[Theme 02]2年生編
50
「こ、これは…近い…!」
早朝の甲子園球場で、はるかは震えていた。
眼前には黒土が広がり、打席やマウンド、内野がいずれも間近に見える座席。
ベンチ前に整列した部員たちの後ろ姿から、迫力が伝わってくる。
「今までは、あっちにいたの?」
薫が指さしたのは、アルプス席。
吹奏楽部員やベンチに入っていない野球部員たちが、応援の準備をしている様子が見える。
「もうちょっと近かったけど、でも、ここまででは…」
──鷺嶋高校、ノック始めてください。
アナウンスとともに、選手たちが大きな声を上げてベンチ前から走り出す。
あの特徴的なサイレンが鳴り、拓真が三塁へ球を投げ込むや否や、目まぐるしいほどの速さで白球が飛び交いはじめた。
その間も、選手たちは絶えず声を張り上げている。
「すごいね…」
薫が隣で声を漏らした。
はるかも試合前のノックは何度も見ているが、この場所で見ると、また違ったものに見えた。
「あ、あれが瑛君?」
監督が打ち込んだ球を、一際鮮やかな動作で処理する姿。
背中には“6”。
はるかは静かに頷いた。
「おーやってるやってる」
しばらく呆然と眺めていると、頭上から声がした。
「どうも、すみません。新幹線遅れちゃって…」
「日坂さん、お久しぶりです」
「こんにちは。お席ここですよ」
裕士は薫に会釈し、はるかの隣に腰を下ろした。
「瑛君、本当にすごいですね!」
「いやあ、ついていけてるか不安でしたけど…頑張ってるみたいですね、何とか!」
「ついていってるどころじゃないですよ…!」
はるかの心臓は、先ほどからどくどくと大きく脈打っていた。
白球を追う瑛の、眼差しまでもが見て取れる距離。
いっそアルプスでサックスを吹きながら見る方がちょうどよかったのではないかと、脳裏に過った。
「これは、死んでしまう…」
「アッハッハ!そら困るな!」
「はるちゃん、そんなに好きなのねえ」
県大会決勝に引き続き後攻となった、甲子園第一戦。
マウンドには正也が立っている。
そしてはるかたちの目の前、三塁の奥から、瑛が声をかけている。
さすがに何を言っているかまでは聞き取れない。
予定時刻ちょうどに、サイレンが鳴り響いた。
「…は、はるちゃんこれってピンチ…?」
先頭打者にフォアボール、連打を浴びていきなりの満塁。
この大舞台でさすがに緊張してしまったのが明らかで、正也の顔は見事に真っ青であった。
「球荒れてんなあ…」
裕士の呟きの通り、なかなかストライクが入らない。
それでもなんとか空振り三振に抑えワンナウトとなるも尚、満塁である。
拓真が大きく腕を広げる。
マウンドの正也は小刻みに頷いた。
「わ…っ!」
甲高い打球音に、隣で薫が息を呑む。
しかしはるかは冷静だった。
──三遊間は、抜かせない!
力強く黒土を跳ねた打球は、導かれるように瑛のグラブへ。
そして瞬きをする間もなく二塁へ、一塁へと渡った。
「よっしゃゲッツー!」
歓声に迎えられ、選手たちがベンチへと戻る。
瑛と正也が思い切りグラブを合わせていた。
「すごい、すごいねはるちゃん!」
「これが鷺嶋の守備職人…!甲子園でもいきなり魅せた…っ」
はるかはそう呟きながら、胸を叩く鼓動が一層強くなっていくのを感じていた。
県大会の決勝ではあまり自分の力を出せていなかった4、5番以外の上位打線も、甲子園の地に快音を響かせた。
守備陣に助けられながら正也のピッチングも徐々に安定し、危険な立ち上がりからするとかなり最小限の失点に抑えた。
同点で迎えた後半戦では下位打線で再び代打・冬真が登場し、期待に応えるバッティングを見せる。
“瑛と甲子園で二遊間を守ってみたい”という彼の言葉も、来年には現実になるかもしれない。
均衡を破ったのは、主将の一本。
拓真の手元からライトスタンドへと描かれた放物線は、彼自身の信念を現すように力強かった。
この試合において最高潮の歓声の中、打席に向かう背中。
はるかが一番好きなその背中も、すぐそこに見えて、それでいて遥か遠くにも感じた。
応援歌が聞こえる。
ふたりが再会を果たした、その瞬間に流れていた曲。
──みんな、かっこいいよ。全国に響いてるよ!
