[Theme 02]2年生編
58
制服姿に真顔で、大きなマナティーのぬいぐるみを抱えた男。
“一日でも早く一軍で活躍できるよう、精進します”
つい最近までチームメイトとして、一年前はルームメイトとして同じ時を過ごしていた拓真が、そんな一言とともにネットニュースに姿を現したのを見た後、瑛は今朝もバットを手に部屋の扉を開けた。
日の出前、不思議な色に染まった空が、澄んだ空気と相まってなんだか神秘的だった。
この景色の向こうにいる、いとしい存在に思いを馳せながら、歩き出した。
『そのかわいらしいぬいぐるみは?』
『野球部の後輩からもらいました。自分だと思って抱き締めて欲しいと言われたので、クローゼットにしまっておこうと思います』
「さすが拓真君、掴みバッチリ…!」
空港の出発ロビーで観ていたウォルラス公式の動画。
画角の外から聞こえた笑い声に、はるかはひとり頷いた。
──あげたのは高原君かな?レギュラー入りしてからずっとバッテリーだったから、寂しいだろうな。
泣き喚く正也を鬱陶しそうにしながら、なんだかんだ慰める瑛の姿を思い浮かべて、笑みがこぼれる。
そしておもむろに、カバンの中の手帳を開いた。
表紙のポケットに入れてきたのは推しの三冠王を讃える記事の切り抜きと、薫がくれたお守りと、ノートの切れ端。
“素振りを1本でも多くやったヤツが勝つ世界”
少し斜めに尖った文字と、暗がりで見たら悲鳴を上げてしまいそうな出来栄えの、猫(?)のイラスト。
瑛が自主練終わりにわざわざはるかの家に来て渡してくれたものだ。
「お待たせいたしました。ただいまよりグループごとにお客様を機内へと…」
前方で航空会社のスタッフがアナウンスする。
手帳を大切にカバンにしまって、立ち上がった。
空港に降り立ったその瞬間から、足元がふわふわとするような、自分と世界が別々になっているかのような、不思議な感覚だった。
幼い自分にとって、この地で起こった出来事があまりに衝撃的で、実はほとんど記憶が残っていないのだけれど。
それでも身体は何かを覚えている。
広い空港の中でも、電車の中でも、あの時と同じ街の中でも、何かがはるかを足元から崩そうとする。
遠い夏の記憶。
動かない指、鳴らないグランドピアノ。
ふと、金属音が聞こえた気がした。
辺りはレンガ造りのビル街、頭の中に響いたそれは紛れもなく幻聴だ。
だけど、その音に導かれ、心を満たす記憶は本物。
新しい夏の記憶。
黒土の世界、“6”の背中。
──はやくピアノが弾きたい。
石畳の道を、しっかりと踏みしめて歩き出した。
試験官たちの前に鎮座するグランドピアノ。
蓋が閉まっていて、どきりとした。
父の部屋にあるピアノの蓋ならもうとっくに開けて、毎日朝から晩まで鍵盤にかじりついていた。
だけどこの地で、自分という人間を試すためにそこにあるピアノの、その蓋を自分は開けられるのか。
そう迷いかけたのは、ほんの一瞬のこと。
とにかくピアノが弾きたい。
もっともっと弾いていたい。
世界でもっとも美しいあの音楽を、越えるものをこの手で。
──“素振りを1本でも多くやったヤツが勝つ世界”
スタンダード・ナンバーのテーマをなぞりながら、ノートの切れ端の言葉を思い出す。
それはまさしく瑛らしいチョイスで、彼の手は岩のように硬くて、少しざらついている。
少年だったあの頃から、はるかが姿を消していた間も、そしてもう一度出会ってからも、何度も何度もマメを作っては、それでもバットを振り続けてきたんだろう。
それでも、瑛よりも打率の高い高校生は、いくらでもというほどではないがたくさんいる。
その世界の果てしなさを感じる、まるで宇宙のような手だと常々思う。
──でもね、瑛くん。わたしの手だって、なかなかのもんですよ。
2回繰り返したテーマから、アドリブへ。
