[Theme 03]3年生編
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まだ学生の姿もまばらな教室で、テキストとにらめっこしながら授業開始を待つ。
英文を読むこと自体は苦ではないが、日本語でも何を言っているかわからない内容である。
気になった言葉を調べようとスマートフォンに手を伸ばすと、甲子園球場で撮ったツーショットが浮かび上がった。
黒土を纏わせたユニフォーム姿の瑛と、明らかに泣いた後の顔をしている自分。
「それ、ボーイフレンド?」
頭上から降ってきた声に、思わず画面を切った。
「隠すことないのに。野球やってるの?」
声の主はそのまま、はるかの隣に座った。
大学にはありとあらゆる国から学生が集まっており、日本人の姿を見かけることもさほど珍しくなかったのは、入学して一番意外に感じたポイントだった。
まさに、目の前の彼のように。
「新入生だよね。俺3年生なんだけど…この授業難しくない?」
「あの…」
先ほどからはるかは何一つ答えていないのに、重ねられていく質問に戸惑う。
男は一瞬はっとしたような表情をして、やわらかく笑った。
「俺、圭 。サックスやってる。日本語でいい?」
「あ、はい。月城 はるかと申します」
「はるか、ね。で、ボーイフレンドは?大学行ってんの?」
「あ、この子はまだ高校生で…」
「え、年下?やるねえ。確かに世話焼いてあげてそう」
出会ったばかりだというのに、矢継ぎ早にあれこれ尋ねてくる勢いには圧倒されてしまうが、久しぶりに聞く日本語はやはりほっとする。
瑛とは割と頻繁に話しているが、電話越しのそれと実生活で聞くのとはまた別物だ。
ふいに、先ほど切った画面が明るくなる。
──“おやすみ。授業中寝るなよ”
やましいことなど何もないのに、どきりとした。
遠く離れた異国の地で、こうして圭と話しているのを見たら間違いなくあの不機嫌な顔をするんだろうなと、思い浮かべると少し笑ってしまった。
昼休み、正也は口に運ぼうとしていたパンを落としそうになった。
「ねえ、今度の練習試合観に行っていい?」
鈴井が瑛の隣に腰掛けて、スマートフォンに目を向けたままの瑛の顔を覗き込むようにして、そう尋ねたのだ。
「日坂君!」
「…何?」
「だから、練習試合!土曜日の。観に行きたいんだけどいい?」
「…」
「鈴井、お前…」
「高原君は黙ってて」
正也に向けられた瑛の視線は、“お前がどうにかしろ”と訴えている。
しかしいくら正也とて、見るからに気の強そうな女子に反抗する勇気はない。
そのまま黙っているといよいよ顎で指図してきた。それでは鈴井にも失礼な胸の内がバレバレだろう。
そんなことは瑛にとってはどうでもいいのかもしれないが。
「まあいいや、勝手に観に行くから。頑張ってね!」
鈴井はそれだけ言って去っていった。
妙な緊張感から解放され、正也が息を吐く。
「…お前、なんか一時期の鎖国具合に戻ってるぞ」
「なんだそれ」
「女の子に優しくしろって怒られたんじゃねーの?」
「は?…呼び出しを無視するなとは言われたけど、他は知らん」
「あー…行間を読めないタイプの人だ…」
鷺嶋高校野球部の12年ぶりの甲子園出場。
この日坂 瑛という男の名はその立役者として、野球に関心のない生徒にも知れ渡っていた。
そして、県大会の決勝で彼が土下座した──ということになっている──“勝利の女神”の存在も。
それがこの春卒業した月城 はるかであるというところまで辿り着いている者は限られるが、少なくともそういった存在がいることは周知の事実。
加えてこの残念な社交性、興味は持っても近付こうとしてくる者は稀だった。
ムカつくことに顔も良いのにもったいない、そんなことを思っていた矢先に、鈴井のような“層”が出現しつつあることを、正也は察知していた。
“勝利の女神”が卒業したことを知っている者。知らずとも、どうでもいいと思っている者。
──こいつはともかく、月城先輩が悲しむようなことにはなって欲しくねえよなあ。
“勝利の女神”に力を与えられていたのは、何も瑛だけではないことも正也は知っているから。
先ほどの不機嫌そうな顔が嘘のように、どうせはるかとメッセージでも眺めているのであろう瑛の脛を蹴り上げて、正也は人知れず決意を新たにしていた。