吹奏楽部員たちの顔を思い浮かべて、笑みがこぼれる。
野球部員たちも、はるかたちの座席とは違い、焼けつくような日光が直撃するその場所で、まさに全身全霊で声を張り上げている。
瑛と一緒に戦っているチームメイトの気持ち。
瑛を応援するすべての人々の気持ち。
そして、はるかの気持ち。
すべてがエネルギーとなって、爆発する瞬間。
世界でもっとも美しい音楽とともに、白球が空へと飛び立っていった。
決勝のサヨナラを思い出させるような軌道。
しかしそれは途中でゆるやかに速度を減らし、右中間の芝生を跳ねた。
「入るかと思ったなあ、すげーぞ瑛ー!」
「瑛君また打ったね!はるちゃん!」
止まない歓声も、裕士や薫の声も、はるかには聞こえなかった。
その瞬間の残響だけが、はるかの中に広がり続ける。
軽やかなスライディングで二塁に辿り着く瑛の姿が、水面のようにゆらゆらと揺れていた。
『ご覧のように5対3で、鷺嶋高校が勝ちました。ただいまから鷺嶋高校の栄誉を称え、同校の校歌を──』
校歌が流れた後、選手たちはアルプス席へと駆け出して行った。
はるかは何も言えず、身動きも取れないまま、ただ茫然と戦いが終わったフィールドを眺めていた。
薫と裕士は、ただそれを見守っていた。
「あ」
アルプス席からベンチへと戻る途中、瑛が足を止めた。
それに気付いた裕士が、大きく手を振る。
「次も頑張れよー!」
周りの観客が振り返るほどの大きな声。
瑛は一瞬顔をしかめて、ぎこちなくグラブを掲げた。
そして瑛の視線が、はるかと重なる。
はるかはただ頷くことしかできなかったけれど、瑛はふっと表情を緩めて、ゆっくりと頷いた。
その姿がいきなり傾いたかと思えば、どうやら正也が蹴りを入れたようだ。
瑛は最後に薫に会釈をし、ベンチへと戻っていった。
「瑛君に会っていかれないんですか?」
「いいんですよ、また正月ゆっくりで。はるかちゃんには会いたいでしょうけど」
壁面のボードに記された試合結果を写真に収めながら、振り返る。
「わたしも、大丈夫。そんなタイミングないと思うし」
「そう?ならいいんだけど…」
「おっ、タイミングならあったみたいだな」
裕士につられて視線を動かすと、試合を終えたばかりの瑛が駆け寄ってきていた。
「うそ、瑛くん!?」
「ハア…よかった、間に合って」
ユニフォームに黒土を纏わせたその姿に、胸が詰まる。
「瑛君すごいね!頑張ってたね!」
「ありがとうございます」
「いやー、いっつも球捕れなくてすっころんでたのになあ!」
「いつの話だよ…はるか?」
また、瑛の姿がゆらゆらと揺らいだ。
じわりと滲んだ日差しのなかで、少し土のついた顔が近付いてくる。
ほんの一瞬、溶けるようにやわらかな笑顔が視界を埋めて、すぐに何も見えなくなった。
身体中を包む熱と、メントールの刺激と、ミントの香り。
「そんなにいいもん見れたかよ?」
頭の上から降ってくる声に、何も言えずただこくこくと頷く。
きっとはるかの服にも土がついてしまっているはずだけど、そんなことは気にも留まらなかった。
公共の場で、ましてやお互いの親の前でこんな状態になっていることについては、じわじわと気になりはじめていたけれど。
「次も、来年も、その先のまた新しい景色も…何度だって見せてやるから、もう泣くなよ」
離れていった熱。
その笑顔は太陽を背負って、あまりにも眩しかった。
「こ、これは…近い…!」
早朝の甲子園球場で、はるかは震えていた。
眼前には黒土が広がり、打席やマウンド、内野がいずれも間近に見える座席。
ベンチ前に整列した部員たちの後ろ姿から、迫力が伝わってくる。
「今までは、あっちにいたの?」
薫が指さしたのは、アルプス席。
吹奏楽部員やベンチに入っていない野球部員たちが、応援の準備をしている様子が見える。