ピアニスト向きじゃないと茶化されることもある小さな手を、思い切り広げた。
瑛を見上げるのに時々首が痛いほど身長が低くて、その分手だって小さい。
まして幼い頃は、必死で鍵盤に指を伸ばす自分を、大人たちが微笑ましそうに見下ろしているのが悔しかった。
ここにいる全員、一人残らず本気にさせたい。同じ目線で、心から音楽を楽しみたい。
今思うとあまりに生意気だったと思う。それでも幼い自分はがむしゃらだった。
まだ未発達な手で無茶をしすぎて、少し骨が曲がってしまった。
決してきれいな手ではないけれど、あの頃の情熱が刻まれたこの手だからこそ、今こうして鍵盤の上を駆け回っていられるのかもしれない。
今はもう、ただ誰かと一緒に音楽を楽しみたいだけじゃない。
この手でもっと、知らない景色を見たい。
大切な人たちにも、その景色を見せたい。
小さいくせに傲慢な手を、もっともっと遠くへ。
音が消えていく。
必ずまた、この続きを。
「ここでおはるが勝つのは違うだろぉ…」
昼休みの音楽室で、杏里が項垂れた。
「杏里ちゃんだって志望大のボーダーライン、越えてるんでしょ?模試もA判定だし」
「そうだけどさ…ほぼ普通の受験勉強してなくて、前々日に日本帰ってきた人にそんな点数とられちゃやってらんねえわけよ、こっちは」
「ええ…一応してるよ受験勉強…」
午前中は共通テストの自己採点で、一般入試が間近になったこの時期にはもう判定や点数の話はご法度なので、二人は音楽室でひっそりとお互いの結果を伝え合っていた。
というより、杏里が一方的にはるかを連れ出したのだけれど。
「試験どうだったの?」
「面白かった!」
「やっぱこの子バケモンだわ」
杏里は背もたれに身体を預けて、天井を仰ぐ。
通常の教室よりも高いそこに、無数の小さな穴が開いているのを、いくつか数えてすぐにやめる。
「もうすっかり懐かしいよね、ここも」
4月に吹奏楽部を去ったはるかだけでなく、部長を務めていた杏里も、正規のタイミングを迎え既に引退していた。
それなのに我が物顔でくつろいでいるのは、歴代OB共通のしぐさらしい。
「柳木とかもう卒業式まで学校来ないんでしょ?未だにニュース出てくるし、大物じゃん」
「プロ出たのなんて何十年ぶりだし、完全に地域の星だね」
「ね!しかも二人も!高峰だって高卒でプロ行く人いなかったからなあ」
球団寮への入寮の様子が誇らしげにローカルニュースに流れているのは拓真だけではなく。
はるかの贔屓と同じリーグの他球団に指名され、お馴染みのにやけ面で入寮していった秀人は、いよいよはるかにとって因縁の相手といえるかもしれない。
「…はるかも、受かってたら卒業式終わってすぐ向こうに?」
「うん、そうだね。3月末にはレベル分けのテストがあるから」
「なんか授業数変わるんだっけ?」
「そう。ただでさえクォーター制って忙しいから、受けなくていい授業はスキップしたい」
「あんた大学に何しに行くんだ」
全然痛くないチョップをして、杏里が笑う。
本当は分かっている、はるかが最低限の授業でも必ず何かを掴んでくるだろうということを。
「私とも遊んでよね。日坂少年の相手で忙しいのはわかるけど」
「もちろんだよ!」
「実質3月しかないから、3月は私優先ね!2月までにデートしてやることもやっといて!」
「ちょっと…!瑛くんだってそんな暇ないよ。センバツも3月末だからね」
自分でそう言って、はっとした。
先の神宮大会では、はるかたちの地区の出場校が優勝し、センバツの出場枠が追加されている。
秋大会では優勝こそ逃したものの、瑛たちの活躍は、選考対象として十分だと思われた。
そうなれば、はるかがアメリカへ渡る前にゆっくり会う時間なんて、きっとないはずだ。
沈みかけた視界の端に写ったのは、黒板の前のグランドピアノ。
胸の中の決意を確かめるように、しばらくそのまま見つめていた。
