[Theme 02]2年生編
48
鷺嶋高校野球部の、12年振りの甲子園出場が決まった2日後。
ふたりは夕方の駅のホームに立っていた。
通勤・通学の時間に差し掛かり、いつもはがらんとしているこの沿線にもやや混雑が見られる。
それでも“人混みに揉まれる”といったほどではなく、列車を待つ人々の間にはゆったりとした間隔が空いている。
「ち、近いよ」
──はるかと瑛の間を除いて。
「いいだろ別に」
「…暑くないの?」
「暑くねえし、暑くてもいいだろ」
「めちゃくちゃだ…」
俯いて身じろぎするはるかがなんだか面白くなくて、瑛は腰を屈めてその顔を覗き込んだ。
「わっ!ひ、人前ですよ…!」
「別にキスするわけじゃねえんだぞ」
「…それ、野球部で流行ってるの…?」
一体自分のほかに誰がそんなことを、と詰め寄りかけたがそれでは話が逸れてしまう。
顔を赤くしたはるかを、無言で見つめ続けた。
やがて観念したようで、はるかがそっと口を開いた。
「…瑛くんは、わたしの幼馴染であり、か、彼氏さんであり…」
「うん」
「それと同時に、推しでもあるわけです…!」
「出た」
「そんな人の、あんな試合を見たら、その…どうしても緊張しちゃって…!」
そう言って、半歩ほど距離を広げられてしまった。
試合の様子はサックスを吹きながらでもしっかりと目に映していたものの、やはり集中してじっくり見たい、ということで帰ってすぐに録画していたテレビ放送を観たらしい。
リアルタイムで味わった感覚と、カメラがはっきりと捉えた映像が重なり、さらなる感動に満たされるとともに選手としての瑛の魅力に心臓を撃ち抜かれたという。
「高原君を何度も救ったもはや職人技の守備…みんなの期待に必ず応える勝負強さ…そしてあの“幻のホームラン”を越えた、サヨナラ弾…!」
「…あったな、そんなのも」
「風すら黙る打球、いや、あれはたとえ風が吹いていても乗り越えていたでしょう…」
「褒めてくれるのは嬉しいんだけどさ、」
広げられた距離を、もう一度詰める。
「そんなんで緊張されてたんじゃ、こっから先俺どんどん寂しくなっちゃうんだけど」
「は…」
息を呑んだはるかに、囁く。
「もっと良いプレー見せるつもりなんだけど?はるかと──」
──はるかの母さんに。
ふたりのもとに、大きな音を立てて列車が滑り込んできた。
ふたりが降りた駅から程近い場所に、そのマンションはあった。
「ついたよー」
インターホンに向かってはるかが告げると、扉が開かれる。
「いらっしゃい」
そこにいた小柄な女性の姿に、遠い記憶がよみがえった。
「大きくなったね」
そう言って瑛を見上げる目線は、はるかとほぼ同じだ。
「…お久しぶりです」
「うん。どうぞ、入って入って」
予想していたよりもその雰囲気は穏やかで、はるかと二人でお茶を用意しているキッチンからは賑やかな声が聞こえてくる。
もう通院はしていないということは聞いていたが、日常生活を送る上で問題になるようなことはほとんどないのかもしれない。
「ええ、はるちゃん今からコーヒー飲むの?」
「大丈夫だよ、何杯飲んでも眠れるよ!」
「瑛くんは?プロテインとかがいいかなあ」
「あの、すいません」
ツッコミ不在の危険なキッチンに、堪らず顔を出す。
はるかが開けた冷蔵庫に、見慣れたお茶のペットボトルがあった。
「俺、それで…」
「これでいいの?まあ暑いもんね」
「注いでくるから座っててね」
一安心して、リビングに戻る。
すぐそばの棚には写真が並べられていた。
真新しい高校の制服を着たはるか。
赤ちゃん──おそらく、はるか──を抱きかかえる、優しそうな老夫婦。
そして、ピアノの傍らに並んで座る、ふたりの男女。
「お待たせー、一応氷入れてみたよ」
「あ、ありがとうございます」
丸っこいグラスに、氷とともに注がれたお茶が差し出される。
二人はそれぞれマグカップを手にしていた。
「ええと、はるちゃんからいろいろ聞いてるよ。はるちゃんと…」
「すいません、俺から言わせてください。はるかさんと、年明けからお付き合いさせていただいてます」
いきなり切り出された話題を、どうにか瑛の口から告げた。
嬉しそうに笑う目元ははるかよりもすっきりとしているけれど、鼻や口元はそっくりだ。
「なんだかドラマみたいだねえ、うふふ。いつかこうなる気はしてたけど」
「そうなの!?」
「でも…はるちゃんまたアメリカ行っちゃうの、寂しくない?」
その問いには、つい言葉に詰まる。
だけど思うままを、話すことにした。
