[coda]それからの話
105
街に穴が開いたようなその隙間から、階段を下りて地下深くへ。
建付けの悪い扉を開けば、一気に溢れてくる音の洪水。
広い空間のいくつものテーブルに囲まれた、ステージの上にひしめき合う人々。
サックスやトランペット、ウッドベース、それぞれが己の“相棒”たる楽器を抱えている。
そんな人々が代わりばんこに己の力量を、熱量を披露していく。
その真ん中で、静かに椅子に腰かける女性がひとり。
鍵盤の上に時折指を躍らせては、唇がそっと弧を描く。
高らかに音を響かせていた男がちらりと目くばせをした瞬間、女性は瞳をきらきらと揺らして、鍵盤に手を伸ばした。
一瞬でその場を支配する、小さく、力強い指。
そこから飛び出していく音は変わらず、意気揚々と弾んでいた。
たくさんの人に囲まれ、談笑する姿をじっと眺める。
高校時代よりも一層洗練された美しさをたたえる顔 には華やかな化粧が施され、星空のような瞳の輝きがさらに引き立てられている。
彼女が今日のような演奏の場で度々着ているドレスは、落ち着いた色合いながらデコルテが広く開いていて、白い肌と艶やかな髪のコントラストが眩しい。
瑛が贈ったネックレスがよく似合っている。
──そんな姿晒して、俺のことはいつまでほったらかしだよ。
「はるかちゃんさ、僕と一緒にアメリカ回ってみない?」
今夜ステージに上がったミュージシャンたちの中で、著しく若く見えた男がはるかに声をかけた。
並んでいる絵面を見るに、はるかと同世代くらいだろうか。
「ピアノの人とデュオでやってみたかったんだけど、なかなかピンとくる人いなくてさ」
「デュオ、ですか」
「うん。二人でいろいろ新しいこと試してみたい。君にとってすごくいい経験になると思うよ」
“二人で”、“いろいろ新しいこと”?
瑛にはどうしてもいかがわしい言葉に聞こえてしまい、眉根を寄せる。
幼い頃からセッションの場で育ってきたはるかだから、これからも誰かと一緒に演奏をするということは当然あり得ることだし、むしろそれが日常だと理解している。
時には二人で、ということだって。
それを彼女が望んでいて、彼女にとって本当に意味のあることなんだとしたら、奥歯を噛み砕いてでも我慢しようと心に決めていたけれど。
「…はるか」
そっと近づいて、声をかける。
振り向いたはるかは、なぜだか少しだけ呆れたような目をして、笑みをこぼした。
「先、帰った方がいい?」
「え?」
はるかに問いかけた言葉に、隣の男が声を漏らす。
「ううん、もう少ししたら帰るよ。ごめんね」
じっと見つめる男に構わず、はるかは瑛を見上げた。
「おお、これがはるかちゃんの彼氏君か!」
周りにいたミュージシャンたちが、瑛を見るなり頷いた。
「えらいガタイ良いなあ、何かやってるの?」
「ん?あれ、あの子に似てない?ハリアーズの…」
「ああ、ショートの?確かに…」
まさか、という視線が集まる中、口を開く。
「本人です。たぶん」
どよめきが上がった。
テーブルについていた人々も何事かと振り返るが、すぐに視線がばらけていく。
「えええ、すごいね…だからハリアーズファンなの?」
「それは違います!ちっちゃい頃からの筋金入りです!」
「そんなに否定されると傷付くんだけど…」
「彼氏君、アメリカ行く前からって言ってなかったっけ?それじゃあ好きな球団にたまたま彼氏君が入ったってこと?」
「そうっすね。こいつの呪いで」
「の、呪い…」
「え…アメリカ…?」
すっかり蚊帳の外になっていた先ほどの男が、唖然とした顔で呟いた。
「あはは、二宮君、残念だけどアメリカなら君よりはるかちゃんの方がよく知ってると思うよ!」
あっけらかんとした女性の言葉に、男はとうとう何も言えずに去っていった。
「はあ、やっぱりひやひやするなあ」
はるかは帰りつくなりスマートフォンを眺めはじめて、ドレス姿のままラグの上に座り込んでいる。
無意識にソファではなくその場所を選ぶのは、大抵何か焦っている時だ。
