[Theme 01]1年生編
05
ロードワークのふりをして寮を出て、夜の闇が迫る道を歩きながらスマートフォンをスクロールし続けたが、求めるような情報は見当たらなかった。
正也が見せてきた記事と同じようなものがいくつか、あとは同姓同名と思わしき人物のSNSか、“100m走 鷺嶋中学校 月城はるか”…これはひょっとすると本人かもしれない。
「11秒って…男子かよ…」
また一つ垣間見てしまった知らない側面に、溜息をこぼす。
河川敷に座り込み、もはや適当に思いつく単語を検索窓に打ち込んでいた。
消灯時間を考え、そろそろ帰ろうかと思い始めたところで、ふと目が留まった。
──ボストンのホテルで火災 ジャズライブを観るため滞在していた日本人夫婦が死亡
米マサチューセッツ州ボストンのホテルで13日、火災が発生し、46名が重軽傷を負い、うち10名が死亡した。
死亡した宿泊客の中には日本人の藤川 勝さん(65)・光枝さん(62)夫妻が含まれ、遺族の証言によると近隣のジャズ・クラブでのライブを観るために滞在していたという。
いずれも聞き覚えのない名前だ。
しかし見出しの下に記された日付は、はるかが渡米していたはずの時期と重なる。
そして唐突に、頭の中に父親の声が木霊した。
──はるかちゃん、ついに一人でライブに出るらしいぞ!
強烈な胸騒ぎがする。
居ても立っても居られなくて、衝動的に立ち上がる。
ひどい眩暈がした。
これ以上触れてはいけない。
きっとはるかは望まない。
それは、最初から分かっていたはずなのに。
瑛はもう二度と、彼女のことを探ろうとはしなかった。
「今年もダメだったねー」
窓の外を眺めながら、なんてことのない世間話のように杏里は言った。
「ちょ、ちょっと…」
「さすがに聞こえないよ」
そこは見晴らしが良く、グラウンドにも近い場所。
声を出し白球を追いかける部員たちは、つい先日よりも少なくなっていた。
「…6回のツーベース、あれは絶対アウトだった」
「え?」
「動揺してしまうのも無理はないよ…あれで流れを持っていかれてしまったね。高校野球にもリクエストがあれば…っ」
はるかは膝の上で、ぎゅっと手を握りしめた。
「でもすごいじゃん、日坂君出たんでしょ?」
「ああ…あれはびっくりしたよ。まさかの代打起用に応える鮮烈なタイムリー…!悔しくもその後打線は繋がらなかったけど、その裏 今度は守備で鮮やかなゲッツー…!瑛くん、まさかここまで成長していたとは…」
「あー…うん、よかったね。それ言ってあげれば?絶対喜ぶでしょ。おはるのこと大好きっぽいし」
「いやいや、さすがに今は声かけられないよ…」
──それに、瑛くんはきっと…
「まあ、うちらとしてはコンクールに集中できるから有難いけどね」
「杏里ちゃん…」
「そんじゃそろそろやるかー。おはるはやっぱり一人で?」
「あ、うん。ごめんね」
気にしないで、と手を振りながら歩いて行く杏里を見送り、はるかも歩き出した。
人気の少ない場所を選び、椅子と譜面台を広げる。
瞬間、音符をたどるでもなく、頭に流れこんでくるメロディ。
それをかき消そうと、サックスに息を吹き込んだ。
身体に染み込んでいるものとは少し違う、リズムの取り方に意識を集中させながら。
──大丈夫。これは、違う。別物だから。
全力でそう言い聞かせるのに、“あの景色”が脳裏に迫る。
レンガ造りの空間。
色とりどりの楽器と大人たち。
古びたアップライトピアノ、まるでどこまでも続くような、白と黒の──
「は…っ」
息が詰まり、リードから唇を離す。
足元が歪んで、地面に吸い込まれていく感覚。
「はるか!」
ネットを補修するから、使っていないものを取ってこいと言われ向かっていた倉庫のそばで。