「…正直、寂しいです」
「そうだよねえ。私も寂しい。今度ははるちゃん一人だから…」
「ただ…俺は、高校出たらプロに行こうと思ってます。指名されればの話ですけど…されるつもりでいます。はるかさんがアメリカで頑張っている間に、俺も一軍で試合に出られるようにします。それではるかさんが帰ってきたら、結婚して一緒に暮らしたいと思っています」
「えええっ!?」
瑛がはっきりと語ったその隣で、驚きの声が上がった。
その主ははるか。
「…え?」
「あ、瑛くん、け、結婚って…?」
「違うの…?」
「うふふ。瑛君、とりあえず続けて?」
薫の穏やかな声に促され、もう一度口を開く。
「…なので、はるかさんがアメリカにいる間、お母さんや、おじいさんおばあさんに何か困ったことがあったら、言ってもらえればと。卒業後は場所がどこになるか分かりませんし、なかなか時間作れないかもしれませんが…アメリカからよりは、何かできることがあるかなと、思います」
「瑛くん…」
今度は静かに、はるかが驚きを声にした。
「…そっか。はるちゃんのこと、私たちのことまで、そんなに考えてくれてるんだね」
「はい」
「うん、はるちゃんが帰ってきたら一緒に暮らすっていうのは、いいよ。ただ、結婚のことは、また改めてよく考えなさい」
それはあくまで語りかけるような、やわらかい口調だった。
「私は野球のことはそこまで詳しくなくて申し訳ないんだけど、はるちゃんの話聞いてたら、瑛君だったらきっとプロに行けるんだと思ってるよ。でも、そこがどんな世界で、どんな生活をしていくのか、それは瑛君にもまだ分からないんじゃないかな」
「…それは、そうですね」
「それに、はるちゃんだってそうだよ。はるちゃんがピアニストとして、どれだけ成功するか、ピアノだけじゃ生活できないかもしれないし、逆に超ビッグになっちゃうかもしれない。私としては、ビッグになる方が可能性高いって思いたいけどね?」
「うーん、なるかなあ…」
「ふふ。とにかく、ふたりとも大きな目標があって、それをただの夢にしないだけの努力をしていることは分かってるよ。だけど、これからどんな世界が待っているのかは、やっぱり飛び込んでみないと分からない」
並んで座るふたりの、ずいぶん大きくなったけれど、まだ幼さの残る顔を見つめる。
「結婚についてはふたりのやりたいことが、きちんと“お仕事”として形を成してから、考えた方がいいと思う。お互いだけが、お互いの世界にならないように」
その言葉はまるで、自分自身に諭しているかのようだった。
瑛がそう感じたのは間違いではなかったのか、ふたりを見ていた視線が、マグカップへと落とされる。
「私は…はるちゃんのお父さんのピアノを聴くことだけが、私の世界だった。その音が聴けなくなった時、すごく怖かった。心が空っぽになって、その穴はもう一生埋まらない気がした」
それは、身に覚えのある感覚だった。
「私はその穴を埋めるために、はるちゃんを…守るべき娘を、苦しめてしまった。それは母親としていちばんやってはいけないことだった」
「お母さん、」
「はるちゃん。これは、本当のことだよ。もちろん、ふたりが私みたいになっちゃうって思ってるわけじゃないよ。でも…そこまでじゃなくても、ちゃんと自分の世界を持っているってことは、やっぱりすごく大事だよ」
瑛なりに、それは分かっているつもりで。
自分がプロの球団に指名されなかったら、大学で再挑戦しても成功しなかったら、その時は別の職業に就いてでも、野球を続けながらはるかと生きていく道を見つけることも考えている。
はるかがピアニストとして成功することが難しかったら、はるかならば自分以上に選択肢があるだろうし、自分ひとりの稼ぎで養うことになったって構わないと思っている。
もちろん思い描く通りにすべてが成功したとしても、世間の目やいろいろなものからはるかを守れるように手を尽くすつもりだ。
だけど、その実態を何一つ知らない今の自分がそれを語っても、ただの無責任な夢物語になってしまうだけなのだと、たった今思い知った。
「…わかりました。勝手なことばかり言ってすみません」
「ううん。私こそごめんね、厳しいこと言って。ほんとは私よりよっぽど、はるちゃんのこと支えてくれているんだろうけど…」
それは違う、そう言おうとした瑛を、はるかが視線で留めた。
「なんだか、わたしもびっくりな話になっちゃったけど…今日はね、もう一つ話したいことがあったの」
今度ははるかが、口を開く。
「お母さん、わたしと一緒に甲子園に行かない?」
