[Theme 02]2年生編
42
「おかえりなさい」
扉を開けると、冬真は机に座って一枚の紙を眺めていた。
覗き込むと、今日の試合のスコアをコピーしたもののようだ。
よく見ると、7回の「PH 園田」に蛍光ペンで線が引かれている。
──園田君って、かわいいよね
別れ際、なぜか冬真の話になり、はるかが残した非常に複雑な一言を思い出す。
「どうでしたか、月城さんとの逢瀬は」
「お前…」
心の中を覗かれたのかと、一瞬どきりとした。
そして同時に、はるかと会うように言ってきたのは冬真だったということも思い出した。
──フェンスにぶつけられませんでした。全力でした
越えるビジョンなんて、まったくなかったです
試合後の車中で無表情で並べられたセリフが、なぜだか先ほどのはるかの褒め倒しと重なって。
「お前、俺のこと褒めたかったのか…?」
「…まあ、そういうことでしょうか」
「なんで…」
「瑛先輩はすごい人なんだって分かってもらわないと、壊れるまでバット振りそうでしたから」
スコアから顔を上げて、冬真は言った。
同室である彼は、毎日の瑛の動向を一番よく知っている。
──大会中なのに、根を詰めすぎじゃないですか
そんな彼の言葉を、信じてもよかったのに、と後悔した。
──寝る子は育つ!
きっと瑛の苦悩をプレーから感じとっていたであろう、はるかの言葉も。
「悪い。気を付ける」
「いえ」
短く応えて、冬真はまたスコアに視線を落とした。
その目は、ほんの少しだけ弧を描いていた。
「これ、見づらかったらごめんね」
準決勝翌日、朝練を終え教室に顔を出した拓真と千景に、はるかはノートのコピーを差し出した。
「ありがとう、はるかちゃん。何かお礼するよ」
「そうだな」
「いいよ!ほんの少しでも鷺嶋戦士にお力添えできて光栄です!」
「いやいやそういうわけにも…ん、ここちょっと字が違うかも?」
「えっ、うそ!ごめんね…!」
千景が指さしたところを急いで確認すると、確かに漢字を書き間違えていた。
「あの…」
はるかが急に声を潜め、二人だけに聞こえるように囁く。
「こっそり速報見てたから、時々ミスがあるかも…ごめんなさい…!」
二人は目を見合わせて、笑った。
“お礼”は飲み物を一回ずつ奢る、ということになり、まずは千景に連れられて自販機へと向かった。
遠慮がちに缶コーヒーのボタンに手を伸ばす。
ガコンと音を立てて取り出し口に落ちたそれは、千景が取ってはるかに差し出してくれた。
「ありがとう。いただきます」
「いえいえ、お礼だから」
ついでに僕も、と千景は再び自販機へと小銭を投入する。
その背中に、はるかは呼びかけた。
「千景君」
「ん、なあに?」
はるかと同じコーヒーを手に取った千景が、振り返る。
「前、日直の日…瑛くんの、話になったよね」
──日坂のことが大切だからって、すべてを差し出すことなんてないよ
未だはるかからの言葉を返せていない、その一言を思い出す。
「…うん、そうだね」
──もっと自分を大事にして欲しい
その言葉の意味も、はるかの中に確証はないけれど。
「瑛くんのことは、大切だよ。とても」
はるかがそう言うと、千景の瞳が少しだけ揺れた気がした。
「だけど、 “すべてを差し出す”なんてことはしないし、できない」
ゆっくりと瞬きをして、続ける。
「それでもわたしができるだけのこと、あげられるだけのものは、ぜんぶあげたいなって思うよ。わたしが、後悔したくないから」
足元へと視線を映した千景の瞳を、尚も見つめて。
「結局おんなじに聞こえるかもしれないけど…」
「…ううん。伝わるよ、はるかちゃん」
千景は顔を上げて、微笑んだ。
手の中のコーヒーが、小さく音を立てる。
「僕は、してあげられないことばかり考えていたよ」
真っ直ぐなはるかの瞳を、見つめ返した。
「はるかちゃんは、してあげられることを、一生懸命考えているんだね」
「そんな、大層なものじゃないけどね」
眉を下げて笑うはるかの傍らで、自販機が低い音を立てる。
暑さに悲鳴を上げているかのようなその音さえ、彼女がいると特別な音楽のように感じられた。
「…はるかちゃんは、何か僕にして欲しいことはある?」
衝動的にそう尋ねると、はるかの瞳がきらりと輝いた。
