[Theme 01]1年生編
06
「ごめんね。その…大変な時に」
申し訳なさそうにうつむくはるかは、ほとんど普段の顔色に戻ったようだった。
「高原君と、監督も助けてくださったんだよね…?ああー…ほんとに申し訳ない…」
「…」
「瑛くん、やっぱり大丈夫だよ!だから練習…」
「監督が送ってやれって。だからノコノコ戻ったら逆に怒られる」
「あ…」
保健室から校門に至るまでに何度も“大丈夫”と口にしたはるかも、そう言うとようやく観念したらしい。
「ほんとそのへんまででいいからね。家、すぐだし」
「…あのさ、」
今度は瑛が足を止めたが、言葉は続かなかった。
その心の内を見透かしたように、代わりにはるかが口を開く。
「アメリカに行ってから…つらいことが、あってね。それから、時々あんなふうになっちゃうんだ。気持ちの問題だから、身体はほんとに大丈夫だよ」
「…なあ、それって…」
はるかの表情に、言いかけた言葉をひどく後悔した。
それでも。
「…こんなに迷惑かけて、“聞かないで”は勝手すぎるよね」
そんなことは思っていないのに、はるかの罪悪感に付け込んでしまった。
母・薫 とともに渡ったアメリカは、わずか10歳のはるかにとってすべてが未知の世界だった。
何とか必死で覚えた英語でコミュニケーションをとるのはとても難しく、それまでの日常とは何もかもが違う生活は戸惑いの連続だった。
それでもひとたび鍵盤に飛びつけば、そこは変わらず、大好きな世界だった。
言葉ではなかなかうまく分かり合えない人々とも、音楽では通じ合えた。
だから何も怖くはなかった。
泥だらけのユニフォームを着た、小さな観客の姿がそこにないのは寂しかったけれど。
渡米して3年目、日本だと中学2年生の歳で、はじめてセッションやバンドではなく ひとりでライブに出演することが決まった。
名門ジャズ・クラブを牛耳るプロミュージシャンに、オープニングアクトを任されたのだ。
幼い頃に亡くした父親も何度も立ったというジャズ・クラブのステージ。
それは自分にとって、人生を変える一夜となると確信していた。
その確信は、決して間違ってはいなかった。
日本からライブを観にやってきていた祖父母が、ホテルで火災に遭ったという知らせを聞いてからの記憶はない。
次に鍵盤に触れた時には、自分の指がまるで自分のものではなくなっていた。
「はるちゃん、お願い。ピアノを弾いて」
涙を流し、自分にしがみつく薫の姿。
6歳で父を亡くした日を思い出した。
わたしも、お父さんのようなピアニストに。
お父さんの代わりに、お母さんにピアノを──
そう誓ってここまで来たのに、震える指は言うことを聞かない。
「お願い、お願い。はるちゃん…」
わたしは、間違っていたのだろうか。
わたしなんかが、本当に父親の代わりになれるのだろうか。
それどころか、わたしは、ああそうか、
「わたしが、奪ったんだよ」
祖父母の命を。
──母親の、両親の命を。
父親のピアノを聴く日々は幸せだった。
母親は誰よりもそのピアノを愛していた。
──だけどわたしのピアノは、人を不幸にする。
それからは鍵盤に触れることはおろか、重たい蓋を開けることすらできなくなった。
音楽の街、音楽のための学校で、ピアノが弾けないはるかに居場所はなかった。
次の進級テストに合格することができず、はるかはアメリカを去った。
「…それで、今は…?」
「お父さんの方の実家にお世話になってるよ。お母さんは…離れて暮らしてる。県内だけどね」
「それは…」
「…精神的に不安定で、わたしに負担をかけてしまうからって。わたしの、せいなのにね」
話しながら言葉に詰まることは何度かあったが、はるかは泣かなかった。
まるで自分で、それを許していないかのように。
はるかは何も悪くないとか、あくまで不運な事故だったのだとか、母親もきっとはるかを責める気持ちなんてないはずだとか、はるかの心を縛るものを否定する言葉はいくらでも思いついた。
だけど、まだ幼い子どもだった彼女が、その小さな細い手に抱えてきたものの重さの前には、きっとどれも意味を成さない。
「…瑛くんには、知られたくなかった」
苦しむはるかに何もしてやれず、今もただ聞いていることしかできなかった自分の名前を呼ばれたことに、瑛はどきりとした。
奇しくもここはあの日、人目を避けてはるかのことを詮索しようとした場所。
「わたしのピアノが好きだって言ってくれた瑛くんにだけは、知られたくなかったの」
「え…?」
「好きで、いて欲しかったから」
震える声。
その向こうに、あの頃の幻影が見えた気がした。
──それ、なんて曲?
