[Theme 02]2年生編
62
今年も桜の蕾がまだ開き切らないその日、鷺嶋高校には数多くのマスコミの姿があった。
講堂の中にもカメラが立ち並び、3年A組の生徒たちがエントランスに姿を現すなりシャッターが次々と光った。
「すげーな、拓さん有名人じゃん!」
「はるかが写ったらどうしてくれるんだ」
もはや“騒動”といってもいいその様子を遠巻きに眺めながら、呟く。
「後でグラウンド来る時もついてくんのかな…俺と拓さんの感動のシーンが全国放送されちゃう…?」
極めて余計な心配をしている正也には、溜め息を一つ返しておいた。
「私もそっちいくし、おはるも帰ってくる時は絶対連絡ちょうだい!黙って帰ってきたら許さん!」
「うんうん。一緒にボールパーク行こうね」
「え!?い、いかねーし!!」
杏里も無事に志望大への合格を果たしたらしく、この春鷺嶋を出るという。
目も鼻も真っ赤にしながら、本日何枚目か分からない、はるかとの写真を撮っていた。
「ねえ、そろそろちょっといいかな」
そんなふたりのもとへ、千景が顔を出した。
杏里は信じられないものを見た、といった顔で見上げている。
「週末食事会あるんでしょ?僕、それ行けないからさ。今日のところは譲ってよ」
「“今日のところは”だァ?今日という日がめちゃくちゃ重要なんですけど!?」
「分かった分かった、じゃあ10分だけ」
ぎゃあぎゃあと騒ぐ杏里にそう諭して、千景がはるかに微笑みかける。
はるかは首を傾げながらも、ついていくことにした。
「野球部は、いいの?」
「大丈夫、行くよ。今は拓真のことですごいことになってるだろうから、落ち着いたタイミングでね」
久しぶりかつ、最後の学校をしみじみと実感する間もなく記者たちに追いかけ回されていた姿を思い出しながら、千景に続いて部屋に入る。
そこはいつだったか千景のお気に入りだと言っていた、図書室の書庫。
とんでもない話を聞かれてしまったベンチの、真上にある場所。
「…はるかちゃん」
いろいろと思い出してひとり恥ずかしくなっていたはるかの名前を、千景が呼んだ。
相変わらず涼やかで、どうにも他の人とは違う雰囲気を漂わせる、その笑顔。
「僕は、君が好きだよ」
校内に充満するどこか浮足立った空気が、一気に遠ざかっていった。
「ほとんど、一目惚れだったよ。美術の時間に、絵を描く横顔に惹かれた」
呆然と立ち尽くすはるかに、千景は変わらず穏やかな声で続ける。
「特に、瞳がすごくきれいで。どこか虚ろで、引き込まれそうなほど深くて、まるで宇宙みたいだった。それだってじっと見つめてしまうくらいに美しかったけど、いつからか、もっときらきらして見えるようになった」
美術室で会うだけの、まさか野球部員だとは思いもしなかった頃よりも日に焼けた顔が、はるかを見つめている。
「その理由に気が付かないほどバカじゃなかったけど。でも…それでも惹かれた。こんな僕でも、そんな瞳で一生懸命見つめてくれて、嬉しくないはずがなかった」
「え…」
「足だけの男。塁にさえ出さなければ怖くない。僕はそんな男だよ、拓真や瑛と違ってね」
そんなことはない、そんなセリフは軽々しく感じられてしまうほど、千景の表情には複雑な思いが感じられた。
きっと、チームメイトたちも見たことがないほどに。
「結構、打撃の調子上げてきてたんだけどねえ。いざって時に打てないんじゃ、やっぱりダメだよ。悔しいけどこれが僕の現在地。それは認めなくちゃいけない」
「…」
「それでも僕はこの夏を、誇りに思うよ」
再びはるかを見つめたのは、とても強い瞳だった。
「今の自分の限界まで挑戦したこと。最高の仲間たちと戦えたこと。はるかちゃんに、全力で応援してもらえるような野球ができたこと。現時点ではそれで十分かな」
──それがワクワクするんだよ!やっぱり足が速い子がいるチームは面白いよね
「応援してくれてありがとう。君を好きでいて、僕は幸せだったよ」
何も、言えなかった。
今日という日が近付くにつれて、こうして誰かに思いを伝えられることが増えた。
その誰よりも深く、強い何かを感じさせる千景に、かけられる言葉は一つも見つからなくて。
いつだって凪いだ海のようだったその瞳が、小さく揺れるのを見つめることしかできなかった。
