[Theme 02]2年生編
54
頭が働かないまま、はるかを引きずって扉を開いた。
鍵をかけ、靴を脱ぎ捨てたのは、寮の瑛の部屋。
「ダメだって、瑛くん!」
抵抗しつつも、瑛が手を引く力の方が圧倒的に強く、靴のまま床に足をつくわけにはいかないはるかは咄嗟にローファーから足を引き抜く。
しかしその足はフローリングを滑り、身体ごとよろけてしまった。
その身体を抱き留め、そのまま床に座り込む。
戸惑う唇を、噛みつくように奪った。
背けようとする顔に手を添えて、身じろぎする身体に回した腕の力をより強くする。
何度も何度も口付けて、座り込んだ時にめくれ上がったスカートの中へ手を伸ばした。
「瑛くん!」
その隙にはるかは身を捩って、瑛の腕の中から抜け出した。
瑛を見上げる瞳には、ポーズだけだった先ほどとは違い、はっきりと怒りの色が込められていた。
「話、聞くから。それはやめて」
「…」
「ここは瑛くんだけのお部屋じゃないし、そんなことするための場所じゃないでしょ?」
一度抜け出されたからといって、もう一度腕の中に収めるのは簡単なことだったけれど。
それをさせない力が、その瞳にはあった。
「…ごめん」
力無く壁に寄りかかって、項垂れる。
「はるかが、また遠くへ行ってしまうのが、怖くて」
「…うん」
「俺、こんなだし。神宮行けなかったし」
「秋大会、去年より進んだでしょ?」
「そうだけど…」
「まだ春も夏もあるよ」
「でも、はるかはいねえじゃん」
意識しないようにしていたことを、言葉にしてしまった。
それ以前に、もうとっくに胸の内ではそれを思い知って、じくじくと痛んでいたけれど。
はるかは何も言わなかった。
視界の片隅でカーテンが揺れて、ふたりのいる玄関まで、冷たい風が届いた。
「…わたしだって、怖いよ」
冷えた腕をさすって、はるかが呟く。
「わたしはちゃんと、すべてを乗り越えて、大きくなって帰ってこられるかなって」
その腕が震えているのは、寒さのせいだけではないのが、声音から伝わってくる。
「そしてその時、瑛くんはまだわたしのことを待っててくれているかなって」
「それは、」
「当たり前だって、言ってくれるのわかってるよ。でもね…環境の変化は、驚くほど人を変えるから」
伏せていた瞳が、瑛を写した。
「瑛くんの気持ちを疑ってるわけじゃないし、何も恋愛に限った話じゃないよ。こないだお母さんも言ってたけど…わたしたちは、わたしたちが想像もつかないような日常を目指してる」
怒りも不安もまだそこにあるけれど、それ以上の何かが光を放つ瞳。
「怖いのは当たり前だよ。そこで信じられるのは、自分がやってきたことだけ。わたしはピアノ、瑛くんは野球。今わたしにできるのはやっぱりピアノを弾くことだけだし、瑛くんはそうだな、バットを振ること?」
そう言って、ふいにはるかの手が瑛の手に触れた。
──手も好きだなあ。どれだけ努力してきたんだろうって、気が遠くなる
あの時もこんなふうに、手に手をやさしく重ねてくれていた。
「それは、瑛くんもわかっているんでしょ?」
──すごくかっこいいよ
自分だけに向けられたその言葉を、はっきりと思い出す。
「…でも、怖いものは怖いから。それを口にするのは悪いことじゃないよ。共有したら、ちょっと楽になる気がする。そうやって乗り越えていこう。何度でも、向こうに行っても」
はるかのその言葉に、張り詰めていた糸が解けていった。
「不安、なんだ。今年結果出せないと。絶対また甲子園行くけど…でももし行けなかったら、この秋と春、結果出しとかないと…なのに、神宮ダメで」
「ハリアーズのスカウトをなめないでいただきたい」
「…」
「それにね、瑛くん。瑛くんはきっとプロに行けるって信じてるよ、でも高卒じゃなきゃダメってことないんだからね?その時は、わたしが瑛くんのこと、いつまでだって待つから」
「え…」
はるかはずい、と瑛に顔を寄せた。
「わたしの気持ちも、なめないでいただきたい!」
薄暗い玄関が、彼女の周りだけ明るく見えた。
少し恥ずかしそうに言い放ったはるかを引き寄せる。
今度は無理やり引っ張るんじゃなく、包み込むようにやさしく。
膝立ちになった彼女のやわらかい胸に顔を押し付ける形になったのには、焦ったようなラッキーなような気がした。
「…なんちゃらマジックとか、許さねえからな」
「わたしが求めるマジックは優勝マジックだけだよ。あ、今年もありがとうございます」
「日本一は?」
「日シリなんてなかった」
「はは。あー…俺の気持ちも、なめないでくれな」
おずおずと顔を上げると、はるかは驚いたような顔をして、そしてすぐに穏やかな笑みを浮かべた。