「全打席ヒットと、一試合で6盗塁!」
はじけるような笑顔でめちゃくちゃなことを言うはるかが、心底いとしかった。
「あはは。日本記録じゃん」
「あ、4番に長打が出たら絶対捕って!」
「え?4番?なんかあるの?」
「少々ケンカを売られまして…」
瑛くんには内緒で、との前置きとともに語られた話は、教室に戻ってすぐに拓真に共有しておいた。
その日、ベンチで瑛が手にしていたペットボトルの中身はただの水だった。
はるかのことだから、“試合当日に摂取する成分に干渉したくない”といったような理屈だろう。
いつもと違うラベルの上に書かれた文字を指でなぞる。
“ツボにきたらドーンですよ”
思い切り吹き出した。
「うわっ、瑛がめちゃくちゃ青春してやがる!」
こういう時こそザ・格言といった言葉をチョイスするものではないのか、と頬が緩むのを抑えていると、背後で正也が叫んだ。
振り返って、苦虫を嚙み潰したようなその顔を睨み付ける。
「お?それすげー、めっちゃ似てんな」
「あ?」
「お前ら何見て…おお!瑛だ!」
「ホントだ、はるかちゃん絵上手だもんね」
正也の声を聞きつけた部員たちが覗き込んでいるのは、某・世界の盗塁王の名言(?)に添えられた、猫のイラスト。
いつもメッセージとセットになっていて、かわいいけど些か目つきが悪いな、と思っていたそれを、その場にいた誰もが“瑛”と呼んだ。
「ん?ああ…お前だな」
拓真までもが真顔でそう呟く。
──このコメントと似顔絵
冬真もそう言っていたことを思い出す。
「え…俺ってこんな不機嫌な顔してます?」
「いや、だいぶマイルドにデフォルメされてるだろ!」
部員たちが呆れたように笑う。
どこか張り詰めていたベンチの空気が、少し和らいだ。
それと時を同じくして、頭上から管楽器の音がまばらに聞こえてきた。
吹奏楽部員が音出しをはじめたのだろう。
「噂をすれば、ですね」
冬真がベンチの天井を見上げる。
「負けたら一生恨まれるんじゃないですか?」
「はは。間違いねえな」
「やっぱりこんなの、みんなにも選手の方々にも失礼だよね!」
天井の向こう、冬真の視線の先。
スタンドでサックスを抱えたはるかが、拳を握っていた。
「もう逃げ道はないですよ、月城先輩」
「はじめて日坂少年をいい奴だと思ったわ」
後ろから渚が、杏里が太陽に負けない笑顔で見下ろしてくる。
隣の部員からも、そっと肩を叩かれた。
「こんな…こんな大事な試合を、じっくり見ていられないなんて…っ!」
瑛に黙ってバッティングセンターでアルバイトをはじめた罰なのか。
はるかは頭を抱えた。
「まだここから先があるんでしょ?」
杏里の視線の先には、ベンチからこちらを見上げる選手たち。
はるかも彼らのもとへ、視線を移した。
「…うん。でも、それとこれとは別!」
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【世界の盗塁王】「名言」と合わせて検索してみてください。
「おかえりなさい」
扉を開けると、冬真は机に座って一枚の紙を眺めていた。
覗き込むと、今日の試合のスコアをコピーしたもののようだ。
よく見ると、7回の「
──園田君って、かわいいよね
別れ際、なぜか冬真の話になり、はるかが残した非常に複雑な一言を思い出す。
「どうでしたか、月城さんとの逢瀬は」
「お前…」
心の中を覗かれたのかと、一瞬どきりとした。
そして同時に、はるかと会うように言ってきたのは冬真だったということも思い出した。
──フェンスにぶつけられませんでした。全力でした
越えるビジョンなんて、まったくなかったです
試合後の車中で無表情で並べられたセリフが、なぜだか先ほどのはるかの褒め倒しと重なって。
「お前、俺のこと褒めたかったのか…?」
「…まあ、そういうことでしょうか」
「なんで…」
「瑛先輩はすごい人なんだって分かってもらわないと、壊れるまでバット振りそうでしたから」
スコアから顔を上げて、冬真は言った。
同室である彼は、毎日の瑛の動向を一番よく知っている。
──大会中なのに、根を詰めすぎじゃないですか
そんな彼の言葉を、信じてもよかったのに、と後悔した。
──寝る子は育つ!
