[Theme 03]3年生編
64
「こ、ここが、拓さんの過ごした教室…!」
深呼吸して涙ぐんでいるバカは放っておいて、自分の席に着く。
「なんだか、お馴染みになっちゃったね?」
後ろの席では、既に荷物を整理し終えた様子の渚が微笑んでいた。嬉しそうだ。
3年A組。
彼女が最後に座っていた席は、奇しくも今瑛が座っているその隣だったと記憶している。
「でさー、瑛はどれ?」
気が付けば前の席の生徒はどこかへいなくなっていて、代わりに正也がこちらを向いて座っていた。
「月城先輩の系統なら…うーん、青か?」
掲げられたスマートフォンの画面に、一度だけ視線を向ける。
カラフルな衣装を身に纏った女性たちの写真。
すぐに興味を失って、空になったパンの袋を丸めた。
ちらりと時計を見て、浮かせようとした腰を沈める。
溜め息がこぼれた。
「お前さ…」
正也がふいに真剣な声音で語り掛けるから、思わず視線を合わせた。
「なんか、他の趣味とかあった方がいいんじゃねえの…?」
「は…?んな暇ねえだろ」
「いや、別に時間使うようなことじゃなくてもさ。それこそ好きなアイドルとか、芸能人とか」
「はあ…?」
心底理解できないといった表情を浮かべる瑛に、正也は肩をすくめた。
──まあ、表情が動くだけまだマシか。
「あ。高原君、青色推し?」
思いがけない声が降ってきて、顔を上げる。
通りすがりのクラスメイトが、机の上の画面に目を留めたようだ。
「いや、全然知らん。鈴井好きなの?」
「なんだー、好きなのかと思った。まあ私もにわかだけどね。日坂君は?」
突然話を振られた瑛の表情が歪む。
「興味ない」
正也は数十秒ぶり二度目、肩をすくめた。
「あはは、確かにそんな感じする。テレビとかも観なさそうだし」
「…」
「でもさ、この中だったらどれがタイプ?シンプルに顔だけで」
「…だから、興味ない」
くじけず会話を続けようとするのは珍しいなと思いながら正也が見守っていると、瑛は冷たく言い放って席を立ってしまった。
鈴井もさすがに、去っていく背中を見送るほかなかったようだ。
「ねえ、日坂君って昼休みいつもどこ行ってんの?」
またも思いがけない質問に、正也はためらいがちに鈴井を見る。
言葉を選ぶのに時間がかかってしまった。
“いつも”行っていた場所は、もうどこにも──
「…マジで悪いことは言わねえ。あれはやめとけ」
喧騒に紛れるよう、声を落としてそれだけ伝えることにした。
自販機のボタンをさまよう指が、無意識に缶コーヒーに向かう。
近くのベンチに腰掛けて、プルタブを開けた。
口に含むと、苦味の中にほのかな甘さが広がった。
はるかにとってはこの甘さすら余計だが、缶コーヒーのブラックは飲めたものじゃないから渋々微糖を選んでいると言っていた。
はじめて自販機で缶コーヒーを買っているのを見た時、それまでコーヒーなんて飲んだことなかったのに、自分もそれを選んだことを思い出す。
飲めないなんて思われたくなくて。はるかと同じものを口にしたくて。
風がさわさわと木々を揺らした。
いつもなら、はるかの長い髪が揺れて、爽やかな香りが漂うはずなのに。
隣を見てもそこには誰もいない。
毎日のように昼休みに顔を見に行って、杏里に小言を言われながらはるかをここへ連れ出して。
ただ隣並んで短い会話を交わすのが、瑛にとって本当に大切な時間だった。
杏里からは“お弁当を食べる時間は譲らない”と言われていたので、それはわずか2、30分そこらのことで。
話の内容といえばいつも、瑛の練習や試合のことばかりだった。
それを心から楽しそうに、時には一緒に悩みながら、真っ直ぐに言葉を返してくれるはるかの姿が、心底いとおしかった。
ぬくもりを失ったその場所に、桜の花びらが一片、飛び込んできた。
──“みんなと同じクラスになれた?”
ポケットから出して、その場所に置いていたスマートフォンの画面。
浮かんだメッセージに飛びつくように通知を開いた。
“起きてたの?”