「うん。信じてる」
はるかはそれから、“もう二度とここへ自分を連れ込まないこと”と釘を刺して、こそこそと扉の向こうへ出ていった。
荷物も何もかも教室に置いたままだがとりあえず一息つこうと、居室に続く、薄く開いた扉に手をかけた。
「お疲れ様です」
平然と飛んできた声に、飛び上がった身体は思い切り扉に打ち付けられた。
「な、と、おま」
「僕の部屋でもあるんですから、いてもおかしくないでしょう」
「…靴、なかっただろ…」
「全部洗って干してるんで」
冬真が言う通り、ベランダには玄関にあるはずの冬真の靴たちがきれいに並んでいる。
「お前、文化祭は…」
「合唱コンクールの出番以外行ってません。こういう時じゃないと、まとまった洗い物できないんで」
「…」
「瑛先輩のもやろうか迷ったんですけど、思いついたの先輩が出た後なんで。勝手にやるのもなと」
「ああ、いや、それはいいんだけど…」
少しの沈黙の後、冬真が口を開く。
「本気で何かしら始まりそうだったらちょっと一言入れて出ていかせてもらうつもりでしたけど」
「それでいいのか、お前は」
「しょうがないでしょう、ここくらいしかないでしょうから」
「…」
「でも、瑛先輩が仕掛けても月城さんが全力で止めるかなと」
はるかが思うほど、瑛は信用されていないらしい。
「…悪い。ああ言われたし、もう連れ込んだりしねえから」
「いえ。将来メディアに暴露するネタのストックが増えましたから」
「はあっ!?」
冬真は涼しい顔で、スマートフォンを手に取る。
「例えば、これとか」
画面に映し出されたのは、甲子園球場の往来で、黒土がついたままのユニフォームではるかを抱き締める自分の姿。
角度的にはるかの顔は見えず、瑛の顔だけがはっきりと写っていた。
「な、お前…!」
「さっき聞いた話も、メモしておきます。僕は人前で話すのが苦手なので…メディア出演の際は、瑛先輩で笑いを取らせていただきます」
ぺこり、と音がつきそうなほどきれいにお辞儀をする冬真。
──ああ本当に、先が思いやられる。
ついつい頭を抱えるけれど、その胸は不思議とこれまでよりも軽かった。
頭が働かないまま、はるかを引きずって扉を開いた。
鍵をかけ、靴を脱ぎ捨てたのは、寮の瑛の部屋。
「ダメだって、瑛くん!」
抵抗しつつも、瑛が手を引く力の方が圧倒的に強く、靴のまま床に足をつくわけにはいかないはるかは咄嗟にローファーから足を引き抜く。
しかしその足はフローリングを滑り、身体ごとよろけてしまった。
その身体を抱き留め、そのまま床に座り込む。
戸惑う唇を、噛みつくように奪った。
背けようとする顔に手を添えて、身じろぎする身体に回した腕の力をより強くする。
何度も何度も口付けて、座り込んだ時にめくれ上がったスカートの中へ手を伸ばした。
「瑛くん!」
その隙にはるかは身を捩って、瑛の腕の中から抜け出した。
瑛を見上げる瞳には、ポーズだけだった先ほどとは違い、はっきりと怒りの色が込められていた。
「話、聞くから。それはやめて」
「…」
「ここは瑛くんだけのお部屋じゃないし、そんなことするための場所じゃないでしょ?」
一度抜け出されたからといって、もう一度腕の中に収めるのは簡単なことだったけれど。
それをさせない力が、その瞳にはあった。
「…ごめん」
力無く壁に寄りかかって、項垂れる。
「はるかが、また遠くへ行ってしまうのが、怖くて」
「…うん」
「俺、こんなだし。神宮行けなかったし」
「秋大会、去年より進んだでしょ?」
「そうだけど…」
「まだ春も夏もあるよ」
「でも、はるかはいねえじゃん」
意識しないようにしていたことを、言葉にしてしまった。
それ以前に、もうとっくに胸の内ではそれを思い知って、じくじくと痛んでいたけれど。
はるかは何も言わなかった。
視界の片隅でカーテンが揺れて、ふたりのいる玄関まで、冷たい風が届いた。
「…わたしだって、怖いよ」
冷えた腕をさすって、はるかが呟く。
「わたしはちゃんと、すべてを乗り越えて、大きくなって帰ってこられるかなって」
その腕が震えているのは、寒さのせいだけではないのが、声音から伝わってくる。
「そしてその時、瑛くんはまだわたしのことを待っててくれているかなって」
「それは、」
「当たり前だって、言ってくれるのわかってるよ。でもね…環境の変化は、驚くほど人を変えるから」
伏せていた瞳が、瑛を写した。
「瑛くんの気持ちを疑ってるわけじゃないし、何も恋愛に限った話じゃないよ。こないだお母さんも言ってたけど…わたしたちは、わたしたちが想像もつかないような日常を目指してる」
怒りも不安もまだそこにあるけれど、それ以上の何かが光を放つ瞳。