「瑛先輩ってどういう月城さんがタイプなんですか」
夕食時の食堂で、冬真が尋ねてきた。
「それもう答え出てんだろ」
「ですよね」
聞いた割には興味がなさそうだ。
「クラスの女子に、瑛先輩の好みを聞いてこいって言われました」
「はぁ?なんでだよ」
「…瑛先輩、鈍感なのはいいですけど月城さんを泣かせないでくださいね」
「は?」
「だから、あーいうところで逃げてたらしょうがねえだろ!」
突如として響き渡る怒号。
「逃げてんじゃねえよ!あのなあ、戦略ってもんがあんだよ!バカみてーに決め球ばっかり投げ込むのが野球じゃねんだよ、このバカ!」
「バカって2回言った!バカって言う方がバカって言ってんだろ!バーカ!」
「またはじまった…」
再放送かと思うようなセリフを吐いているのは、もちろん正也。
拓真の後を継ぎ正捕手となった冴島 涼 との言い争いは、新チームとなってからは日常の光景となっていた。
「正也先輩、柳木さんのこと大好きだったもんな…」
「柳木さん、来月もう二軍戦出るんだって?」
数週間前までは怯えていた2年生や1年生もすっかり慣れた様子で見守っている。
話題は自然と、この春プロの世界へ旅立っていった前主将の話へと移り変わっていった。
「…入学してから2年間、ほぼあの人としかバッテリー組んでなかったですからね。無理もないですよ」
冬真もまた、もそもそと米を咀嚼しながら呟いた。
「ちゃんと引退後すぐからいろいろ試してたみたいだけどな。一番実力あんのが、一番合わねえヤツだったってのがな…」
「難しいものですね、バッテリーって」
それでも、何とかしてもらはなくては困る。
センバツでは大炎上、数日前の交流試合でもかなり打ち込まれ、バッテリーの息が合わないというのはこんなにもおそろしいことなのだと、嫌でも思い知らされた。
「うるせえな、あいつら…」
隣から、声が聞こえた。
視線だけを向けると、祥太を中心に3年生の部員たちが何人か集まっていた。
──そこから漂う、ピリ付いているのとも少し違う、なんとなく嫌な空気。
「瑛」
小さく名前を呼んだのは、直哉だった。
何か言おうと乗り出しかけていた身を引く。
瑛は焦燥感を呑み下すように、グラスの水を飲み込んだ。
まだ学生の姿もまばらな教室で、テキストとにらめっこしながら授業開始を待つ。
英文を読むこと自体は苦ではないが、日本語でも何を言っているかわからない内容である。
気になった言葉を調べようとスマートフォンに手を伸ばすと、甲子園球場で撮ったツーショットが浮かび上がった。
黒土を纏わせたユニフォーム姿の瑛と、明らかに泣いた後の顔をしている自分。
「それ、ボーイフレンド?」
頭上から降ってきた声に、思わず画面を切った。
「隠すことないのに。野球やってるの?」
声の主はそのまま、はるかの隣に座った。
大学にはありとあらゆる国から学生が集まっており、日本人の姿を見かけることもさほど珍しくなかったのは、入学して一番意外に感じたポイントだった。
まさに、目の前の彼のように。
「新入生だよね。俺3年生なんだけど…この授業難しくない?」
「あの…」
先ほどからはるかは何一つ答えていないのに、重ねられていく質問に戸惑う。
男は一瞬はっとしたような表情をして、やわらかく笑った。
「俺、
「あ、はい。月城 はるかと申します」
「はるか、ね。で、ボーイフレンドは?大学行ってんの?」
「あ、この子はまだ高校生で…」
「え、年下?やるねえ。確かに世話焼いてあげてそう」
出会ったばかりだというのに、矢継ぎ早にあれこれ尋ねてくる勢いには圧倒されてしまうが、久しぶりに聞く日本語はやはりほっとする。
瑛とは割と頻繁に話しているが、電話越しのそれと実生活で聞くのとはまた別物だ。
ふいに、先ほど切った画面が明るくなる。
──“おやすみ。授業中寝るなよ”
やましいことなど何もないのに、どきりとした。
遠く離れた異国の地で、こうして圭と話しているのを見たら間違いなくあの不機嫌な顔をするんだろうなと、思い浮かべると少し笑ってしまった。
昼休み、正也は口に運ぼうとしていたパンを落としそうになった。
「ねえ、今度の練習試合観に行っていい?」
鈴井が瑛の隣に腰掛けて、スマートフォンに目を向けたままの瑛の顔を覗き込むようにして、そう尋ねたのだ。
「日坂君!」
「…何?」