「…何が?」
華奢な背中のすぐ後ろに腰を下ろして、画面を覗き込む。
SNSで瑛の名前を検索しているようだ。
今日あの場所にいた誰かが目撃情報を投稿していないか心配しているのだろう。
なんだそんなことか、と合点した瑛ははるかの長い髪を肩の向こうに流して、ドレスのファスナーを弄ぶ。
「こらこら、何してるの!」
「え?服が邪魔だなって」
「何言ってるの!瑛君の心配してるんだからね!」
はるかはスマートフォンを置いて、ファスナーを隠すように瑛の方へ振り返った。
かえってこの方がいろいろできて瑛には好都合だけれど。
「別にもういいって言ってんじゃん。どうせあと数日で言うんだし」
「あと数日だからこそだよ!公式が出すのと第三者から漏れるのとじゃ、全然違うよ!今日も来るのはいいけど、会場内で話しかけちゃダメだよって言ったのに…あんな顔で来られたら、まあいいかって思っちゃったけど」
「どんな顔だよ」
「ふふ。こんな顔」
つん、と頬をつつかれる。
やっぱり今すぐその背に腕を回して、ファスナーを下ろしてしまおうか。
「…しかもなんだよ、“彼氏君”って」
「あ、ごめん…絶対に絶対に瑛くんであるということは分からないように、存在だけは、聞かれたら答えてました…」
「いや、それはそれでいいんだけど。ていうか俺だって分かってもいいんだけど」
はるかを抱き寄せながら、壁際の棚を見上げる。
レコードのそばに大切に飾られた、大粒のダイヤモンド。
数日後、その写真を瑛のSNSに載せてしまえば、瑛に気を遣いすぎるあまり外ではまったく近付かせてくれないはるかもさすがに観念してくれるだろう。
「ふふ。瑛くんは、だいぶ社交的になったと思うけど…お家にいる時は、もっと甘えん坊さんになったかな?」
また何か顔に出ていたのだろうか。
はるかがおもむろに立ち上がり、瑛の手を引く。
「おいで、瑛くん」
つられるまま瑛も立ち上がって、はるかのやわらかな笑顔を追いかけた。
ガラス張りの扉を開ける。
父の部屋にあったものより一回りほど小さなグランドピアノの、鍵盤の蓋を開く。
「不機嫌な甘えん坊さんに、おとぎ話を聴かせてあげましょう」
ガラスの中のこの空間だけ。
ふたりだけに聴こえる音色が、長い夜のはじまりを告げた。
街に穴が開いたようなその隙間から、階段を下りて地下深くへ。
建付けの悪い扉を開けば、一気に溢れてくる音の洪水。
広い空間のいくつものテーブルに囲まれた、ステージの上にひしめき合う人々。
サックスやトランペット、ウッドベース、それぞれが己の“相棒”たる楽器を抱えている。
そんな人々が代わりばんこに己の力量を、熱量を披露していく。
その真ん中で、静かに椅子に腰かける女性がひとり。
鍵盤の上に時折指を躍らせては、唇がそっと弧を描く。
高らかに音を響かせていた男がちらりと目くばせをした瞬間、女性は瞳をきらきらと揺らして、鍵盤に手を伸ばした。
一瞬でその場を支配する、小さく、力強い指。
そこから飛び出していく音は変わらず、意気揚々と弾んでいた。
たくさんの人に囲まれ、談笑する姿をじっと眺める。
高校時代よりも一層洗練された美しさをたたえる
彼女が今日のような演奏の場で度々着ているドレスは、落ち着いた色合いながらデコルテが広く開いていて、白い肌と艶やかな髪のコントラストが眩しい。
瑛が贈ったネックレスがよく似合っている。
──そんな姿晒して、俺のことはいつまでほったらかしだよ。
「はるかちゃんさ、僕と一緒にアメリカ回ってみない?」
今夜ステージに上がったミュージシャンたちの中で、著しく若く見えた男がはるかに声をかけた。
並んでいる絵面を見るに、はるかと同世代くらいだろうか。
「ピアノの人とデュオでやってみたかったんだけど、なかなかピンとくる人いなくてさ」
「デュオ、ですか」
「うん。二人でいろいろ新しいこと試してみたい。君にとってすごくいい経験になると思うよ」
“二人で”、“いろいろ新しいこと”?