長い髪が揺れるのを見て、心臓が凍り付いた。
「はるか、はるか!」
きっと無意識にサックスを抱え込んで、背中から崩れ落ちようとしたその身体を必死に抱き留める。
はるかはひどい顔色で、まるで海で溺れているように呼吸が覚束ない。
「瑛!」
振り返ると、いつの間にか正也が監督を連れて来ていた。
一緒にネットを取りに来ていたことを思い出す。
「動けるか」
「…」
「大丈夫だ、まずは呼吸を落ち着けよう。ゆっくり、長く吐くんだ。高原!保健の先生を呼んでこい」
「はい!」
自分だけが何もできず、抱き留めたままでいる間にはるかは少しずつ呼吸を取り戻していった。
相変わらず顔色は悪いままだがゆっくりと立ち上がれるようになり、養護教諭に連れられて保健室へ向かった。
「日坂、その楽器と楽譜はとりあえず音楽室に届けてこい」
「…はい」
「焦らなくていいから、壊さないように」
それは、楽器のことだけじゃないように、聞こえてしまった。
「高原は練習に戻れ。ネット運ぶぞ」
「えっ、監督とすか!?恐れ多い…」
「お前…そのへんの先生じゃなくてわざわざ俺を呼びに来たと思ったら、よく分らんヤツだな」
「とりあえず大人を、と思ったら監督が浮かんだんで…」
二人の声が遠ざかっていっても、しばらくは動けずにいた。
やがてようやく、コンクリートの床に散らばった楽譜に手を伸ばす。
あの頃、少女が抱えていた“記号の本”よりもずいぶんと情報量の多いそれ。
拾い集める手が、また止まった。
“Take Five”
春に電車ではるかと再会してから、曲名を意識するようになったプレイリストの中に、その名前もあった気がする。
──ボストンのホテルで火災 ジャズライブを観るため滞在していた日本人夫婦が死亡
ネットニュースの見出しと、はるかの青白い顔。
そして少女の笑顔が、記憶の底で揺れた。
________________
■Take Five/Dave Brubeck(原曲)
【ツーベース】二塁打。
【リクエスト】審判の判定に異議があった際に、映像による再検証を行う仕組みです。高校野球には導入されていません。
【タイムリー】ヒットによって既に出塁していたランナーが帰り、得点に繋がった場合、このヒットは「タイムリーヒット」となります。
【ゲッツー】一つのプレーでアウトを二つとること。さすがに説明しきれないので、YouTubeで「無限併殺」で検索してください…
ロードワークのふりをして寮を出て、夜の闇が迫る道を歩きながらスマートフォンをスクロールし続けたが、求めるような情報は見当たらなかった。
正也が見せてきた記事と同じようなものがいくつか、あとは同姓同名と思わしき人物のSNSか、“100m走 鷺嶋中学校 月城はるか”…これはひょっとすると本人かもしれない。
「11秒って…男子かよ…」
また一つ垣間見てしまった知らない側面に、溜息をこぼす。
河川敷に座り込み、もはや適当に思いつく単語を検索窓に打ち込んでいた。
消灯時間を考え、そろそろ帰ろうかと思い始めたところで、ふと目が留まった。
──ボストンのホテルで火災 ジャズライブを観るため滞在していた日本人夫婦が死亡
米マサチューセッツ州ボストンのホテルで13日、火災が発生し、46名が重軽傷を負い、うち10名が死亡した。
死亡した宿泊客の中には日本人の藤川 勝さん(65)・光枝さん(62)夫妻が含まれ、遺族の証言によると近隣のジャズ・クラブでのライブを観るために滞在していたという。
いずれも聞き覚えのない名前だ。
しかし見出しの下に記された日付は、はるかが渡米していたはずの時期と重なる。
そして唐突に、頭の中に父親の声が木霊した。
──はるかちゃん、ついに一人でライブに出るらしいぞ!