きっと瑛の苦悩をプレーから感じとっていたであろう、はるかの言葉も。
「悪い。気を付ける」
「いえ」
短く応えて、冬真はまたスコアに視線を落とした。
その目は、ほんの少しだけ弧を描いていた。
「これ、見づらかったらごめんね」
準決勝翌日、朝練を終え教室に顔を出した拓真と千景に、はるかはノートのコピーを差し出した。
「ありがとう、はるかちゃん。何かお礼するよ」
「そうだな」
「いいよ!ほんの少しでも鷺嶋戦士にお力添えできて光栄です!」
「いやいやそういうわけにも…ん、ここちょっと字が違うかも?」
「えっ、うそ!ごめんね…!」
千景が指さしたところを急いで確認すると、確かに漢字を書き間違えていた。
「あの…」
はるかが急に声を潜め、二人だけに聞こえるように囁く。
「こっそり速報見てたから、時々ミスがあるかも…ごめんなさい…!」
二人は目を見合わせて、笑った。
“お礼”は飲み物を一回ずつ奢る、ということになり、まずは千景に連れられて自販機へと向かった。
遠慮がちに缶コーヒーのボタンに手を伸ばす。
ガコンと音を立てて取り出し口に落ちたそれは、千景が取ってはるかに差し出してくれた。
「ありがとう。いただきます」
「いえいえ、お礼だから」
ついでに僕も、と千景は再び自販機へと小銭を投入する。
その背中に、はるかは呼びかけた。
「千景君」
「ん、なあに?」
はるかと同じコーヒーを手に取った千景が、振り返る。
「前、日直の日…瑛くんの、話になったよね」
──日坂のことが大切だからって、すべてを差し出すことなんてないよ
未だはるかからの言葉を返せていない、その一言を思い出す。
「…うん、そうだね」
──もっと自分を大事にして欲しい
その言葉の意味も、はるかの中に確証はないけれど。
「瑛くんのことは、大切だよ。とても」
はるかがそう言うと、千景の瞳が少しだけ揺れた気がした。
「だけど、 “すべてを差し出す”なんてことはしないし、できない」
ゆっくりと瞬きをして、続ける。
「それでもわたしができるだけのこと、あげられるだけのものは、ぜんぶあげたいなって思うよ。わたしが、後悔したくないから」
足元へと視線を映した千景の瞳を、尚も見つめて。
「結局おんなじに聞こえるかもしれないけど…」
「…ううん。伝わるよ、はるかちゃん」
千景は顔を上げて、微笑んだ。
手の中のコーヒーが、小さく音を立てる。
「僕は、してあげられないことばかり考えていたよ」
真っ直ぐなはるかの瞳を、見つめ返した。
「はるかちゃんは、してあげられることを、一生懸命考えているんだね」
「そんな、大層なものじゃないけどね」
眉を下げて笑うはるかの傍らで、自販機が低い音を立てる。
暑さに悲鳴を上げているかのようなその音さえ、彼女がいると特別な音楽のように感じられた。
「…はるかちゃんは、何か僕にして欲しいことはある?」
衝動的にそう尋ねると、はるかの瞳がきらりと輝いた。
「全打席ヒットと、一試合で6盗塁!」
はじけるような笑顔でめちゃくちゃなことを言うはるかが、心底いとしかった。
「あはは。日本記録じゃん」
「あ、4番に長打が出たら絶対捕って!」
「え?4番?なんかあるの?」
「少々ケンカを売られまして…」
瑛くんには内緒で、との前置きとともに語られた話は、教室に戻ってすぐに拓真に共有しておいた。
その日、ベンチで瑛が手にしていたペットボトルの中身はただの水だった。
はるかのことだから、“試合当日に摂取する成分に干渉したくない”といったような理屈だろう。
いつもと違うラベルの上に書かれた文字を指でなぞる。
“ツボにきたらドーンですよ”
思い切り吹き出した。
「うわっ、瑛がめちゃくちゃ青春してやがる!」
こういう時こそザ・格言といった言葉をチョイスするものではないのか、と頬が緩むのを抑えていると、背後で正也が叫んだ。
振り返って、苦虫を嚙み潰したようなその顔を睨み付ける。
「お?それすげー、めっちゃ似てんな」
「あ?」
「お前ら何見て…おお!瑛だ!」
「ホントだ、はるかちゃん絵上手だもんね」
正也の声を聞きつけた部員たちが覗き込んでいるのは、某・世界の盗塁王の名言(?)に添えられた、猫のイラスト。
いつもメッセージとセットになっていて、かわいいけど些か目つきが悪いな、と思っていたそれを、その場にいた誰もが“瑛”と呼んだ。
「ん?ああ…お前だな」
拓真までもが真顔でそう呟く。
──このコメントと似顔絵
冬真もそう言っていたことを思い出す。
「え…俺ってこんな不機嫌な顔してます?」
「いや、だいぶマイルドにデフォルメされてるだろ!」
部員たちが呆れたように笑う。
どこか張り詰めていたベンチの空気が、少し和らいだ。
それと時を同じくして、頭上から管楽器の音がまばらに聞こえてきた。
吹奏楽部員が音出しをはじめたのだろう。
「噂をすれば、ですね」
冬真がベンチの天井を見上げる。
「負けたら一生恨まれるんじゃないですか?」
「はは。間違いねえな」
「やっぱりこんなの、みんなにも選手の方々にも失礼だよね!」
天井の向こう、冬真の視線の先。
スタンドでサックスを抱えたはるかが、拳を握っていた。
「もう逃げ道はないですよ、月城先輩」
「はじめて日坂少年をいい奴だと思ったわ」
後ろから渚が、杏里が太陽に負けない笑顔で見下ろしてくる。
隣の部員からも、そっと肩を叩かれた。
「こんな…こんな大事な試合を、じっくり見ていられないなんて…っ!」
瑛に黙ってバッティングセンターでアルバイトをはじめた罰なのか。
はるかは頭を抱えた。
「まだここから先があるんでしょ?」
杏里の視線の先には、ベンチからこちらを見上げる選手たち。
はるかも彼らのもとへ、視線を移した。
「…うん。でも、それとこれとは別!」
________________
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