[Theme 02]2年生編
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「ひょっとしたらと思って、実は準備してたんだ」
キッチンに立つはるかの後ろ姿を眺める。
バットを構えた勇ましい姿とは違い、腰で結ばれたエプロンの紐がまるでプレゼントのリボンのようだ。
暖房がついたままだったリビングは暖かく、はるかはニットを脱いで薄手のブラウス姿になっている。
「ひょっとしなかったら普通にうちの晩ごはんにするつもりだったから、相変わらず塩分控えめだけどねえ」
間違っても日和らなくてよかった、と心の中で噛み締める。
瑛の知らないうちに、瑛のために用意してくれたものが他の誰かの胃に収まる等ということは、絶対にあってはならない。
「でも、おじいちゃんだいぶ数値良くなったんだよ!ちゃんとお散歩とかもしてるし、えらいよねえ…瑛くん、大丈夫?」
まったく返事をしない瑛を不審に思ったのか、はるかが振り返る。
その手の皿には、とてつもなく美味しそうなにおいの何かが盛り付けられていた。
ふっくらとやわらかそうなハンバーグと、程よく焼き目のついた野菜たちが、とろとろのソースに仲良く浸かっている。
瑛に手渡された皿ははるかのそれよりも一回りほど大きく、ハンバーグも2つ入っていた。
「米?パン?」
「…米で。すげー美味そう」
「ふふ。お茶碗小さいのしかないから、好きにおかわりしてね」
はるかの手料理を食べたのは、去年の体育祭の時の弁当と、この家で祖父母に挨拶をした日の鍋。
あの日もはるかは茶碗を手に、同じことを言っていたように思う。
こんなふうにはにかむはるかの姿が、早く日常になればいいのに。
そう思いながら、瑛は手を合わせた。
「美味い」
「やった。ありがとう」
やさしい味付けに引き出された素材の旨み。
これを毎日味わっていると思うと、はるかの母親や祖父母のことが羨ましくなる。
「食べるの、少しゆっくりになったね」
「…そうか?」
「うん。体育祭の時、早すぎてびっくりしたなあ」
はるかがくすくすと笑う。
夏が苦手だと語ったあの日を、また思い出す。
「…あの時は、お父さんの部屋に入るので精一杯だった」
はるかもまた、同じように思いを馳せているようだ。
穏やかな声が記憶をなぞる。
「“来年の夏は、もっと楽しくなるといいな”って。瑛くんが言ってくれた時、すごく嬉しかった」
「…あの頃はまだ、内心ホントにやれんのか?って不安だったけどな」
「ふふ。伝わってたよ、それも。だけど…ああ、この人は甲子園に行くって、思った」
はるかの言葉に顔を上げると、あの時と同じ星空が揺らめいていた。
「チームの力で目指すものだし、もしかしたら次の夏ではないかもしれない。だけど必ず辿り着く。それだけで、ものすごく大きな希望をもらえたんだよ。それから瑛くんも、チーム全体も、見るたびに進化していって…交流試合の頃にはもう、今年行くんだって感じてたよ」
「俺も…その頃だな。いよいよ腹括ったのは」
「本当に、最高だったよ」
はるかの声が震える。
「わたしに、わたしたちに、新しい夏をくれてありがとう」
頬を伝う涙が落ちる前に、向かい合って座るはるかに駆け寄って、抱き締めた。
胸いっぱいに広がるハンバーグのにおい。
心の底からいとおしかった。
「…はるかのいる家に、帰りてえな」
口をついて出た言葉。
「うん。わたしも、瑛くんのいるお家に、帰りたいよ」
「…」
「そうだ。ごはん食べたら、2階に行かない?」
はるかも同じ気持ちを返してくれたことに胸がぎゅ、となるのを感じるやいなや、些か唐突な提案。
その意味をどうしてもいかがわしいものに捉えてしまいそうになるのを堪えて、瑛は頷いた。
相変わらず圧倒的な存在感を誇るグランドピアノと、テーブルの機能を果たしていないテーブル。
瑛がはじめてこの部屋を訪れた時と同じように、はるかはどうにかテーブルの上をかきわけて、二人分のコーヒーカップを置いた。
「どうぞ」
あの時瑛が座ったその椅子を引いて、微笑む。
はるか自身はそのまま、壁一面の棚の方へと歩いて行った。
びっしりと並んだCDやレコード。
特にレコードなんかは、もはや何がどこにあるか分からないんじゃないか。
そんなことを思いながらはるかの後ろ姿を目で追っていると、その小さな手は迷いなく一枚のレコードを引き抜いた。
生成り色に、冷蔵庫のような絵が描かれたジャケットからディスクを取り出して、プレーヤーにセットする。
慣れた手つきで針を落とせば、少し曇った音で、あまりに聞き慣れたメロディが広い部屋を満たした。
「すごくやわらかくて、やさしいよね。この曲」
はるかはそう言いながら、瑛の隣に腰を下ろした。
「昔から、好きだもんな」
「うん。大好き」
幼いはるかがそう語るのを何度も聞いていた。
だからこそ、カナリアでの演奏にもこの曲を選んだ。