“あぶないところだった”
「…寝てたな、」
思わず声が漏れる。
彼女の世界ではもう、日付が変わる少し前といったところだろう。
睡眠を重視する彼女なので、そんな時間に起きている──半分寝ていたようだが──のは珍しい。
新しい環境に慣れず、眠れていないのだろうか。
そう思いかけて、すぐに気が付いた。
きっとこうして瑛が、彼女の──はるかのいない世界を実感して、心がきりきりと痛むのを、わかっていたから。
“声聞きたい”
“学校ですよ”
“はるかは違うじゃん”
少し、間が空く。
やがて綴られた文字に、胸が詰まった。
“眠れなくなっちゃうから、また夜ね”
“夜”というのは、たぶんこちらの時間だろう。
──わたしだって、怖いよ
たった一度だけ、寮の部屋に連れ込んだ日のことを思い出した。
応える言葉を見つけられずに、暗くなった画面にもう一度触れる。
あの夏の日からずっとロック画面にしている、甲子園球場でのツーショットが、遠い昔の出来事のように感じられた。
「こ、ここが、拓さんの過ごした教室…!」
深呼吸して涙ぐんでいるバカは放っておいて、自分の席に着く。
「なんだか、お馴染みになっちゃったね?」
後ろの席では、既に荷物を整理し終えた様子の渚が微笑んでいた。嬉しそうだ。
3年A組。
彼女が最後に座っていた席は、奇しくも今瑛が座っているその隣だったと記憶している。
「でさー、瑛はどれ?」
気が付けば前の席の生徒はどこかへいなくなっていて、代わりに正也がこちらを向いて座っていた。
「月城先輩の系統なら…うーん、青か?」
掲げられたスマートフォンの画面に、一度だけ視線を向ける。
カラフルな衣装を身に纏った女性たちの写真。
すぐに興味を失って、空になったパンの袋を丸めた。
ちらりと時計を見て、浮かせようとした腰を沈める。
溜め息がこぼれた。
「お前さ…」
正也がふいに真剣な声音で語り掛けるから、思わず視線を合わせた。
「なんか、他の趣味とかあった方がいいんじゃねえの…?」
「は…?んな暇ねえだろ」
「いや、別に時間使うようなことじゃなくてもさ。それこそ好きなアイドルとか、芸能人とか」
「はあ…?」
心底理解できないといった表情を浮かべる瑛に、正也は肩をすくめた。
──まあ、表情が動くだけまだマシか。
「あ。高原君、青色推し?」
思いがけない声が降ってきて、顔を上げる。
通りすがりのクラスメイトが、机の上の画面に目を留めたようだ。
「いや、全然知らん。鈴井好きなの?」
「なんだー、好きなのかと思った。まあ私もにわかだけどね。日坂君は?」
突然話を振られた瑛の表情が歪む。
「興味ない」
正也は数十秒ぶり二度目、肩をすくめた。
「あはは、確かにそんな感じする。テレビとかも観なさそうだし」
「…」
「でもさ、この中だったらどれがタイプ?シンプルに顔だけで」
「…だから、興味ない」
くじけず会話を続けようとするのは珍しいなと思いながら正也が見守っていると、瑛は冷たく言い放って席を立ってしまった。
鈴井もさすがに、去っていく背中を見送るほかなかったようだ。
「ねえ、日坂君って昼休みいつもどこ行ってんの?」
またも思いがけない質問に、正也はためらいがちに鈴井を見る。
言葉を選ぶのに時間がかかってしまった。
“いつも”行っていた場所は、もうどこにも──
「…マジで悪いことは言わねえ。あれはやめとけ」
喧騒に紛れるよう、声を落としてそれだけ伝えることにした。
自販機のボタンをさまよう指が、無意識に缶コーヒーに向かう。
近くのベンチに腰掛けて、プルタブを開けた。
口に含むと、苦味の中にほのかな甘さが広がった。
はるかにとってはこの甘さすら余計だが、缶コーヒーのブラックは飲めたものじゃないから渋々微糖を選んでいると言っていた。
はじめて自販機で缶コーヒーを買っているのを見た時、それまでコーヒーなんて飲んだことなかったのに、自分もそれを選んだことを思い出す。
飲めないなんて思われたくなくて。はるかと同じものを口にしたくて。
風がさわさわと木々を揺らした。
いつもなら、はるかの長い髪が揺れて、爽やかな香りが漂うはずなのに。
隣を見てもそこには誰もいない。
毎日のように昼休みに顔を見に行って、杏里に小言を言われながらはるかをここへ連れ出して。
ただ隣並んで短い会話を交わすのが、瑛にとって本当に大切な時間だった。
杏里からは“お弁当を食べる時間は譲らない”と言われていたので、それはわずか2、30分そこらのことで。
話の内容といえばいつも、瑛の練習や試合のことばかりだった。
それを心から楽しそうに、時には一緒に悩みながら、真っ直ぐに言葉を返してくれるはるかの姿が、心底いとおしかった。
ぬくもりを失ったその場所に、桜の花びらが一片、飛び込んできた。
──“みんなと同じクラスになれた?”
ポケットから出して、その場所に置いていたスマートフォンの画面。
浮かんだメッセージに飛びつくように通知を開いた。
“起きてたの?”
“あぶないところだった”
「…寝てたな、」
思わず声が漏れる。
彼女の世界ではもう、日付が変わる少し前といったところだろう。
睡眠を重視する彼女なので、そんな時間に起きている──半分寝ていたようだが──のは珍しい。
新しい環境に慣れず、眠れていないのだろうか。
そう思いかけて、すぐに気が付いた。
きっとこうして瑛が、彼女の──はるかのいない世界を実感して、心がきりきりと痛むのを、わかっていたから。
“声聞きたい”
“学校ですよ”
“はるかは違うじゃん”
少し、間が空く。
やがて綴られた文字に、胸が詰まった。
“眠れなくなっちゃうから、また夜ね”
“夜”というのは、たぶんこちらの時間だろう。
──わたしだって、怖いよ
たった一度だけ、寮の部屋に連れ込んだ日のことを思い出した。
応える言葉を見つけられずに、暗くなった画面にもう一度触れる。
あの夏の日からずっとロック画面にしている、甲子園球場でのツーショットが、遠い昔の出来事のように感じられた。