「もうちょっと近かったけど、でも、ここまででは…」
──鷺嶋高校、ノック始めてください。
アナウンスとともに、選手たちが大きな声を上げてベンチ前から走り出す。
あの特徴的なサイレンが鳴り、拓真が三塁へ球を投げ込むや否や、目まぐるしいほどの速さで白球が飛び交いはじめた。
その間も、選手たちは絶えず声を張り上げている。
「すごいね…」
薫が隣で声を漏らした。
はるかも試合前のノックは何度も見ているが、この場所で見ると、また違ったものに見えた。
「あ、あれが瑛君?」
監督が打ち込んだ球を、一際鮮やかな動作で処理する姿。
背中には“6”。
はるかは静かに頷いた。
「おーやってるやってる」
しばらく呆然と眺めていると、頭上から声がした。
「どうも、すみません。新幹線遅れちゃって…」
「日坂さん、お久しぶりです」
「こんにちは。お席ここですよ」
裕士は薫に会釈し、はるかの隣に腰を下ろした。
「瑛君、本当にすごいですね!」
「いやあ、ついていけてるか不安でしたけど…頑張ってるみたいですね、何とか!」
「ついていってるどころじゃないですよ…!」
はるかの心臓は、先ほどからどくどくと大きく脈打っていた。
白球を追う瑛の、眼差しまでもが見て取れる距離。
いっそアルプスでサックスを吹きながら見る方がちょうどよかったのではないかと、脳裏に過った。
「これは、死んでしまう…」
「アッハッハ!そら困るな!」
「はるちゃん、そんなに好きなのねえ」
県大会決勝に引き続き後攻となった、甲子園第一戦。
マウンドには正也が立っている。
そしてはるかたちの目の前、三塁の奥から、瑛が声をかけている。
さすがに何を言っているかまでは聞き取れない。
予定時刻ちょうどに、サイレンが鳴り響いた。
「…は、はるちゃんこれってピンチ…?」
先頭打者にフォアボール、連打を浴びていきなりの満塁。
この大舞台でさすがに緊張してしまったのが明らかで、正也の顔は見事に真っ青であった。
「球荒れてんなあ…」
裕士の呟きの通り、なかなかストライクが入らない。
それでもなんとか空振り三振に抑えワンナウトとなるも尚、満塁である。
拓真が大きく腕を広げる。
マウンドの正也は小刻みに頷いた。
「わ…っ!」
甲高い打球音に、隣で薫が息を呑む。
しかしはるかは冷静だった。
──三遊間は、抜かせない!
力強く黒土を跳ねた打球は、導かれるように瑛のグラブへ。
そして瞬きをする間もなく二塁へ、一塁へと渡った。
「よっしゃゲッツー!」
歓声に迎えられ、選手たちがベンチへと戻る。
瑛と正也が思い切りグラブを合わせていた。
「すごい、すごいねはるちゃん!」
「これが鷺嶋の守備職人…!甲子園でもいきなり魅せた…っ」
はるかはそう呟きながら、胸を叩く鼓動が一層強くなっていくのを感じていた。
県大会の決勝ではあまり自分の力を出せていなかった4、5番以外の上位打線も、甲子園の地に快音を響かせた。
守備陣に助けられながら正也のピッチングも徐々に安定し、危険な立ち上がりからするとかなり最小限の失点に抑えた。
同点で迎えた後半戦では下位打線で再び代打・冬真が登場し、期待に応えるバッティングを見せる。
“瑛と甲子園で二遊間を守ってみたい”という彼の言葉も、来年には現実になるかもしれない。
均衡を破ったのは、主将の一本。
拓真の手元からライトスタンドへと描かれた放物線は、彼自身の信念を現すように力強かった。
この試合において最高潮の歓声の中、打席に向かう背中。
はるかが一番好きなその背中も、すぐそこに見えて、それでいて遥か遠くにも感じた。
応援歌が聞こえる。
ふたりが再会を果たした、その瞬間に流れていた曲。
──みんな、かっこいいよ。全国に響いてるよ!
