[coda]それからの話
104
窓の外は、絵に描いたような桜並木。
あまり眠れなかったけれど、それでも昂る身体を座席に預ける。
イヤホンから流れる音楽が心地良い。
「それ、いつも何聴いてんの?」
食事を摂っていると、背後からスマートフォンを覗き込まれた。
「ピアノ?」
鍵盤を踊る手元だけが映し出された画面。
瑛はしぶしぶイヤホンを片方取って、振り返った。
「あ、それ前にバズってたやつじゃない?まりんちゃんがリポストしてて」
「ああー、なんか見た気がする。手元しか出してないけど実はめっちゃかわいいみたいな」
どうやら覗き込んでいたのは一人ではなかったらしい。
顔を見合わせる先輩二人を見上げながら、瑛は口を開いた。
「“めっちゃかわいい”っすよ。ホントに」
「え…?」
その数時間後、瑛はひとり、暗闇の中にいた。
自分の手元すら見えないほどに、すべての光を遮る暗幕の向こうでは、昔から巷でよく聴く音楽が爆音で流れている。
中でも特に有名なフレーズへ差し掛かった瞬間、暗幕が消えた。
心許なく立ち竦んでいた自分の姿が、突如何万人もの視線に晒される。
毎年のド派手な演出にある程度の覚悟はしていたが、それを余裕で上回るほどに、とてつもなく恥ずかしい。
『1番、センターフィールダー・江藤 佑人!』
アナウンスとともに、チームメイトが駆け出していく。
BGMにも負けない大歓声がそれを迎える。
一人、また一人と駆け出していくたびに妙な緊張感が走る。
こんなものはいいから早く試合をさせて欲しい。
『6番』
ついに、その打順がドーム型の球場に響き渡る。
奇しくも、高校時代に背負っていた番号と同じ数字。
おそらく大画面に映し出されているだろう、明らかに引き攣った自分の顔面を見て、彼女は笑っているんだろうか。
それとも、泣いているんだろうか。
『ショートストップ・日坂 瑛!』
先輩たちには圧倒的に負けるけど、思ったより大きな歓声に包まれながら、ステップを降りる。
そしてそのフィールドを、しっかりと踏みしめた。
モニュメントのそばに先輩たちが並ぶ場所へと、足早に駆けていく。
既に次の打者が呼ばれ、観衆の視線はそちらへ移ってくれていることだろう。
だけど、きっと彼女はまだ、自分だけを見つめてくれているだろうから。
最後は少しだけ、歩幅を緩めた。
再び瑛の名前が球場に響いた時、スピード感のある特徴的なフレーズがそれに続いた。
ポップスやEDMが主流の登場曲に、選んだのはジャズ・ナンバー。
カルテットの中心で踊るように音を紡ぐピアノは、もちろん──
はじめてフィールドで聞いたその音には、想像以上に奮い立たされるものがあった。
見事なエース対決となりつつある開幕戦、三塁には主砲の姿。
力の入ったチャンステーマが、360度、全方位から聞こえてくる。
プレッシャーを感じないわけでは、まったくないけれど。
不思議と気持ちは落ち着いていた。
再びはるかのいない日常がはじまり、まるで永遠のように感じられた3年間が、今日でようやく終わりを告げるのだと思うと。
乾いた音が響いた。
伸びてゆく打球を、歓声が追う。
全力で走りつつももしかして、と思ったその球は、フェンスギリギリで掴まれてしまった。
見覚えのある、ニヤついた顔。
視界の端で主砲がスタートを切った。
滑り込んだ瞬間、屋根が割れるんじゃないかと思うような歓声。
スタメンとして迎えるはじめてのシーズン、その初打席で初ヒットという幸先の良いスタートを、高校以来の“因縁の相手”に阻まれてしまうとは。
苦々しい気持ちが過りつつも、最低限の仕事はできたと切り替えることにした。
シーズンは長い。
このまま何事もなければ、昨年とは桁違いの試合数を戦うことになるのだ。
──いつか必ず、その笑顔をもう一度歪ませてやろう。
球場の喧騒と対照的な、静かな住宅街でタクシーを降りる。
薄手のスウェットシャツ一枚で出たが、夜はまだ少し肌寒い。
ようやく慣れてきた帰り道を急いだ。
マンションのエントランスを通り抜け、エレベーターに乗り込む。
数週間前に球団寮を出て移り住んだ部屋には、寮や実家から持ち込んだ荷物と、新調した家具がなかなか整理しきれていないままになっている。
英語だらけの送り状で届いた、いくつかの荷物も。
もちろん鍵は持っているが、インターホンを鳴らした。
扉を開けて、出迎えて欲しくて。
少しの間が空いて、時間も時間だし寝ているのかもしれないと思い立った。
寝顔を想像しながらポケットの鍵を取り出していると、きっと開かないだろうと思った扉が、ゆっくりと動いた。
「あ」
ふたり同時に、こぼれた声。
タクシーの中であれこれと思い浮かべていた思考も、何もかも、頭の中が真っ白になった。
「…えっと、おかえり!」
先に我に返ったはるかが、周囲を気にしながら、囁くように言った。
次の瞬間には腕を伸ばして、待ち焦がれたその姿をきつく抱き締めていた。
「おかえり。はるか」
そっと背中に回った小さな手のぬくもりが、夢ではないと知らせてくれる。
「ただいま」
またしてもふたりの声が重なった。
顔を見合わせてはつい笑みがこぼれて、そのままキスをした。
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窓の外は、絵に描いたような桜並木。
あまり眠れなかったけれど、それでも昂る身体を座席に預ける。
イヤホンから流れる音楽が心地良い。
「それ、いつも何聴いてんの?」
食事を摂っていると、背後からスマートフォンを覗き込まれた。
「ピアノ?」
鍵盤を踊る手元だけが映し出された画面。