だけど、その理由を尋ねたことはなかった。
もちろん興味はあるけれど、それは彼女にとってとても繊細な部分に触れることになる気がして。
「…寝る前のおとぎ話、だっけ」
「そう。わたしにとってはまさに、この曲がそうだった」
その繊細な部分が、はるか自らの手で、そっと開かれていく。
「お父さんが亡くなった時、まだ6歳だったし。それにお父さんは主に海外で活動してたから、実はあんまり覚えてないんだ」
それは、物心ついた頃には既に父親しかいなかった──死別ではなく離婚だが──瑛にも、共通する感覚だった。
「覚えているのは、ピアノを弾く姿。家にいる時はずっとピアノを弾いていて、わたしもいっしょに弾いたり…お母さんのために弾いてるのも、見てた。それで一番記憶に残ってるのが、この曲なの」
ジャケットの、よく見るとなんだか不思議な絵柄を、はるかがそっと撫でる。
「このレコードを、瑛くんに持っていて欲しい」
「え…?」
ふいに顔を上げたはるかの言葉に、戸惑う。
目の前の一枚がはるかにとってどれほど大切なものか、たった一言で痛いほどに理解したというのに、なぜ。
「持っていこうと思ってたんだけど…やっぱり、瑛くんに預けたいの」
「俺に…」
「うん。瑛くんに…わたしの、帰る場所であって欲しい」
レコードは次の曲になっていて、やけに軽快なフレーズがちぐはぐに聞こえる。
それに気付いたはるかが少しだけ笑って、また瑛を見上げた。
「ふたりでおんなじお家に帰る日が来たら…そのお家に、このレコードを持ってきて欲しいの」
「…はるか」
「球団寮じゃ邪魔になるだろうから、ご実家にでも置いといてくれたら。そうなるとここに置いておくのとあんまり変わんないけど…なんていうか、気持ちの問題?」
「持ってく。絶対、寮にも持ってく」
ジャケットを持つはるかの手を包み込む。
そしてそのまま、抱き締めた。
「…はるかのことも、持っていきたい」
「ふふ。ぬいぐるみになったら、抱えてニュースに載ってくれる?」
「はるかをネットの海に晒したくないからダメ」
腕の中でくすくすと笑うはるかの瞳を覗き込んだ。
「はるかの部屋、連れてって」
懇願するような、熱のこもった声に自分でも少し驚いた。
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■レコード
Fat Albert Rotunda/Herbie Hancock
Tell Me A Bedtime Storyが入っているアルバムです。
「ひょっとしたらと思って、実は準備してたんだ」
キッチンに立つはるかの後ろ姿を眺める。
バットを構えた勇ましい姿とは違い、腰で結ばれたエプロンの紐がまるでプレゼントのリボンのようだ。
暖房がついたままだったリビングは暖かく、はるかはニットを脱いで薄手のブラウス姿になっている。
「ひょっとしなかったら普通にうちの晩ごはんにするつもりだったから、相変わらず塩分控えめだけどねえ」
間違っても日和らなくてよかった、と心の中で噛み締める。
瑛の知らないうちに、瑛のために用意してくれたものが他の誰かの胃に収まる等ということは、絶対にあってはならない。
「でも、おじいちゃんだいぶ数値良くなったんだよ!ちゃんとお散歩とかもしてるし、えらいよねえ…瑛くん、大丈夫?」
まったく返事をしない瑛を不審に思ったのか、はるかが振り返る。
その手の皿には、とてつもなく美味しそうなにおいの何かが盛り付けられていた。
ふっくらとやわらかそうなハンバーグと、程よく焼き目のついた野菜たちが、とろとろのソースに仲良く浸かっている。
瑛に手渡された皿ははるかのそれよりも一回りほど大きく、ハンバーグも2つ入っていた。
「米?パン?」
「…米で。すげー美味そう」
「ふふ。お茶碗小さいのしかないから、好きにおかわりしてね」
はるかの手料理を食べたのは、去年の体育祭の時の弁当と、この家で祖父母に挨拶をした日の鍋。
あの日もはるかは茶碗を手に、同じことを言っていたように思う。
こんなふうにはにかむはるかの姿が、早く日常になればいいのに。
そう思いながら、瑛は手を合わせた。
「美味い」
「やった。ありがとう」
やさしい味付けに引き出された素材の旨み。
これを毎日味わっていると思うと、はるかの母親や祖父母のことが羨ましくなる。
「食べるの、少しゆっくりになったね」
「…そうか?」
「うん。体育祭の時、早すぎてびっくりしたなあ」
はるかがくすくすと笑う。
夏が苦手だと語ったあの日を、また思い出す。
「…あの時は、お父さんの部屋に入るので精一杯だった」
はるかもまた、同じように思いを馳せているようだ。
穏やかな声が記憶をなぞる。
「“来年の夏は、もっと楽しくなるといいな”って。瑛くんが言ってくれた時、すごく嬉しかった」