いつものようにピアノに向かうはるかに問いかけた日。
「Tell Me A Bedtime Story、だよ!」
「べっどたいむすとーりー?」
「お父さんやお母さんが、眠る前に聞かせてくれるおとぎ話のこと。子守唄みたいに!」
大好きなんだ、と笑うはるかが眩しかった。
「へえー…でもはるかのは、うるさくて眠れねえな」
「ええっ!?」
「おれは、好きだけど。はるかの…ピアノの、そういうところ!」
呪われていたのは、彼女も同じだったのか。
________________
■Tell Me A Bedtime Story/Herbie Hancock
「ごめんね。その…大変な時に」
申し訳なさそうにうつむくはるかは、ほとんど普段の顔色に戻ったようだった。
「高原君と、監督も助けてくださったんだよね…?ああー…ほんとに申し訳ない…」
「…」
「瑛くん、やっぱり大丈夫だよ!だから練習…」
「監督が送ってやれって。だからノコノコ戻ったら逆に怒られる」
「あ…」
保健室から校門に至るまでに何度も“大丈夫”と口にしたはるかも、そう言うとようやく観念したらしい。
「ほんとそのへんまででいいからね。家、すぐだし」
「…あのさ、」
今度は瑛が足を止めたが、言葉は続かなかった。
その心の内を見透かしたように、代わりにはるかが口を開く。
「アメリカに行ってから…つらいことが、あってね。それから、時々あんなふうになっちゃうんだ。気持ちの問題だから、身体はほんとに大丈夫だよ」
「…なあ、それって…」
はるかの表情に、言いかけた言葉をひどく後悔した。
それでも。
「…こんなに迷惑かけて、“聞かないで”は勝手すぎるよね」
そんなことは思っていないのに、はるかの罪悪感に付け込んでしまった。
母・
何とか必死で覚えた英語でコミュニケーションをとるのはとても難しく、それまでの日常とは何もかもが違う生活は戸惑いの連続だった。
それでもひとたび鍵盤に飛びつけば、そこは変わらず、大好きな世界だった。
言葉ではなかなかうまく分かり合えない人々とも、音楽では通じ合えた。
だから何も怖くはなかった。
泥だらけのユニフォームを着た、小さな観客の姿がそこにないのは寂しかったけれど。
渡米して3年目、日本だと中学2年生の歳で、はじめてセッションやバンドではなく ひとりでライブに出演することが決まった。
名門ジャズ・クラブを牛耳るプロミュージシャンに、オープニングアクトを任されたのだ。
幼い頃に亡くした父親も何度も立ったというジャズ・クラブのステージ。
それは自分にとって、人生を変える一夜となると確信していた。
その確信は、決して間違ってはいなかった。
日本からライブを観にやってきていた祖父母が、ホテルで火災に遭ったという知らせを聞いてからの記憶はない。
次に鍵盤に触れた時には、自分の指がまるで自分のものではなくなっていた。
「はるちゃん、お願い。ピアノを弾いて」
涙を流し、自分にしがみつく薫の姿。
6歳で父を亡くした日を思い出した。
わたしも、お父さんのようなピアニストに。
お父さんの代わりに、お母さんにピアノを──
そう誓ってここまで来たのに、震える指は言うことを聞かない。
「お願い、お願い。はるちゃん…」
わたしは、間違っていたのだろうか。
わたしなんかが、本当に父親の代わりになれるのだろうか。
それどころか、わたしは、ああそうか、
「わたしが、奪ったんだよ」
祖父母の命を。
──母親の、両親の命を。
父親のピアノを聴く日々は幸せだった。
母親は誰よりもそのピアノを愛していた。
──だけどわたしのピアノは、人を不幸にする。
それからは鍵盤に触れることはおろか、重たい蓋を開けることすらできなくなった。
音楽の街、音楽のための学校で、ピアノが弾けないはるかに居場所はなかった。
次の進級テストに合格することができず、はるかはアメリカを去った。
「…それで、今は…?」
「お父さんの方の実家にお世話になってるよ。お母さんは…離れて暮らしてる。県内だけどね」
「それは…」
「…精神的に不安定で、わたしに負担をかけてしまうからって。わたしの、せいなのにね」
話しながら言葉に詰まることは何度かあったが、はるかは泣かなかった。
まるで自分で、それを許していないかのように。
はるかは何も悪くないとか、あくまで不運な事故だったのだとか、母親もきっとはるかを責める気持ちなんてないはずだとか、はるかの心を縛るものを否定する言葉はいくらでも思いついた。
だけど、まだ幼い子どもだった彼女が、その小さな細い手に抱えてきたものの重さの前には、きっとどれも意味を成さない。
「…瑛くんには、知られたくなかった」
苦しむはるかに何もしてやれず、今もただ聞いていることしかできなかった自分の名前を呼ばれたことに、瑛はどきりとした。
奇しくもここはあの日、人目を避けてはるかのことを詮索しようとした場所。
「わたしのピアノが好きだって言ってくれた瑛くんにだけは、知られたくなかったの」
「え…?」
「好きで、いて欲しかったから」
震える声。
その向こうに、あの頃の幻影が見えた気がした。
──それ、なんて曲?
いつものようにピアノに向かうはるかに問いかけた日。
「Tell Me A Bedtime Story、だよ!」
「べっどたいむすとーりー?」
「お父さんやお母さんが、眠る前に聞かせてくれるおとぎ話のこと。子守唄みたいに!」
大好きなんだ、と笑うはるかが眩しかった。
「へえー…でもはるかのは、うるさくて眠れねえな」
「ええっ!?」
「おれは、好きだけど。はるかの…ピアノの、そういうところ!」
呪われていたのは、彼女も同じだったのか。
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■Tell Me A Bedtime Story/Herbie Hancock