙って涙を流す少年がいた。
すぐにそれが、幼い頃の自分だと気付く。
ならば自分は“目が覚めた”わけではないということも。
近付いてみても少年の声は聞こえず、ただ静かに床を睨み付けて、そこへ大粒の涙をこぼすばかりだ。
「こんな時すら何も言えないんだな、俺は」
しゃがみ込んで、ポケットからハンドタオルを取り出す。
バレンタインデーにはるかからもらったそれを、特別に少年の目元に宛てがってやる。
「…だれ」
かすれた声で、問いかけられた。
「俺は…俺だよ」
「サギかよ」
「…ムカつくガキだな」
少年はあっという間に瑛への──この少年も“瑛”だが──興味を失ったのか、また大理石の床を睨み付けた。
その様子を呆れたように眺めていると、突然周囲の景色が歪んだ。
そしてそこは、どこだったかも思い出せないグラウンドに変わる。
目の前の少年は少し大きくなって、ユニフォーム姿に変わっていた。
珍しくリトル時代の話なんかしたからだろうか。こんな夢を見ているのは。
ふてくされた顔は相変わらずで、その瞳は生きているのか死んでいるのかさえも分からない。
いよいよ溜め息がこぼれた。
「…あのなあ。お前がそうしてる間に、あいつは遠くで泣いてたんだぞ」
少年は、ぴくりともしなかった。
「いや、涙すら流せなかったのかもしれない。あいつはたったひとり、すべてを失った」
「…失ったのは、俺の方だよ」
黙り込んでいた少年が、虚ろな瞳のまま口を開く。
「今の俺は、たったひとり置いて行かれて…野球やるだけの亡霊だよ。空っぽの世界で…こんなの、いつまで続くの?」
「…」
「いつになったら、はるかは帰ってくるの?」
──ああ、そうだな。
あの頃もこんなふうに、はるかがいない世界に取り残されて、もがくように生きていた。
見えない何かに溺れるように、苦しかった。
そんな自分は世界一孤独だとでも言うような顔をして。
「…そう思うなら、お前から何か声をかけてやればよかっただろ」
電話番号や住所なら、父親に聞けば教えてもらえたはずだ。
なんせ瑛の試合の結果が載った新聞記事を、瑛に黙って送っていたのだから。
「苦しかったのはお前だけじゃないと、なぜ気付けなかった?」
いくら大人びて見えても自分とたった一つしか変わらない、旅立つ少女の抱える不安に、なぜ。
「俺はお前とは違う。悪いけど、置いて行かせてもらうぞ」
一度だけ、虚ろな少年の瞳が揺れた。
「安心しろ。後でちゃんと、迎えに来る」
──“待て”は得意だろ?
野球帽の上から、少年の頭にそっと手を置いて、目を閉じた。
次に目を開けた時、眼前に広がったのは見慣れた寮の天井。
視線を部屋の隅に移すと祥太はまだ寝ているようだ。
寝ぐせもそのままに、ベッドを降りてドアを開けた。
無意識にバットを携えて。
「おはよ」
すぐに繋がった電話の向こうに呼びかける。
『えっ、待って、そっち今何時…?』
日の出前の薄暗い道を歩きながら、耳元に届く慌てた声に微笑む。
「この間、電話出れなくてごめん」
『あ…ううん、忙しいタイミングなの分かってたから。わたしもごめん…』
その声音は至っていつも通り、今までの瑛ならきっとそう思っていただろう。
「あのさ、大学のSNS見たんだけど。何あれ?」
『え?』
ごそごそと音がする。はるか自身も初耳だったのだろうか。
『うわ、なにこれ…』
「聞きてーのこっちだから。誰だよそいつ。何ベタベタ触らせてんの?ちゃんと洗った?」
『え、あ、瑛くん?』
「あと髪!切ったとか聞いてねえんだけど。そういうの、一番に写真送ってくれなきゃ困るんですけど」
『え、っと…』
「化粧した顔とかもさ。すげーかわいい。どういうこと?」
『…あの…瑛さん…?』
次々言い放つと、はるかは戸惑ったり照れたり、きっところころと表情を変えているんだろうと、すべてが伝わってきた。
「…はるかは?何か話したかったこと、あるんじゃねえの」
そう問いかけると、電話の向こうの空気が、変わった。
『…ピアノの先生に、結構ガツンと言われて、ちょっとだけへこんでた』
「…そっか。なんて…?」
『なんか、“お前のは猿がピアノ弾いてるのと同じだ”って…』
「はあ!?」
思わず大きな声が出た。
早朝であることを思い出し、口元を押さえる。
『“再構築”の時から、ある程度は理論的な部分も勉強したつもりだったけど…やっぱりあまりにも感覚だけでやってきてたから。曲そのものの理解だったり、音楽理論ももっと深いところまで理解して弾くことが大事っていうのを痛感してるよ。周りの子は小さい頃からそのへんもしっかりやってきてて、みんなが知ってて当たり前のことを、わたしはなんにも知らない』
淡々と語るはるかの声に、胸が震えた。
今すぐ抱き締めてやれないことが、ひどくもどかしかった。
『“好き!”って気持ちを、独りよがりにぶつけてるだけだって怒られちゃったよ』
「俺はそれが、好きなんだけどな」
自然と口にしていた言葉。
はるかが、息を呑むのが聞こえた。
『…うん、ありがとう。わたしも、それがダメってわけじゃないと思ってるよ。先生が言いたいのも、それ“だけ”じゃダメってことなのかなって』
「どういうこと…?」
『もう少し曲の世界や、一緒に演奏する人たちに寄り添えたら…そしたらきっと、もっと豊かに表現できる。そういうことなんじゃないかなって思うの』
はるかの声は、自然と明るくなっていた。
『それを考えてたら、なんだか吹奏楽を思い出すんだ』
「…確かに、吹部ではちゃんと周りに馴染んでたもんな」
『どういう意味かな?』
「はは、深い意味はねえよ」
はるかは海の向こうで、瑛には想像もつかないようなことを、毎日必死で学んでいる。
もう一度はるかのピアノを聴くとき、それはきっと耳を疑うほどの進化を遂げていることだろう。
「…また、一人で戦わせてしまったな」
少年に豪語した自分が、恥ずかしくなる。
『そんなことないよ、全然…!』
そんな瑛に、はるかは突然声を大きくした。
『メッセージのやり取りができなくても、それってきっと瑛君がまた新しいマメつくってバット振ってるんだろうなあとか、打球を追って駆け回ってるんだろうなあとか、そう思ったら負けてらんないなって思った』
「…」
『でも…全然声聞けないのは、やっぱり寂しいな…わたしが出られなかったせいなんだけど…』
「はるか」
手を伸ばすかわりに、名前を呼んだ。
「好きだ」
抱き締めるかわりに、そう告げた。
『わ…ええと…ふふ。わたしも。瑛くんが、大好きです』
これからは何度だって、電話をしてやろうと思った。
はるかが出られない日が続いても。ほんの1、2分しか話せない時でも。