[Theme 02]2年生編
51
対岸は遥か遠く、湖かと見紛うほどに広大な川の、これまただだっ広い河川敷。
そのグラウンドは河口付近に位置し、よく風が吹いていた。
鈍い音とともに、打球が飛ぶ。
フェンスの手前、どこか緊張した面持ちで佇んでいた小さな人影が、地を蹴る。
そして、風に砂埃を舞い上げて──
顔面からきれいに落下した。
“はじめて試合に出るから観に来て欲しい”
学童保育の教室でそう言い放った瑛は、砂だらけの顔で静かに涙を流していた。
「ケガしなくてよかったね」
音符柄の小さなハンカチで、はるかがやさしく砂と涙を拭う。
「ああ、はるかちゃんいいよ!汚しちゃってごめんな」
すかさず裕士が、大きなタオルで瑛の顔をがしがしと擦った。
砂はきれいさっぱりなくなったけれど、涙は絶えず溢れるばかりだ。
黒板のスコアには、瑛のチームの敗北が記されている。
それをちらりと眺めたあと、はるかはおもむろにしゃがみ込んだ。
裕士が顔を擦った時に落ちてしまった、瑛の真新しい帽子を拾い上げる。
「ここが、デンセツのはじまりだね」
「…はあ?」
その帽子を瑛に被せながら告げた一言には、瑛も涙を止めて首を傾げた。
「瑛くんはきっと偉大な選手になる!と、わたしの中の久藤監督が言っています!」
「なんだよそれ…」
「ちなみに、ハリアーズは今年日本一になります!」
「…は、日本一になるのはウォルラスだし!」
への字に曲がっていた唇が弧を描く。
まだ少し大きい袖口で目元を拭えば、またべっとりと砂がついてしまったけれど、もうそこに涙はなかった。
──なおこの年、ハリアーズははるかの予言通り、2年ぶり8度目の日本一に輝いた。
「あの時と逆だなあ」
ぽつり、裕士が呟く。
「そうですねえ…」
薫もまた、涙を浮かべて笑うはるかと、その涙を拭う瑛の姿を眺めて、呟いた。
甲子園球場を後にした三人は昼食を共にし、急ぎの仕事があるという裕士は慌ただしく去っていった。
確かに、スーツではないものの、休日の割にはきちんとした格好だった。
裕士と別れた駅で、はるかと薫は買い物を楽しむことにした。
コスメカウンターの前を通りかかった時、はるかの瞳が輝くのを薫は見逃さなかった。
「やっぱり気になるお年頃?」
薫の問いかけに振り返ったはるかは、日焼け止め効果のある下地と、気分で色付きのリップクリームをつけるくらいだといつだったかに言っていた。
はっきりした顔立ちなのでそれでも十分華があるけれど、大学生になったらしっかりメイクをするようになって、もっときれいになるのだろうかと、思いを馳せる。
「あ、ハンドクリームとかもあるんだ…」
「ふふ、ちょっと見てみようか。あそこのとか、お姫様みたいでかわいいでしょ?」
「か、かわいい…!」
ぐるぐると見て回った後、二人は同じシリーズで香りの違うハンドクリームを買うことにした。
宝石のような飾りがついたそのデザインにはるかは気が引けるようだったけれど、遠慮する間もなく薫が会計まで済ませてしまった。
「ありがとう…!」
休憩がてらに立ち寄ったカフェのテーブル。
上品なデザインの紙袋を手に、はるかの瞳がきらきらと揺れる。
「普段なんにもしてあげられてないからねえ」
こんなものでごめんね、と困ったように笑う薫。
「…でも、今日すごく楽しい。瑛君たちの試合、ルール分かんなくても空気でいろいろ伝わってくるっていうか。みんなそれぞれ頑張ってて、面白いね!」
「そうでしょ!?瑛くんのお父さんが解説入れてくれてたしね」
「うん。でもやっぱり…一生懸命応援してるはるちゃんを見てるのが、一番楽しかったかなあ」
きょとん、とはるかが首を傾げる。
「もうね、思ってること全部顔に書いてあるの。そんなはるちゃんを見たのは…ピアノを弾いてる時くらいかな」