吹奏楽部員たちの顔を思い浮かべて、笑みがこぼれる。
野球部員たちも、はるかたちの座席とは違い、焼けつくような日光が直撃するその場所で、まさに全身全霊で声を張り上げている。
瑛と一緒に戦っているチームメイトの気持ち。
瑛を応援するすべての人々の気持ち。
そして、はるかの気持ち。
すべてがエネルギーとなって、爆発する瞬間。
世界でもっとも美しい音楽とともに、白球が空へと飛び立っていった。
決勝のサヨナラを思い出させるような軌道。
しかしそれは途中でゆるやかに速度を減らし、右中間の芝生を跳ねた。
「入るかと思ったなあ、すげーぞ瑛ー!」
「瑛君また打ったね!はるちゃん!」
止まない歓声も、裕士や薫の声も、はるかには聞こえなかった。
その瞬間の残響だけが、はるかの中に広がり続ける。
軽やかなスライディングで二塁に辿り着く瑛の姿が、水面のようにゆらゆらと揺れていた。
『ご覧のように5対3で、鷺嶋高校が勝ちました。ただいまから鷺嶋高校の栄誉を称え、同校の校歌を──』
校歌が流れた後、選手たちはアルプス席へと駆け出して行った。
はるかは何も言えず、身動きも取れないまま、ただ茫然と戦いが終わったフィールドを眺めていた。
薫と裕士は、ただそれを見守っていた。
「あ」
アルプス席からベンチへと戻る途中、瑛が足を止めた。
それに気付いた裕士が、大きく手を振る。
「次も頑張れよー!」
周りの観客が振り返るほどの大きな声。
瑛は一瞬顔をしかめて、ぎこちなくグラブを掲げた。
そして瑛の視線が、はるかと重なる。
はるかはただ頷くことしかできなかったけれど、瑛はふっと表情を緩めて、ゆっくりと頷いた。
その姿がいきなり傾いたかと思えば、どうやら正也が蹴りを入れたようだ。
瑛は最後に薫に会釈をし、ベンチへと戻っていった。
「瑛君に会っていかれないんですか?」
「いいんですよ、また正月ゆっくりで。はるかちゃんには会いたいでしょうけど」
壁面のボードに記された試合結果を写真に収めながら、振り返る。
「わたしも、大丈夫。そんなタイミングないと思うし」
「そう?ならいいんだけど…」
「おっ、タイミングならあったみたいだな」
裕士につられて視線を動かすと、試合を終えたばかりの瑛が駆け寄ってきていた。
「うそ、瑛くん!?」
「ハア…よかった、間に合って」
ユニフォームに黒土を纏わせたその姿に、胸が詰まる。
「瑛君すごいね!頑張ってたね!」
「ありがとうございます」
「いやー、いっつも球捕れなくてすっころんでたのになあ!」
「いつの話だよ…はるか?」
また、瑛の姿がゆらゆらと揺らいだ。
じわりと滲んだ日差しのなかで、少し土のついた顔が近付いてくる。
ほんの一瞬、溶けるようにやわらかな笑顔が視界を埋めて、すぐに何も見えなくなった。
身体中を包む熱と、メントールの刺激と、ミントの香り。
「そんなにいいもん見れたかよ?」
頭の上から降ってくる声に、何も言えずただこくこくと頷く。
きっとはるかの服にも土がついてしまっているはずだけど、そんなことは気にも留まらなかった。
公共の場で、ましてやお互いの親の前でこんな状態になっていることについては、じわじわと気になりはじめていたけれど。
「次も、来年も、その先のまた新しい景色も…何度だって見せてやるから、もう泣くなよ」
離れていった熱。
その笑顔は太陽を背負って、あまりにも眩しかった。