「…大学では、もっと打撃を磨いていきたいと思ってる。もちろん、足をもっと活かせる走塁とか、守備もね。それから拓真や、瑛の背中を追って…追い越せるように、頑張るよ」
千景はそう語って、尚も口をつぐんだままのはるかに微笑みかけた。
「それにしてもびっくりした。アメリカの音大に行くなんて。瑛、毎日泣いて暮らすんじゃないの?」
「そ、れは…」
「時々顔出して、かわいがってあげるから安心して」
その笑顔は、もうすっかりいつも通りだった。
「さて、そろそろ秋山さんに怒られるかな?」
「あ、あの…千景君」
時計を見て肩をすくめた千景に、はるかが口を開く。
「みんなが、また一緒にプレーしてるとこ見るの、楽しみにしてる!」
千景はもう一度だけ瞳を揺らして、思い切り笑った。
「というわけで、フラれちゃったんだよねえ」
「…は…?」
拓真のコメントを押さえたマスコミがようやく帰っていった頃、千景はひょっこりと現れたかと思うと瑛にそんなことを言ってきた。
「“はるかちゃんも頑張れ”って、言えなかったなあ。きっとそういうところだよね、僕って」
「あの…」
「あんな素敵な子を遠い国からつかまえておかなきゃいけないなんて、ホントこれから大変だね。捨てられたら笑ってあげるから、教えてよ」
こういう意図の読めない、鼻につく言い方が苦手だった。
だけど今なら、その裏に隠された何かが、少しだけ分かる気がする。
「チカさん」
「うん?」
「ありがとうございました」
深々と、頭を下げる。
しばらくして、そっと頭を上げようとしたら、がっしりと掴まれてしまった。
「な、何すか…」
「瑛は最初からセンスあるなって思ってたけど…この2年で一番成長したのも、瑛だと思うよ。僕ら3年だけじゃ、甲子園には行けなかったかな。ムカつくけど」
「え…」
「もちろん、2年だけでも無理だったと思うよ。新チーム頑張って」
ようやく重みが消えた頭を上げると、千景はいつも通りの笑顔だった。
「ウワアアアアー!拓さああああん」
大泣きしている幼児のような雄叫びが、グラウンド中に響き渡る。
声の主は言わずもがな。
千景が視線だけで促す通りに、瑛はそちらへ向かった。
「俺っ、俺が、エースになれたのはああ!拓さんっ!の、おかげ、でえええ!」
「おい、汚ねえ泣き方すんな」
「こんな、やつより!やっぱ、よ、4番は、拓さんがあああ!」
「殴られてえのか」
マスコミから解放された拓真は、今度は涙で顔をぐしゃぐしゃにした正也にまとわりつかれていた。
声をかけた瑛には見向きもしない。
「正也」
「はぃい!」
「お前をエースにしたのは、俺じゃない。鷺嶋高校野球部の、チームのみんなだ」
それまで正也の雄叫びを黙って受け留めていた拓真は、静かにそう言った。
「それにはもちろん、お前自身も含まれる。自分と、自分の後ろについている仲間たちを信じろ」
「た、拓ざん…っ」
「これからは、同級生や後輩のキャッチャーの言うことをよく聞いて頑張れ」
「そ、そこは、“これからはお前が引っ張れ”的な流れでは…」
「向き、不向きは正確に把握しておいた方がいいぞ」
ショックで涙も引っ込んだ正也を、部員たちの笑い声が包む。
瑛も呆れて笑っていると、拓真の視線が瑛へと向かった。
「…俺を4番にしてくれたのは、ある意味お前かもな」
先ほど正也へ伝えた言葉とは矛盾するようなセリフ。
「5番が打てないと4番は勝負してもらえないからってことっすか」
「それもあるが…言っただろう。お前に後ろから噛み千切られないようにするのは、本当に骨が折れた」
いつも真一文字に結ばれている口元が、わずかにほころぶ。
「チームを引っ張っていくのは、直哉に任せた。試合を動かすのは、瑛。お前だ」
その言葉は強く、胸に響いた。
じんわりと染み込んで、溶けていく。
差し出された手を掴むと、硬い手の平には新しいマメができているようだった。
「…勝ち逃げの、つもりですか」
真っ直ぐな視線に応えるように、瑛もまた拓真を見据える。
「俺もすぐそっちへ行くんで。油断しないでください」
「…はは。そうだな。待ってるよ」
「はい。2年間、ありがとうございました」
拓真にも、しっかりと頭を下げた。
ぽかんとしていた正也も、つられるように頭を下げる。
その目からこぼれる雫が、まだぽたぽたと足元の土を濡らす。
またひとつ、このグラウンドに、刻まれていく。
顔を上げて、去りゆく背中を見送った。