瑛にはどうしてもいかがわしい言葉に聞こえてしまい、眉根を寄せる。
幼い頃からセッションの場で育ってきたはるかだから、これからも誰かと一緒に演奏をするということは当然あり得ることだし、むしろそれが日常だと理解している。
時には二人で、ということだって。
それを彼女が望んでいて、彼女にとって本当に意味のあることなんだとしたら、奥歯を噛み砕いてでも我慢しようと心に決めていたけれど。
「…はるか」
そっと近づいて、声をかける。
振り向いたはるかは、なぜだか少しだけ呆れたような目をして、笑みをこぼした。
「先、帰った方がいい?」
「え?」
はるかに問いかけた言葉に、隣の男が声を漏らす。
「ううん、もう少ししたら帰るよ。ごめんね」
じっと見つめる男に構わず、はるかは瑛を見上げた。
「おお、これがはるかちゃんの彼氏君か!」
周りにいたミュージシャンたちが、瑛を見るなり頷いた。
「えらいガタイ良いなあ、何かやってるの?」
「ん?あれ、あの子に似てない?ハリアーズの…」
「ああ、ショートの?確かに…」
まさか、という視線が集まる中、口を開く。
「本人です。たぶん」
どよめきが上がった。
テーブルについていた人々も何事かと振り返るが、すぐに視線がばらけていく。
「えええ、すごいね…だからハリアーズファンなの?」
「それは違います!ちっちゃい頃からの筋金入りです!」
「そんなに否定されると傷付くんだけど…」
「彼氏君、アメリカ行く前からって言ってなかったっけ?それじゃあ好きな球団にたまたま彼氏君が入ったってこと?」
「そうっすね。こいつの呪いで」
「の、呪い…」
「え…アメリカ…?」
すっかり蚊帳の外になっていた先ほどの男が、唖然とした顔で呟いた。
「あはは、二宮君、残念だけどアメリカなら君よりはるかちゃんの方がよく知ってると思うよ!」
あっけらかんとした女性の言葉に、男はとうとう何も言えずに去っていった。
「はあ、やっぱりひやひやするなあ」
はるかは帰りつくなりスマートフォンを眺めはじめて、ドレス姿のままラグの上に座り込んでいる。
無意識にソファではなくその場所を選ぶのは、大抵何か焦っている時だ。
「…何が?」
華奢な背中のすぐ後ろに腰を下ろして、画面を覗き込む。
SNSで瑛の名前を検索しているようだ。
今日あの場所にいた誰かが目撃情報を投稿していないか心配しているのだろう。
なんだそんなことか、と合点した瑛ははるかの長い髪を肩の向こうに流して、ドレスのファスナーを弄ぶ。
「こらこら、何してるの!」
「え?服が邪魔だなって」
「何言ってるの!瑛君の心配してるんだからね!」
はるかはスマートフォンを置いて、ファスナーを隠すように瑛の方へ振り返った。
かえってこの方がいろいろできて瑛には好都合だけれど。
「別にもういいって言ってんじゃん。どうせあと数日で言うんだし」
「あと数日だからこそだよ!公式が出すのと第三者から漏れるのとじゃ、全然違うよ!今日も来るのはいいけど、会場内で話しかけちゃダメだよって言ったのに…あんな顔で来られたら、まあいいかって思っちゃったけど」
「どんな顔だよ」
「ふふ。こんな顔」
つん、と頬をつつかれる。
やっぱり今すぐその背に腕を回して、ファスナーを下ろしてしまおうか。
「…しかもなんだよ、“彼氏君”って」
「あ、ごめん…絶対に絶対に瑛くんであるということは分からないように、存在だけは、聞かれたら答えてました…」
「いや、それはそれでいいんだけど。ていうか俺だって分かってもいいんだけど」
はるかを抱き寄せながら、壁際の棚を見上げる。
レコードのそばに大切に飾られた、大粒のダイヤモンド。
数日後、その写真を瑛のSNSに載せてしまえば、瑛に気を遣いすぎるあまり外ではまったく近付かせてくれないはるかもさすがに観念してくれるだろう。
「ふふ。瑛くんは、だいぶ社交的になったと思うけど…お家にいる時は、もっと甘えん坊さんになったかな?」
また何か顔に出ていたのだろうか。
はるかがおもむろに立ち上がり、瑛の手を引く。
「おいで、瑛くん」
つられるまま瑛も立ち上がって、はるかのやわらかな笑顔を追いかけた。
ガラス張りの扉を開ける。
父の部屋にあったものより一回りほど小さなグランドピアノの、鍵盤の蓋を開く。
「不機嫌な甘えん坊さんに、おとぎ話を聴かせてあげましょう」
ガラスの中のこの空間だけ。
ふたりだけに聴こえる音色が、長い夜のはじまりを告げた。