「…あの頃はまだ、内心ホントにやれんのか?って不安だったけどな」
「ふふ。伝わってたよ、それも。だけど…ああ、この人は甲子園に行くって、思った」
はるかの言葉に顔を上げると、あの時と同じ星空が揺らめいていた。
「チームの力で目指すものだし、もしかしたら次の夏ではないかもしれない。だけど必ず辿り着く。それだけで、ものすごく大きな希望をもらえたんだよ。それから瑛くんも、チーム全体も、見るたびに進化していって…交流試合の頃にはもう、今年行くんだって感じてたよ」
「俺も…その頃だな。いよいよ腹括ったのは」
「本当に、最高だったよ」
はるかの声が震える。
「わたしに、わたしたちに、新しい夏をくれてありがとう」
頬を伝う涙が落ちる前に、向かい合って座るはるかに駆け寄って、抱き締めた。
胸いっぱいに広がるハンバーグのにおい。
心の底からいとおしかった。
「…はるかのいる家に、帰りてえな」
口をついて出た言葉。
「うん。わたしも、瑛くんのいるお家に、帰りたいよ」
「…」
「そうだ。ごはん食べたら、2階に行かない?」
はるかも同じ気持ちを返してくれたことに胸がぎゅ、となるのを感じるやいなや、些か唐突な提案。
その意味をどうしてもいかがわしいものに捉えてしまいそうになるのを堪えて、瑛は頷いた。
相変わらず圧倒的な存在感を誇るグランドピアノと、テーブルの機能を果たしていないテーブル。
瑛がはじめてこの部屋を訪れた時と同じように、はるかはどうにかテーブルの上をかきわけて、二人分のコーヒーカップを置いた。
「どうぞ」
あの時瑛が座ったその椅子を引いて、微笑む。
はるか自身はそのまま、壁一面の棚の方へと歩いて行った。
びっしりと並んだCDやレコード。
特にレコードなんかは、もはや何がどこにあるか分からないんじゃないか。
そんなことを思いながらはるかの後ろ姿を目で追っていると、その小さな手は迷いなく一枚のレコードを引き抜いた。
生成り色に、冷蔵庫のような絵が描かれたジャケットからディスクを取り出して、プレーヤーにセットする。
慣れた手つきで針を落とせば、少し曇った音で、あまりに聞き慣れたメロディが広い部屋を満たした。
「すごくやわらかくて、やさしいよね。この曲」
はるかはそう言いながら、瑛の隣に腰を下ろした。
「昔から、好きだもんな」
「うん。大好き」
幼いはるかがそう語るのを何度も聞いていた。
だからこそ、カナリアでの演奏にもこの曲を選んだ。
だけど、その理由を尋ねたことはなかった。
もちろん興味はあるけれど、それは彼女にとってとても繊細な部分に触れることになる気がして。
「…寝る前のおとぎ話、だっけ」
「そう。わたしにとってはまさに、この曲がそうだった」
その繊細な部分が、はるか自らの手で、そっと開かれていく。
「お父さんが亡くなった時、まだ6歳だったし。それにお父さんは主に海外で活動してたから、実はあんまり覚えてないんだ」
それは、物心ついた頃には既に父親しかいなかった──死別ではなく離婚だが──瑛にも、共通する感覚だった。
「覚えているのは、ピアノを弾く姿。家にいる時はずっとピアノを弾いていて、わたしもいっしょに弾いたり…お母さんのために弾いてるのも、見てた。それで一番記憶に残ってるのが、この曲なの」
ジャケットの、よく見るとなんだか不思議な絵柄を、はるかがそっと撫でる。
「このレコードを、瑛くんに持っていて欲しい」
「え…?」
ふいに顔を上げたはるかの言葉に、戸惑う。
目の前の一枚がはるかにとってどれほど大切なものか、たった一言で痛いほどに理解したというのに、なぜ。
「持っていこうと思ってたんだけど…やっぱり、瑛くんに預けたいの」
「俺に…」
「うん。瑛くんに…わたしの、帰る場所であって欲しい」
レコードは次の曲になっていて、やけに軽快なフレーズがちぐはぐに聞こえる。
それに気付いたはるかが少しだけ笑って、また瑛を見上げた。
「ふたりでおんなじお家に帰る日が来たら…そのお家に、このレコードを持ってきて欲しいの」
「…はるか」
「球団寮じゃ邪魔になるだろうから、ご実家にでも置いといてくれたら。そうなるとここに置いておくのとあんまり変わんないけど…なんていうか、気持ちの問題?」
「持ってく。絶対、寮にも持ってく」
ジャケットを持つはるかの手を包み込む。
そしてそのまま、抱き締めた。
「…はるかのことも、持っていきたい」
「ふふ。ぬいぐるみになったら、抱えてニュースに載ってくれる?」
「はるかをネットの海に晒したくないからダメ」
腕の中でくすくすと笑うはるかの瞳を覗き込んだ。
「はるかの部屋、連れてって」
懇願するような、熱のこもった声に自分でも少し驚いた。
________________
■レコード
Fat Albert Rotunda/Herbie Hancock
Tell Me A Bedtime Storyが入っているアルバムです。