強烈な胸騒ぎがする。
居ても立っても居られなくて、衝動的に立ち上がる。
ひどい眩暈がした。
これ以上触れてはいけない。
きっとはるかは望まない。
それは、最初から分かっていたはずなのに。
瑛はもう二度と、彼女のことを探ろうとはしなかった。
「今年もダメだったねー」
窓の外を眺めながら、なんてことのない世間話のように杏里は言った。
「ちょ、ちょっと…」
「さすがに聞こえないよ」
そこは見晴らしが良く、グラウンドにも近い場所。
声を出し白球を追いかける部員たちは、つい先日よりも少なくなっていた。
「…6回のツーベース、あれは絶対アウトだった」
「え?」
「動揺してしまうのも無理はないよ…あれで流れを持っていかれてしまったね。高校野球にもリクエストがあれば…っ」
はるかは膝の上で、ぎゅっと手を握りしめた。
「でもすごいじゃん、日坂君出たんでしょ?」
「ああ…あれはびっくりしたよ。まさかの代打起用に応える鮮烈なタイムリー…!悔しくもその後打線は繋がらなかったけど、その裏 今度は守備で鮮やかなゲッツー…!瑛くん、まさかここまで成長していたとは…」
「あー…うん、よかったね。それ言ってあげれば?絶対喜ぶでしょ。おはるのこと大好きっぽいし」
「いやいや、さすがに今は声かけられないよ…」
──それに、瑛くんはきっと…
「まあ、うちらとしてはコンクールに集中できるから有難いけどね」
「杏里ちゃん…」
「そんじゃそろそろやるかー。おはるはやっぱり一人で?」
「あ、うん。ごめんね」
気にしないで、と手を振りながら歩いて行く杏里を見送り、はるかも歩き出した。
人気の少ない場所を選び、椅子と譜面台を広げる。
瞬間、音符をたどるでもなく、頭に流れこんでくるメロディ。
それをかき消そうと、サックスに息を吹き込んだ。
身体に染み込んでいるものとは少し違う、リズムの取り方に意識を集中させながら。
──大丈夫。これは、違う。別物だから。
全力でそう言い聞かせるのに、“あの景色”が脳裏に迫る。
レンガ造りの空間。
色とりどりの楽器と大人たち。
古びたアップライトピアノ、まるでどこまでも続くような、白と黒の──
「は…っ」
息が詰まり、リードから唇を離す。
足元が歪んで、地面に吸い込まれていく感覚。
「はるか!」
ネットを補修するから、使っていないものを取ってこいと言われ向かっていた倉庫のそばで。
長い髪が揺れるのを見て、心臓が凍り付いた。
「はるか、はるか!」
きっと無意識にサックスを抱え込んで、背中から崩れ落ちようとしたその身体を必死に抱き留める。
はるかはひどい顔色で、まるで海で溺れているように呼吸が覚束ない。
「瑛!」
振り返ると、いつの間にか正也が監督を連れて来ていた。
一緒にネットを取りに来ていたことを思い出す。
「動けるか」
「…」
「大丈夫だ、まずは呼吸を落ち着けよう。ゆっくり、長く吐くんだ。高原!保健の先生を呼んでこい」
「はい!」
自分だけが何もできず、抱き留めたままでいる間にはるかは少しずつ呼吸を取り戻していった。
相変わらず顔色は悪いままだがゆっくりと立ち上がれるようになり、養護教諭に連れられて保健室へ向かった。
「日坂、その楽器と楽譜はとりあえず音楽室に届けてこい」
「…はい」
「焦らなくていいから、壊さないように」
それは、楽器のことだけじゃないように、聞こえてしまった。
「高原は練習に戻れ。ネット運ぶぞ」
「えっ、監督とすか!?恐れ多い…」
「お前…そのへんの先生じゃなくてわざわざ俺を呼びに来たと思ったら、よく分らんヤツだな」
「とりあえず大人を、と思ったら監督が浮かんだんで…」
二人の声が遠ざかっていっても、しばらくは動けずにいた。
やがてようやく、コンクリートの床に散らばった楽譜に手を伸ばす。
あの頃、少女が抱えていた“記号の本”よりもずいぶんと情報量の多いそれ。
拾い集める手が、また止まった。
“Take Five”
春に電車ではるかと再会してから、曲名を意識するようになったプレイリストの中に、その名前もあった気がする。
──ボストンのホテルで火災 ジャズライブを観るため滞在していた日本人夫婦が死亡
ネットニュースの見出しと、はるかの青白い顔。
そして少女の笑顔が、記憶の底で揺れた。
________________
■Take Five/Dave Brubeck(原曲)
【ツーベース】二塁打。
【リクエスト】審判の判定に異議があった際に、映像による再検証を行う仕組みです。高校野球には導入されていません。
【タイムリー】ヒットによって既に出塁していたランナーが帰り、得点に繋がった場合、このヒットは「タイムリーヒット」となります。
【ゲッツー】一つのプレーでアウトを二つとること。さすがに説明しきれないので、YouTubeで「無限併殺」で検索してください…