やわらかく細められた薫の瞳は、真っ直ぐに、はるかを映していた。
「こうして一緒にお出かけしてるのも、とっても嬉しい。こういうの、もうずいぶんなかったね…」
「お母さん、」
行きたいところがあるの。
そう告げたはるかの瞳を、薫はひどく懐かしく感じた。
二人が今までいたところとは違う駅ビルの地下。
エスカレーターの傍らに、小ぶりなグランドピアノが置かれていた。
「よかった、誰もいないみたい」
「はるちゃん…」
「ちょっと持っててもらってもいい?」
不思議と辺りには人の姿がなく、これ幸いとはるかは薫に荷物を預けた。
椅子に腰かけて、鍵盤を眺める。
どこか心配そうにはるかを見つめる薫にそっと微笑みかけて、短く息を吐いた。
それは一見とても、はるからしくない演奏だった。
ひとたび鍵盤に飛びつけば、小さい身体に溢れんばかりのエネルギーを爆発させて、力強い音を弾けさせていた幼い姿。
しかし薫の目の前にいるはるかは、いつくしむようにやさしく鍵盤を撫で、一音一音が羽根のようにふんわりと舞い上がっていく。
そしてその羽根は、あたたかな日の光のように、立ち竦む薫を包んだ。
聞き慣れたメロディから、アドリブへと変わる。
はるかの音色は穏やかなまま、だけどその端々に、踊るようなステップを。
深い愛を。
そして強い情熱を感じさせた。
ゆっくりと、最後の音が消えてゆく。
それを追いかけるように、いつの間にか集まっていた観衆の大きな拍手が沸き起こった。
「Over the Rainbow」
たった今弾いたその曲の名前を、はるかの唇がなぞる。
「わたしたちもあの夏から、前に進もう。お母さん」
はるかの言葉と重なるように、あの黒土の世界で聞いた音が、耳元で響いた気がした。
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■Over the Rainbow/Judy Garland
対岸は遥か遠く、湖かと見紛うほどに広大な川の、これまただだっ広い河川敷。
そのグラウンドは河口付近に位置し、よく風が吹いていた。
鈍い音とともに、打球が飛ぶ。
フェンスの手前、どこか緊張した面持ちで佇んでいた小さな人影が、地を蹴る。
そして、風に砂埃を舞い上げて──
顔面からきれいに落下した。
“はじめて試合に出るから観に来て欲しい”
学童保育の教室でそう言い放った瑛は、砂だらけの顔で静かに涙を流していた。
「ケガしなくてよかったね」
音符柄の小さなハンカチで、はるかがやさしく砂と涙を拭う。
「ああ、はるかちゃんいいよ!汚しちゃってごめんな」
すかさず裕士が、大きなタオルで瑛の顔をがしがしと擦った。
砂はきれいさっぱりなくなったけれど、涙は絶えず溢れるばかりだ。
黒板のスコアには、瑛のチームの敗北が記されている。
それをちらりと眺めたあと、はるかはおもむろにしゃがみ込んだ。
裕士が顔を擦った時に落ちてしまった、瑛の真新しい帽子を拾い上げる。
「ここが、デンセツのはじまりだね」
「…はあ?」
その帽子を瑛に被せながら告げた一言には、瑛も涙を止めて首を傾げた。
「瑛くんはきっと偉大な選手になる!と、わたしの中の久藤監督が言っています!」
「なんだよそれ…」
「ちなみに、ハリアーズは今年日本一になります!」
「…は、日本一になるのはウォルラスだし!」
への字に曲がっていた唇が弧を描く。
まだ少し大きい袖口で目元を拭えば、またべっとりと砂がついてしまったけれど、もうそこに涙はなかった。
──なおこの年、ハリアーズははるかの予言通り、2年ぶり8度目の日本一に輝いた。
「あの時と逆だなあ」
ぽつり、裕士が呟く。
「そうですねえ…」
薫もまた、涙を浮かべて笑うはるかと、その涙を拭う瑛の姿を眺めて、呟いた。
甲子園球場を後にした三人は昼食を共にし、急ぎの仕事があるという裕士は慌ただしく去っていった。