瑛はしぶしぶイヤホンを片方取って、振り返った。
「あ、それ前にバズってたやつじゃない?まりんちゃんがリポストしてて」
「ああー、なんか見た気がする。手元しか出してないけど実はめっちゃかわいいみたいな」
どうやら覗き込んでいたのは一人ではなかったらしい。
顔を見合わせる先輩二人を見上げながら、瑛は口を開いた。
「“めっちゃかわいい”っすよ。ホントに」
「え…?」
その数時間後、瑛はひとり、暗闇の中にいた。
自分の手元すら見えないほどに、すべての光を遮る暗幕の向こうでは、昔から巷でよく聴く音楽が爆音で流れている。
中でも特に有名なフレーズへ差し掛かった瞬間、暗幕が消えた。
心許なく立ち竦んでいた自分の姿が、突如何万人もの視線に晒される。
毎年のド派手な演出にある程度の覚悟はしていたが、それを余裕で上回るほどに、とてつもなく恥ずかしい。
『1番、センターフィールダー・江藤 佑人!』
アナウンスとともに、チームメイトが駆け出していく。
BGMにも負けない大歓声がそれを迎える。
一人、また一人と駆け出していくたびに妙な緊張感が走る。
こんなものはいいから早く試合をさせて欲しい。
『6番』
ついに、その打順がドーム型の球場に響き渡る。
奇しくも、高校時代に背負っていた番号と同じ数字。
おそらく大画面に映し出されているだろう、明らかに引き攣った自分の顔面を見て、彼女は笑っているんだろうか。
それとも、泣いているんだろうか。
『ショートストップ・日坂 瑛!』
先輩たちには圧倒的に負けるけど、思ったより大きな歓声に包まれながら、ステップを降りる。
そしてそのフィールドを、しっかりと踏みしめた。
モニュメントのそばに先輩たちが並ぶ場所へと、足早に駆けていく。
既に次の打者が呼ばれ、観衆の視線はそちらへ移ってくれていることだろう。
だけど、きっと彼女はまだ、自分だけを見つめてくれているだろうから。
最後は少しだけ、歩幅を緩めた。
再び瑛の名前が球場に響いた時、スピード感のある特徴的なフレーズがそれに続いた。
ポップスやEDMが主流の登場曲に、選んだのはジャズ・ナンバー。
カルテットの中心で踊るように音を紡ぐピアノは、もちろん──
はじめてフィールドで聞いたその音には、想像以上に奮い立たされるものがあった。
見事なエース対決となりつつある開幕戦、三塁には主砲の姿。
力の入ったチャンステーマが、360度、全方位から聞こえてくる。
プレッシャーを感じないわけでは、まったくないけれど。
不思議と気持ちは落ち着いていた。
再びはるかのいない日常がはじまり、まるで永遠のように感じられた3年間が、今日でようやく終わりを告げるのだと思うと。
乾いた音が響いた。
伸びてゆく打球を、歓声が追う。
全力で走りつつももしかして、と思ったその球は、フェンスギリギリで掴まれてしまった。
見覚えのある、ニヤついた顔。
視界の端で主砲がスタートを切った。
滑り込んだ瞬間、屋根が割れるんじゃないかと思うような歓声。
スタメンとして迎えるはじめてのシーズン、その初打席で初ヒットという幸先の良いスタートを、高校以来の“因縁の相手”に阻まれてしまうとは。
苦々しい気持ちが過りつつも、最低限の仕事はできたと切り替えることにした。
シーズンは長い。
このまま何事もなければ、昨年とは桁違いの試合数を戦うことになるのだ。
──いつか必ず、その笑顔をもう一度歪ませてやろう。
球場の喧騒と対照的な、静かな住宅街でタクシーを降りる。
薄手のスウェットシャツ一枚で出たが、夜はまだ少し肌寒い。
ようやく慣れてきた帰り道を急いだ。
マンションのエントランスを通り抜け、エレベーターに乗り込む。
数週間前に球団寮を出て移り住んだ部屋には、寮や実家から持ち込んだ荷物と、新調した家具がなかなか整理しきれていないままになっている。
英語だらけの送り状で届いた、いくつかの荷物も。
もちろん鍵は持っているが、インターホンを鳴らした。
扉を開けて、出迎えて欲しくて。
少しの間が空いて、時間も時間だし寝ているのかもしれないと思い立った。
寝顔を想像しながらポケットの鍵を取り出していると、きっと開かないだろうと思った扉が、ゆっくりと動いた。
「あ」
ふたり同時に、こぼれた声。
タクシーの中であれこれと思い浮かべていた思考も、何もかも、頭の中が真っ白になった。
「…えっと、おかえり!」
先に我に返ったはるかが、周囲を気にしながら、囁くように言った。
次の瞬間には腕を伸ばして、待ち焦がれたその姿をきつく抱き締めていた。
「おかえり。はるか」
そっと背中に回った小さな手のぬくもりが、夢ではないと知らせてくれる。
「ただいま」
またしてもふたりの声が重なった。
顔を見合わせてはつい笑みがこぼれて、そのままキスをした。
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※その後の話を番外編に入れています。読まなくてもストーリー上支障はありませんが、ご興味がありましたらぜひ。
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■瑛の登場曲
Spain/Chick Corea
ちなみに暗幕がどうのという部分は、開幕セレモニーです。
ド派手に登場させられる選手の皆さんが明らかに恥ずかしそうにしてて、毎年微笑ましいです。
【センターフィールダー】センター、中堅手のこと。
【ショートストップ】ショート、遊撃手のこと。
プロ野球のスタメン発表等では、ポジションを英語呼びすることが多々あります。