網膜に、脳に、焼き付けるように。
今年も桜の蕾がまだ開き切らないその日、鷺嶋高校には数多くのマスコミの姿があった。
講堂の中にもカメラが立ち並び、3年A組の生徒たちがエントランスに姿を現すなりシャッターが次々と光った。
「すげーな、拓さん有名人じゃん!」
「はるかが写ったらどうしてくれるんだ」
もはや“騒動”といってもいいその様子を遠巻きに眺めながら、呟く。
「後でグラウンド来る時もついてくんのかな…俺と拓さんの感動のシーンが全国放送されちゃう…?」
極めて余計な心配をしている正也には、溜め息を一つ返しておいた。
「私もそっちいくし、おはるも帰ってくる時は絶対連絡ちょうだい!黙って帰ってきたら許さん!」
「うんうん。一緒にボールパーク行こうね」
「え!?い、いかねーし!!」
杏里も無事に志望大への合格を果たしたらしく、この春鷺嶋を出るという。
目も鼻も真っ赤にしながら、本日何枚目か分からない、はるかとの写真を撮っていた。
「ねえ、そろそろちょっといいかな」
そんなふたりのもとへ、千景が顔を出した。
杏里は信じられないものを見た、といった顔で見上げている。
「週末食事会あるんでしょ?僕、それ行けないからさ。今日のところは譲ってよ」
「“今日のところは”だァ?今日という日がめちゃくちゃ重要なんですけど!?」
「分かった分かった、じゃあ10分だけ」
ぎゃあぎゃあと騒ぐ杏里にそう諭して、千景がはるかに微笑みかける。
はるかは首を傾げながらも、ついていくことにした。
「野球部は、いいの?」
「大丈夫、行くよ。今は拓真のことですごいことになってるだろうから、落ち着いたタイミングでね」
久しぶりかつ、最後の学校をしみじみと実感する間もなく記者たちに追いかけ回されていた姿を思い出しながら、千景に続いて部屋に入る。
そこはいつだったか千景のお気に入りだと言っていた、図書室の書庫。
とんでもない話を聞かれてしまったベンチの、真上にある場所。
「…はるかちゃん」
いろいろと思い出してひとり恥ずかしくなっていたはるかの名前を、千景が呼んだ。
相変わらず涼やかで、どうにも他の人とは違う雰囲気を漂わせる、その笑顔。
「僕は、君が好きだよ」
校内に充満するどこか浮足立った空気が、一気に遠ざかっていった。
「ほとんど、一目惚れだったよ。美術の時間に、絵を描く横顔に惹かれた」
呆然と立ち尽くすはるかに、千景は変わらず穏やかな声で続ける。
「特に、瞳がすごくきれいで。どこか虚ろで、引き込まれそうなほど深くて、まるで宇宙みたいだった。それだってじっと見つめてしまうくらいに美しかったけど、いつからか、もっときらきらして見えるようになった」
美術室で会うだけの、まさか野球部員だとは思いもしなかった頃よりも日に焼けた顔が、はるかを見つめている。
「その理由に気が付かないほどバカじゃなかったけど。でも…それでも惹かれた。こんな僕でも、そんな瞳で一生懸命見つめてくれて、嬉しくないはずがなかった」
「え…」
「足だけの男。塁にさえ出さなければ怖くない。僕はそんな男だよ、拓真や瑛と違ってね」
そんなことはない、そんなセリフは軽々しく感じられてしまうほど、千景の表情には複雑な思いが感じられた。
きっと、チームメイトたちも見たことがないほどに。
「結構、打撃の調子上げてきてたんだけどねえ。いざって時に打てないんじゃ、やっぱりダメだよ。悔しいけどこれが僕の現在地。それは認めなくちゃいけない」
「…」
「それでも僕はこの夏を、誇りに思うよ」
再びはるかを見つめたのは、とても強い瞳だった。
「今の自分の限界まで挑戦したこと。最高の仲間たちと戦えたこと。はるかちゃんに、全力で応援してもらえるような野球ができたこと。現時点ではそれで十分かな」
──それがワクワクするんだよ!やっぱり足が速い子がいるチームは面白いよね
「応援してくれてありがとう。君を好きでいて、僕は幸せだったよ」
何も、言えなかった。
今日という日が近付くにつれて、こうして誰かに思いを伝えられることが増えた。
その誰よりも深く、強い何かを感じさせる千景に、かけられる言葉は一つも見つからなくて。
いつだって凪いだ海のようだったその瞳が、小さく揺れるのを見つめることしかできなかった。
「…大学では、もっと打撃を磨いていきたいと思ってる。もちろん、足をもっと活かせる走塁とか、守備もね。それから拓真や、瑛の背中を追って…追い越せるように、頑張るよ」