「だから、練習試合!土曜日の。観に行きたいんだけどいい?」
「…」
「鈴井、お前…」
「高原君は黙ってて」
正也に向けられた瑛の視線は、“お前がどうにかしろ”と訴えている。
しかしいくら正也とて、見るからに気の強そうな女子に反抗する勇気はない。
そのまま黙っているといよいよ顎で指図してきた。それでは鈴井にも失礼な胸の内がバレバレだろう。
そんなことは瑛にとってはどうでもいいのかもしれないが。
「まあいいや、勝手に観に行くから。頑張ってね!」
鈴井はそれだけ言って去っていった。
妙な緊張感から解放され、正也が息を吐く。
「…お前、なんか一時期の鎖国具合に戻ってるぞ」
「なんだそれ」
「女の子に優しくしろって怒られたんじゃねーの?」
「は?…呼び出しを無視するなとは言われたけど、他は知らん」
「あー…行間を読めないタイプの人だ…」
鷺嶋高校野球部の12年ぶりの甲子園出場。
この日坂 瑛という男の名はその立役者として、野球に関心のない生徒にも知れ渡っていた。
そして、県大会の決勝で彼が土下座した──ということになっている──“勝利の女神”の存在も。
それがこの春卒業した月城 はるかであるというところまで辿り着いている者は限られるが、少なくともそういった存在がいることは周知の事実。
加えてこの残念な社交性、興味は持っても近付こうとしてくる者は稀だった。
ムカつくことに顔も良いのにもったいない、そんなことを思っていた矢先に、鈴井のような“層”が出現しつつあることを、正也は察知していた。
“勝利の女神”が卒業したことを知っている者。知らずとも、どうでもいいと思っている者。
──こいつはともかく、月城先輩が悲しむようなことにはなって欲しくねえよなあ。
“勝利の女神”に力を与えられていたのは、何も瑛だけではないことも正也は知っているから。
先ほどの不機嫌そうな顔が嘘のように、どうせはるかとメッセージでも眺めているのであろう瑛の脛を蹴り上げて、正也は人知れず決意を新たにしていた。
「瑛先輩ってどういう月城さんがタイプなんですか」
夕食時の食堂で、冬真が尋ねてきた。
「それもう答え出てんだろ」
「ですよね」
聞いた割には興味がなさそうだ。
「クラスの女子に、瑛先輩の好みを聞いてこいって言われました」
「はぁ?なんでだよ」
「…瑛先輩、鈍感なのはいいですけど月城さんを泣かせないでくださいね」
「は?」
「だから、あーいうところで逃げてたらしょうがねえだろ!」
突如として響き渡る怒号。
「逃げてんじゃねえよ!あのなあ、戦略ってもんがあんだよ!バカみてーに決め球ばっかり投げ込むのが野球じゃねんだよ、このバカ!」
「バカって2回言った!バカって言う方がバカって言ってんだろ!バーカ!」
「またはじまった…」
再放送かと思うようなセリフを吐いているのは、もちろん正也。
拓真の後を継ぎ正捕手となった
「正也先輩、柳木さんのこと大好きだったもんな…」
「柳木さん、来月もう二軍戦出るんだって?」
数週間前までは怯えていた2年生や1年生もすっかり慣れた様子で見守っている。
話題は自然と、この春プロの世界へ旅立っていった前主将の話へと移り変わっていった。
「…入学してから2年間、ほぼあの人としかバッテリー組んでなかったですからね。無理もないですよ」
冬真もまた、もそもそと米を咀嚼しながら呟いた。
「ちゃんと引退後すぐからいろいろ試してたみたいだけどな。一番実力あんのが、一番合わねえヤツだったってのがな…」
「難しいものですね、バッテリーって」
それでも、何とかしてもらはなくては困る。
センバツでは大炎上、数日前の交流試合でもかなり打ち込まれ、バッテリーの息が合わないというのはこんなにもおそろしいことなのだと、嫌でも思い知らされた。
「うるせえな、あいつら…」
隣から、声が聞こえた。
視線だけを向けると、祥太を中心に3年生の部員たちが何人か集まっていた。
──そこから漂う、ピリ付いているのとも少し違う、なんとなく嫌な空気。
「瑛」
小さく名前を呼んだのは、直哉だった。
何か言おうと乗り出しかけていた身を引く。
瑛は焦燥感を呑み下すように、グラスの水を飲み込んだ。
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【正捕手】この場合、レギュラー捕手のこと。