制服姿に真顔で、大きなマナティーのぬいぐるみを抱えた男。
“一日でも早く一軍で活躍できるよう、精進します”
つい最近までチームメイトとして、一年前はルームメイトとして同じ時を過ごしていた拓真が、そんな一言とともにネットニュースに姿を現したのを見た後、瑛は今朝もバットを手に部屋の扉を開けた。
日の出前、不思議な色に染まった空が、澄んだ空気と相まってなんだか神秘的だった。
この景色の向こうにいる、いとしい存在に思いを馳せながら、歩き出した。
『そのかわいらしいぬいぐるみは?』
『野球部の後輩からもらいました。自分だと思って抱き締めて欲しいと言われたので、クローゼットにしまっておこうと思います』
「さすが拓真君、掴みバッチリ…!」
空港の出発ロビーで観ていたウォルラス公式の動画。
画角の外から聞こえた笑い声に、はるかはひとり頷いた。
──あげたのは高原君かな?レギュラー入りしてからずっとバッテリーだったから、寂しいだろうな。
泣き喚く正也を鬱陶しそうにしながら、なんだかんだ慰める瑛の姿を思い浮かべて、笑みがこぼれる。
そしておもむろに、カバンの中の手帳を開いた。
表紙のポケットに入れてきたのは推しの三冠王を讃える記事の切り抜きと、薫がくれたお守りと、ノートの切れ端。
“素振りを1本でも多くやったヤツが勝つ世界”
少し斜めに尖った文字と、暗がりで見たら悲鳴を上げてしまいそうな出来栄えの、猫(?)のイラスト。
瑛が自主練終わりにわざわざはるかの家に来て渡してくれたものだ。
「お待たせいたしました。ただいまよりグループごとにお客様を機内へと…」
前方で航空会社のスタッフがアナウンスする。
手帳を大切にカバンにしまって、立ち上がった。
空港に降り立ったその瞬間から、足元がふわふわとするような、自分と世界が別々になっているかのような、不思議な感覚だった。
幼い自分にとって、この地で起こった出来事があまりに衝撃的で、実はほとんど記憶が残っていないのだけれど。
それでも身体は何かを覚えている。
広い空港の中でも、電車の中でも、あの時と同じ街の中でも、何かがはるかを足元から崩そうとする。
遠い夏の記憶。
動かない指、鳴らないグランドピアノ。
ふと、金属音が聞こえた気がした。
辺りはレンガ造りのビル街、頭の中に響いたそれは紛れもなく幻聴だ。
だけど、その音に導かれ、心を満たす記憶は本物。
新しい夏の記憶。
黒土の世界、“6”の背中。
──はやくピアノが弾きたい。
石畳の道を、しっかりと踏みしめて歩き出した。
試験官たちの前に鎮座するグランドピアノ。
蓋が閉まっていて、どきりとした。
父の部屋にあるピアノの蓋ならもうとっくに開けて、毎日朝から晩まで鍵盤にかじりついていた。
だけどこの地で、自分という人間を試すためにそこにあるピアノの、その蓋を自分は開けられるのか。
そう迷いかけたのは、ほんの一瞬のこと。
とにかくピアノが弾きたい。
もっともっと弾いていたい。
世界でもっとも美しいあの音楽を、越えるものをこの手で。
──“素振りを1本でも多くやったヤツが勝つ世界”
スタンダード・ナンバーのテーマをなぞりながら、ノートの切れ端の言葉を思い出す。
それはまさしく瑛らしいチョイスで、彼の手は岩のように硬くて、少しざらついている。
少年だったあの頃から、はるかが姿を消していた間も、そしてもう一度出会ってからも、何度も何度もマメを作っては、それでもバットを振り続けてきたんだろう。
それでも、瑛よりも打率の高い高校生は、いくらでもというほどではないがたくさんいる。
その世界の果てしなさを感じる、まるで宇宙のような手だと常々思う。
──でもね、瑛くん。わたしの手だって、なかなかのもんですよ。
2回繰り返したテーマから、アドリブへ。