確かに、スーツではないものの、休日の割にはきちんとした格好だった。
裕士と別れた駅で、はるかと薫は買い物を楽しむことにした。
コスメカウンターの前を通りかかった時、はるかの瞳が輝くのを薫は見逃さなかった。
「やっぱり気になるお年頃?」
薫の問いかけに振り返ったはるかは、日焼け止め効果のある下地と、気分で色付きのリップクリームをつけるくらいだといつだったかに言っていた。
はっきりした顔立ちなのでそれでも十分華があるけれど、大学生になったらしっかりメイクをするようになって、もっときれいになるのだろうかと、思いを馳せる。
「あ、ハンドクリームとかもあるんだ…」
「ふふ、ちょっと見てみようか。あそこのとか、お姫様みたいでかわいいでしょ?」
「か、かわいい…!」
ぐるぐると見て回った後、二人は同じシリーズで香りの違うハンドクリームを買うことにした。
宝石のような飾りがついたそのデザインにはるかは気が引けるようだったけれど、遠慮する間もなく薫が会計まで済ませてしまった。
「ありがとう…!」
休憩がてらに立ち寄ったカフェのテーブル。
上品なデザインの紙袋を手に、はるかの瞳がきらきらと揺れる。
「普段なんにもしてあげられてないからねえ」
こんなものでごめんね、と困ったように笑う薫。
「…でも、今日すごく楽しい。瑛君たちの試合、ルール分かんなくても空気でいろいろ伝わってくるっていうか。みんなそれぞれ頑張ってて、面白いね!」
「そうでしょ!?瑛くんのお父さんが解説入れてくれてたしね」
「うん。でもやっぱり…一生懸命応援してるはるちゃんを見てるのが、一番楽しかったかなあ」
きょとん、とはるかが首を傾げる。
「もうね、思ってること全部顔に書いてあるの。そんなはるちゃんを見たのは…ピアノを弾いてる時くらいかな」
やわらかく細められた薫の瞳は、真っ直ぐに、はるかを映していた。
「こうして一緒にお出かけしてるのも、とっても嬉しい。こういうの、もうずいぶんなかったね…」
「お母さん、」
行きたいところがあるの。
そう告げたはるかの瞳を、薫はひどく懐かしく感じた。
二人が今までいたところとは違う駅ビルの地下。
エスカレーターの傍らに、小ぶりなグランドピアノが置かれていた。
「よかった、誰もいないみたい」
「はるちゃん…」
「ちょっと持っててもらってもいい?」
不思議と辺りには人の姿がなく、これ幸いとはるかは薫に荷物を預けた。
椅子に腰かけて、鍵盤を眺める。
どこか心配そうにはるかを見つめる薫にそっと微笑みかけて、短く息を吐いた。
それは一見とても、はるからしくない演奏だった。
ひとたび鍵盤に飛びつけば、小さい身体に溢れんばかりのエネルギーを爆発させて、力強い音を弾けさせていた幼い姿。
しかし薫の目の前にいるはるかは、いつくしむようにやさしく鍵盤を撫で、一音一音が羽根のようにふんわりと舞い上がっていく。
そしてその羽根は、あたたかな日の光のように、立ち竦む薫を包んだ。
聞き慣れたメロディから、アドリブへと変わる。
はるかの音色は穏やかなまま、だけどその端々に、踊るようなステップを。
深い愛を。
そして強い情熱を感じさせた。
ゆっくりと、最後の音が消えてゆく。
それを追いかけるように、いつの間にか集まっていた観衆の大きな拍手が沸き起こった。
「Over the Rainbow」
たった今弾いたその曲の名前を、はるかの唇がなぞる。
「わたしたちもあの夏から、前に進もう。お母さん」
はるかの言葉と重なるように、あの黒土の世界で聞いた音が、耳元で響いた気がした。
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■Over the Rainbow/Judy Garland