「怖いのは当たり前だよ。そこで信じられるのは、自分がやってきたことだけ。わたしはピアノ、瑛くんは野球。今わたしにできるのはやっぱりピアノを弾くことだけだし、瑛くんはそうだな、バットを振ること?」
そう言って、ふいにはるかの手が瑛の手に触れた。
──手も好きだなあ。どれだけ努力してきたんだろうって、気が遠くなる
あの時もこんなふうに、手に手をやさしく重ねてくれていた。
「それは、瑛くんもわかっているんでしょ?」
──すごくかっこいいよ
自分だけに向けられたその言葉を、はっきりと思い出す。
「…でも、怖いものは怖いから。それを口にするのは悪いことじゃないよ。共有したら、ちょっと楽になる気がする。そうやって乗り越えていこう。何度でも、向こうに行っても」
はるかのその言葉に、張り詰めていた糸が解けていった。
「不安、なんだ。今年結果出せないと。絶対また甲子園行くけど…でももし行けなかったら、この秋と春、結果出しとかないと…なのに、神宮ダメで」
「ハリアーズのスカウトをなめないでいただきたい」
「…」
「それにね、瑛くん。瑛くんはきっとプロに行けるって信じてるよ、でも高卒じゃなきゃダメってことないんだからね?その時は、わたしが瑛くんのこと、いつまでだって待つから」
「え…」
はるかはずい、と瑛に顔を寄せた。
「わたしの気持ちも、なめないでいただきたい!」
薄暗い玄関が、彼女の周りだけ明るく見えた。
少し恥ずかしそうに言い放ったはるかを引き寄せる。
今度は無理やり引っ張るんじゃなく、包み込むようにやさしく。
膝立ちになった彼女のやわらかい胸に顔を押し付ける形になったのには、焦ったようなラッキーなような気がした。
「…なんちゃらマジックとか、許さねえからな」
「わたしが求めるマジックは優勝マジックだけだよ。あ、今年もありがとうございます」
「日本一は?」
「日シリなんてなかった」
「はは。あー…俺の気持ちも、なめないでくれな」
おずおずと顔を上げると、はるかは驚いたような顔をして、そしてすぐに穏やかな笑みを浮かべた。
「うん。信じてる」
はるかはそれから、“もう二度とここへ自分を連れ込まないこと”と釘を刺して、こそこそと扉の向こうへ出ていった。
荷物も何もかも教室に置いたままだがとりあえず一息つこうと、居室に続く、薄く開いた扉に手をかけた。
「お疲れ様です」
平然と飛んできた声に、飛び上がった身体は思い切り扉に打ち付けられた。
「な、と、おま」
「僕の部屋でもあるんですから、いてもおかしくないでしょう」
「…靴、なかっただろ…」
「全部洗って干してるんで」
冬真が言う通り、ベランダには玄関にあるはずの冬真の靴たちがきれいに並んでいる。
「お前、文化祭は…」
「合唱コンクールの出番以外行ってません。こういう時じゃないと、まとまった洗い物できないんで」
「…」
「瑛先輩のもやろうか迷ったんですけど、思いついたの先輩が出た後なんで。勝手にやるのもなと」
「ああ、いや、それはいいんだけど…」
少しの沈黙の後、冬真が口を開く。
「本気で何かしら始まりそうだったらちょっと一言入れて出ていかせてもらうつもりでしたけど」
「それでいいのか、お前は」
「しょうがないでしょう、ここくらいしかないでしょうから」
「…」
「でも、瑛先輩が仕掛けても月城さんが全力で止めるかなと」
はるかが思うほど、瑛は信用されていないらしい。
「…悪い。ああ言われたし、もう連れ込んだりしねえから」
「いえ。将来メディアに暴露するネタのストックが増えましたから」
「はあっ!?」
冬真は涼しい顔で、スマートフォンを手に取る。
「例えば、これとか」
画面に映し出されたのは、甲子園球場の往来で、黒土がついたままのユニフォームではるかを抱き締める自分の姿。
角度的にはるかの顔は見えず、瑛の顔だけがはっきりと写っていた。
「な、お前…!」
「さっき聞いた話も、メモしておきます。僕は人前で話すのが苦手なので…メディア出演の際は、瑛先輩で笑いを取らせていただきます」
ぺこり、と音がつきそうなほどきれいにお辞儀をする冬真。
──ああ本当に、先が思いやられる。
ついつい頭を抱えるけれど、その胸は不思議とこれまでよりも軽かった。
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【優勝マジック】プロ野球において、「あと〇勝したらリーグ優勝」となる数字のこと。
【日シリ】日本シリーズ。両リーグのクライマックスシリーズ(上位3チームでの戦い)を勝ち抜いたチーム同士が日本一を争います。つまりリーグ優勝していないチームが日本一になることも、ウッ頭が…。