ピアニスト向きじゃないと茶化されることもある小さな手を、思い切り広げた。
瑛を見上げるのに時々首が痛いほど身長が低くて、その分手だって小さい。
まして幼い頃は、必死で鍵盤に指を伸ばす自分を、大人たちが微笑ましそうに見下ろしているのが悔しかった。
ここにいる全員、一人残らず本気にさせたい。同じ目線で、心から音楽を楽しみたい。
今思うとあまりに生意気だったと思う。それでも幼い自分はがむしゃらだった。
まだ未発達な手で無茶をしすぎて、少し骨が曲がってしまった。
決してきれいな手ではないけれど、あの頃の情熱が刻まれたこの手だからこそ、今こうして鍵盤の上を駆け回っていられるのかもしれない。
今はもう、ただ誰かと一緒に音楽を楽しみたいだけじゃない。
この手でもっと、知らない景色を見たい。
大切な人たちにも、その景色を見せたい。
小さいくせに傲慢な手を、もっともっと遠くへ。
音が消えていく。
必ずまた、この続きを。
「ここでおはるが勝つのは違うだろぉ…」
昼休みの音楽室で、杏里が項垂れた。
「杏里ちゃんだって志望大のボーダーライン、越えてるんでしょ?模試もA判定だし」
「そうだけどさ…ほぼ普通の受験勉強してなくて、前々日に日本帰ってきた人にそんな点数とられちゃやってらんねえわけよ、こっちは」
「ええ…一応してるよ受験勉強…」
午前中は共通テストの自己採点で、一般入試が間近になったこの時期にはもう判定や点数の話はご法度なので、二人は音楽室でひっそりとお互いの結果を伝え合っていた。
というより、杏里が一方的にはるかを連れ出したのだけれど。
「試験どうだったの?」
「面白かった!」
「やっぱこの子バケモンだわ」
杏里は背もたれに身体を預けて、天井を仰ぐ。
通常の教室よりも高いそこに、無数の小さな穴が開いているのを、いくつか数えてすぐにやめる。
「もうすっかり懐かしいよね、ここも」
4月に吹奏楽部を去ったはるかだけでなく、部長を務めていた杏里も、正規のタイミングを迎え既に引退していた。
それなのに我が物顔でくつろいでいるのは、歴代OB共通のしぐさらしい。
「柳木とかもう卒業式まで学校来ないんでしょ?未だにニュース出てくるし、大物じゃん」
「プロ出たのなんて何十年ぶりだし、完全に地域の星だね」
「ね!しかも二人も!高峰だって高卒でプロ行く人いなかったからなあ」
球団寮への入寮の様子が誇らしげにローカルニュースに流れているのは拓真だけではなく。
はるかの贔屓と同じリーグの他球団に指名され、お馴染みのにやけ面で入寮していった秀人は、いよいよはるかにとって因縁の相手といえるかもしれない。
「…はるかも、受かってたら卒業式終わってすぐ向こうに?」
「うん、そうだね。3月末にはレベル分けのテストがあるから」
「なんか授業数変わるんだっけ?」
「そう。ただでさえクォーター制って忙しいから、受けなくていい授業はスキップしたい」
「あんた大学に何しに行くんだ」
全然痛くないチョップをして、杏里が笑う。
本当は分かっている、はるかが最低限の授業でも必ず何かを掴んでくるだろうということを。
「私とも遊んでよね。日坂少年の相手で忙しいのはわかるけど」
「もちろんだよ!」
「実質3月しかないから、3月は私優先ね!2月までにデートしてやることもやっといて!」
「ちょっと…!瑛くんだってそんな暇ないよ。センバツも3月末だからね」
自分でそう言って、はっとした。
先の神宮大会では、はるかたちの地区の出場校が優勝し、センバツの出場枠が追加されている。
秋大会では優勝こそ逃したものの、瑛たちの活躍は、選考対象として十分だと思われた。
そうなれば、はるかがアメリカへ渡る前にゆっくり会う時間なんて、きっとないはずだ。
沈みかけた視界の端に写ったのは、黒板の前のグランドピアノ。
胸の中の決意を確かめるように、しばらくそのまま見つめていた。