鷺嶋高校野球部の、12年振りの甲子園出場が決まった2日後。
ふたりは夕方の駅のホームに立っていた。
通勤・通学の時間に差し掛かり、いつもはがらんとしているこの沿線にもやや混雑が見られる。
それでも“人混みに揉まれる”といったほどではなく、列車を待つ人々の間にはゆったりとした間隔が空いている。
「ち、近いよ」
──はるかと瑛の間を除いて。
「いいだろ別に」
「…暑くないの?」
「暑くねえし、暑くてもいいだろ」
「めちゃくちゃだ…」
俯いて身じろぎするはるかがなんだか面白くなくて、瑛は腰を屈めてその顔を覗き込んだ。
「わっ!ひ、人前ですよ…!」
「別にキスするわけじゃねえんだぞ」
「…それ、野球部で流行ってるの…?」
一体自分のほかに誰がそんなことを、と詰め寄りかけたがそれでは話が逸れてしまう。
顔を赤くしたはるかを、無言で見つめ続けた。
やがて観念したようで、はるかがそっと口を開いた。
「…瑛くんは、わたしの幼馴染であり、か、彼氏さんであり…」
「うん」
「それと同時に、推しでもあるわけです…!」
「出た」
「そんな人の、あんな試合を見たら、その…どうしても緊張しちゃって…!」
そう言って、半歩ほど距離を広げられてしまった。
試合の様子はサックスを吹きながらでもしっかりと目に映していたものの、やはり集中してじっくり見たい、ということで帰ってすぐに録画していたテレビ放送を観たらしい。
リアルタイムで味わった感覚と、カメラがはっきりと捉えた映像が重なり、さらなる感動に満たされるとともに選手としての瑛の魅力に心臓を撃ち抜かれたという。
「高原君を何度も救ったもはや職人技の守備…みんなの期待に必ず応える勝負強さ…そしてあの“幻のホームラン”を越えた、サヨナラ弾…!」
「…あったな、そんなのも」
「風すら黙る打球、いや、あれはたとえ風が吹いていても乗り越えていたでしょう…」
「褒めてくれるのは嬉しいんだけどさ、」
広げられた距離を、もう一度詰める。
「そんなんで緊張されてたんじゃ、こっから先俺どんどん寂しくなっちゃうんだけど」
「は…」
息を呑んだはるかに、囁く。
「もっと良いプレー見せるつもりなんだけど?はるかと──」
──はるかの母さんに。
ふたりのもとに、大きな音を立てて列車が滑り込んできた。
ふたりが降りた駅から程近い場所に、そのマンションはあった。
「ついたよー」
インターホンに向かってはるかが告げると、扉が開かれる。
「いらっしゃい」
そこにいた小柄な女性の姿に、遠い記憶がよみがえった。
「大きくなったね」
そう言って瑛を見上げる目線は、はるかとほぼ同じだ。
「…お久しぶりです」
「うん。どうぞ、入って入って」
予想していたよりもその雰囲気は穏やかで、はるかと二人でお茶を用意しているキッチンからは賑やかな声が聞こえてくる。
もう通院はしていないということは聞いていたが、日常生活を送る上で問題になるようなことはほとんどないのかもしれない。
「ええ、はるちゃん今からコーヒー飲むの?」
「大丈夫だよ、何杯飲んでも眠れるよ!」
「瑛くんは?プロテインとかがいいかなあ」
「あの、すいません」
ツッコミ不在の危険なキッチンに、堪らず顔を出す。
はるかが開けた冷蔵庫に、見慣れたお茶のペットボトルがあった。
「俺、それで…」
「これでいいの?まあ暑いもんね」
「注いでくるから座っててね」
一安心して、リビングに戻る。
すぐそばの棚には写真が並べられていた。
真新しい高校の制服を着たはるか。
赤ちゃん──おそらく、はるか──を抱きかかえる、優しそうな老夫婦。
そして、ピアノの傍らに並んで座る、ふたりの男女。
「お待たせー、一応氷入れてみたよ」
「あ、ありがとうございます」
丸っこいグラスに、氷とともに注がれたお茶が差し出される。
二人はそれぞれマグカップを手にしていた。
「ええと、はるちゃんからいろいろ聞いてるよ。はるちゃんと…」
「すいません、俺から言わせてください。はるかさんと、年明けからお付き合いさせていただいてます」
いきなり切り出された話題を、どうにか瑛の口から告げた。
嬉しそうに笑う目元ははるかよりもすっきりとしているけれど、鼻や口元はそっくりだ。
「なんだかドラマみたいだねえ、うふふ。いつかこうなる気はしてたけど」
「そうなの!?」
「でも…はるちゃんまたアメリカ行っちゃうの、寂しくない?」
その問いには、つい言葉に詰まる。
だけど思うままを、話すことにした。
「…正直、寂しいです」