千景はそう語って、尚も口をつぐんだままのはるかに微笑みかけた。
「それにしてもびっくりした。アメリカの音大に行くなんて。瑛、毎日泣いて暮らすんじゃないの?」
「そ、れは…」
「時々顔出して、かわいがってあげるから安心して」
その笑顔は、もうすっかりいつも通りだった。
「さて、そろそろ秋山さんに怒られるかな?」
「あ、あの…千景君」
時計を見て肩をすくめた千景に、はるかが口を開く。
「みんなが、また一緒にプレーしてるとこ見るの、楽しみにしてる!」
千景はもう一度だけ瞳を揺らして、思い切り笑った。
「というわけで、フラれちゃったんだよねえ」
「…は…?」
拓真のコメントを押さえたマスコミがようやく帰っていった頃、千景はひょっこりと現れたかと思うと瑛にそんなことを言ってきた。
「“はるかちゃんも頑張れ”って、言えなかったなあ。きっとそういうところだよね、僕って」
「あの…」
「あんな素敵な子を遠い国からつかまえておかなきゃいけないなんて、ホントこれから大変だね。捨てられたら笑ってあげるから、教えてよ」
こういう意図の読めない、鼻につく言い方が苦手だった。
だけど今なら、その裏に隠された何かが、少しだけ分かる気がする。
「チカさん」
「うん?」
「ありがとうございました」
深々と、頭を下げる。
しばらくして、そっと頭を上げようとしたら、がっしりと掴まれてしまった。
「な、何すか…」
「瑛は最初からセンスあるなって思ってたけど…この2年で一番成長したのも、瑛だと思うよ。僕ら3年だけじゃ、甲子園には行けなかったかな。ムカつくけど」
「え…」
「もちろん、2年だけでも無理だったと思うよ。新チーム頑張って」
ようやく重みが消えた頭を上げると、千景はいつも通りの笑顔だった。
「ウワアアアアー!拓さああああん」
大泣きしている幼児のような雄叫びが、グラウンド中に響き渡る。
声の主は言わずもがな。
千景が視線だけで促す通りに、瑛はそちらへ向かった。
「俺っ、俺が、エースになれたのはああ!拓さんっ!の、おかげ、でえええ!」
「おい、汚ねえ泣き方すんな」
「こんな、やつより!やっぱ、よ、4番は、拓さんがあああ!」
「殴られてえのか」
マスコミから解放された拓真は、今度は涙で顔をぐしゃぐしゃにした正也にまとわりつかれていた。
声をかけた瑛には見向きもしない。
「正也」
「はぃい!」
「お前をエースにしたのは、俺じゃない。鷺嶋高校野球部の、チームのみんなだ」
それまで正也の雄叫びを黙って受け留めていた拓真は、静かにそう言った。
「それにはもちろん、お前自身も含まれる。自分と、自分の後ろについている仲間たちを信じろ」
「た、拓ざん…っ」
「これからは、同級生や後輩のキャッチャーの言うことをよく聞いて頑張れ」
「そ、そこは、“これからはお前が引っ張れ”的な流れでは…」
「向き、不向きは正確に把握しておいた方がいいぞ」
ショックで涙も引っ込んだ正也を、部員たちの笑い声が包む。
瑛も呆れて笑っていると、拓真の視線が瑛へと向かった。
「…俺を4番にしてくれたのは、ある意味お前かもな」
先ほど正也へ伝えた言葉とは矛盾するようなセリフ。
「5番が打てないと4番は勝負してもらえないからってことっすか」
「それもあるが…言っただろう。お前に後ろから噛み千切られないようにするのは、本当に骨が折れた」
いつも真一文字に結ばれている口元が、わずかにほころぶ。
「チームを引っ張っていくのは、直哉に任せた。試合を動かすのは、瑛。お前だ」
その言葉は強く、胸に響いた。
じんわりと染み込んで、溶けていく。
差し出された手を掴むと、硬い手の平には新しいマメができているようだった。
「…勝ち逃げの、つもりですか」
真っ直ぐな視線に応えるように、瑛もまた拓真を見据える。
「俺もすぐそっちへ行くんで。油断しないでください」
「…はは。そうだな。待ってるよ」
「はい。2年間、ありがとうございました」
拓真にも、しっかりと頭を下げた。
ぽかんとしていた正也も、つられるように頭を下げる。
その目からこぼれる雫が、まだぽたぽたと足元の土を濡らす。
またひとつ、このグラウンドに、刻まれていく。
顔を上げて、去りゆく背中を見送った。
網膜に、脳に、焼き付けるように。