「そうだよねえ。私も寂しい。今度ははるちゃん一人だから…」
「ただ…俺は、高校出たらプロに行こうと思ってます。指名されればの話ですけど…されるつもりでいます。はるかさんがアメリカで頑張っている間に、俺も一軍で試合に出られるようにします。それではるかさんが帰ってきたら、結婚して一緒に暮らしたいと思っています」
「えええっ!?」
瑛がはっきりと語ったその隣で、驚きの声が上がった。
その主ははるか。
「…え?」
「あ、瑛くん、け、結婚って…?」
「違うの…?」
「うふふ。瑛君、とりあえず続けて?」
薫の穏やかな声に促され、もう一度口を開く。
「…なので、はるかさんがアメリカにいる間、お母さんや、おじいさんおばあさんに何か困ったことがあったら、言ってもらえればと。卒業後は場所がどこになるか分かりませんし、なかなか時間作れないかもしれませんが…アメリカからよりは、何かできることがあるかなと、思います」
「瑛くん…」
今度は静かに、はるかが驚きを声にした。
「…そっか。はるちゃんのこと、私たちのことまで、そんなに考えてくれてるんだね」
「はい」
「うん、はるちゃんが帰ってきたら一緒に暮らすっていうのは、いいよ。ただ、結婚のことは、また改めてよく考えなさい」
それはあくまで語りかけるような、やわらかい口調だった。
「私は野球のことはそこまで詳しくなくて申し訳ないんだけど、はるちゃんの話聞いてたら、瑛君だったらきっとプロに行けるんだと思ってるよ。でも、そこがどんな世界で、どんな生活をしていくのか、それは瑛君にもまだ分からないんじゃないかな」
「…それは、そうですね」
「それに、はるちゃんだってそうだよ。はるちゃんがピアニストとして、どれだけ成功するか、ピアノだけじゃ生活できないかもしれないし、逆に超ビッグになっちゃうかもしれない。私としては、ビッグになる方が可能性高いって思いたいけどね?」
「うーん、なるかなあ…」
「ふふ。とにかく、ふたりとも大きな目標があって、それをただの夢にしないだけの努力をしていることは分かってるよ。だけど、これからどんな世界が待っているのかは、やっぱり飛び込んでみないと分からない」
並んで座るふたりの、ずいぶん大きくなったけれど、まだ幼さの残る顔を見つめる。
「結婚についてはふたりのやりたいことが、きちんと“お仕事”として形を成してから、考えた方がいいと思う。お互いだけが、お互いの世界にならないように」
その言葉はまるで、自分自身に諭しているかのようだった。
瑛がそう感じたのは間違いではなかったのか、ふたりを見ていた視線が、マグカップへと落とされる。
「私は…はるちゃんのお父さんのピアノを聴くことだけが、私の世界だった。その音が聴けなくなった時、すごく怖かった。心が空っぽになって、その穴はもう一生埋まらない気がした」
それは、身に覚えのある感覚だった。
「私はその穴を埋めるために、はるちゃんを…守るべき娘を、苦しめてしまった。それは母親としていちばんやってはいけないことだった」
「お母さん、」
「はるちゃん。これは、本当のことだよ。もちろん、ふたりが私みたいになっちゃうって思ってるわけじゃないよ。でも…そこまでじゃなくても、ちゃんと自分の世界を持っているってことは、やっぱりすごく大事だよ」
瑛なりに、それは分かっているつもりで。
自分がプロの球団に指名されなかったら、大学で再挑戦しても成功しなかったら、その時は別の職業に就いてでも、野球を続けながらはるかと生きていく道を見つけることも考えている。
はるかがピアニストとして成功することが難しかったら、はるかならば自分以上に選択肢があるだろうし、自分ひとりの稼ぎで養うことになったって構わないと思っている。
もちろん思い描く通りにすべてが成功したとしても、世間の目やいろいろなものからはるかを守れるように手を尽くすつもりだ。
だけど、その実態を何一つ知らない今の自分がそれを語っても、ただの無責任な夢物語になってしまうだけなのだと、たった今思い知った。
「…わかりました。勝手なことばかり言ってすみません」
「ううん。私こそごめんね、厳しいこと言って。ほんとは私よりよっぽど、はるちゃんのこと支えてくれているんだろうけど…」
それは違う、そう言おうとした瑛を、はるかが視線で留めた。
「なんだか、わたしもびっくりな話になっちゃったけど…今日はね、もう一つ話したいことがあったの」
今度ははるかが、口を開く。
「お母さん、わたしと一緒に甲子園に行かない?」