[Theme 02]2年生編
41
大きなネットに囲まれた空間に併設された小さな建物。
その扉からはるかが顔を出した瞬間、瑛は思わず瞬きをした。
「…お前、マジでここでバイトしてんだな」
アルバイトをするつもりだという話は聞いていたが、まさかその現場がバッティングセンターになるとは思いもよらなかった。
客として通っているということも聞いたが、“ひとりではいかないように”と釘を刺したはずだった。
「お客さんじゃないし、ひとりじゃないし!店長いるよ!」
「いや、むしろそっちの方がマズい気が…」
「大丈夫だよ!お客さんにも店長にもいじめられてないよ。店長すごくいい人なんだよ!」
そういうことじゃない、というセリフを挟む間もなく、店長なる人物についてを語られる。
カナリアのマスターよりも高齢で、足腰を悪くしたためにデスクワーク以外の業務がほとんどできなくなり困っていたのだという。
ワンオペだった店長の業務を、一部とはいえ肩代わりしているような状態のため、時給もかなり高めらしい。
ついついなるほど、と頷いてしまった頭を振った。
「その…迷惑な客とかいねえの?絡んでくるやつとか」
鷺嶋高校からも徒歩圏内といえる立地だが、校内の設備で間に合っているためわざわざ足を運ぶ機会はない。
しかしバッティングセンターというものには、素行の悪い客という存在が多かれ少なかれつきまとうものである──という偏見を瑛は持っている。
これでもかと眉間にしわを寄せる瑛をよそに、はるかは朗らかに笑った。
「ちょっと元気いっぱいすぎるかな?って人は時々いるけど、ほとんど接することがないからね。コインも自動だし、お客さんがいる時はあんまりうろうろしないし」
「…」
「もちろん他のお客さんに迷惑かけるようなら出ていくけど、さすがにそこは店長が行ってくれてるよ」
瑛の中で、顔も知らない店長の株が少しずつ上がっていく。
ただ、やはりそういう層がいるという事実が引っかかりぐるぐると思考を巡らせていると、はるかがそういえば、と口にしながら少し険しい表情を浮かべた。
何か実害があったのか、と無意識のうちに身構える。
「高峰の4番に遭遇したよ」
予想していたものとは違う、むしろそれ以上の衝撃が走る。
ざわざわと波立っていた胸に、どくりと重たい鼓動が打ち付ける。
「大会がはじまる前の土曜日だったかな。一応お昼休憩中だったんだけど、ホームランの景品を取りに来たの」
「そんな時に何やってんだ…」
「学校で模試をやってて練習ができないからって。大学受験をするつもりはないみたい」
その言葉が意味するもの。
それを推察するのはあまりに簡単で、瑛はポケットの中で拳を握り締めた。
「…決勝、やっぱり高峰だね」
はるかが呟くように言うのを聞いてふと、今日の試合の結果を伝えていなかったことに気が付いた。
平日の開催だったため一般生徒は観戦することができず、はるかも無念だとこぼしていた。
瑛が伝えずとも自ら結果を確認するだろうし、教師の目を盗んで速報を見ていそうな気すらしてしまうが、それでも瑛の口から伝えるのは一つのこだわりのようなもののはずだった。
余計に、拳に力が入る。
「…ねえ、」
それは、あの“約束”の日のような声だった。
「瑛くん、わたしね」
あの頃より少し落ち着いた声が、同じ言葉をなぞる。
「野球が好き。試合中の、グラウンドの空気が好き」
続いたのは、あの日とは違う言葉。
「瑛くんが捕球するとき、打球がまるで操られてるみたいにグラブに吸い込まれていく瞬間が好き」
「…」
「送球の、色気すら感じる鋭い軌道が好き」
「なんだそれ」
「ふふ。それから、打席に入る背中が好き」
ふいに並べられた、どうにも身に余るように感じてならない言葉にむずがゆくなる。
いつもすぐ赤くなるのが嘘のように、こういうときのはるかは凛としている。
「…触ってもいい?」
その問いかけについ、いかがわしい意味を想像してしまいそうになりながら、瑛は頷いた。
するとはるかの手が瑛の背中、試合中であればちょうど背番号のあるあたりに、そっと触れた。
「やっぱり、背中広いね」
「…そりゃどうも…?」
「この背中にね、いろんなものがのっかってるんだなあって、思うの」
無意識に、全身に力が入った。
それは触れているはるかにも伝わってしまっているだろうと、そう思うほどに力の抜き方が分からなくなった。
それでもはるかの声は、変わらず穏やかだった。
「瑛くんが今まで誰よりも頑張ってきたこととか。今の瑛くんの気持ちとか。それから…」
続く言葉がこわい気がして、だけど聞きたくて、顔だけを振り返ってはるかを伺う。
「瑛くんと一緒に戦ってるチームメイトの気持ち。瑛くんを応援するみんなの気持ち。もちろん、わたしの気持ちも」
途切れ途切れに夜道を照らす街灯なんかより、ずっと眩しい、
「バッターボックスの中に立つのはたった一人。だけど、ひとりじゃないんだって思うの」
瑛の好きな、星の瞳が輝いていた。
「そしてそのぜんぶが爆発する瞬間。あの音は、世界でもっとも美しい音楽…の、ひとつだと思う」
最後だけ少しあやふやにして、はにかむように笑った。
「…何だ、それ」
「だって、悔しいじゃん!世界でもっとも美しい音楽なら、この手で奏でたい。でも今は、あの音には勝てないかな」
はるかの手の感覚が、遠ざかっていった。
それを追いかけるように、今度は身体ごと振り返って手を伸ばす。
はるかは驚いて、だけどしっかりを手に手を重ねてくれた。
「ふふ、手も好きだなあ。どれだけ努力してきたんだろうって、気が遠くなる」
「悪かったな、」
「すごくかっこいいよ」
またしても、あまりに真っ直ぐに伝えられる言葉。
思えばあの頃も、試合の度にこんなふうに子どもらしからぬ語彙を交えながら褒め倒されていた記憶がよみがえった。
ふ、と小さな息とともに、自然と身体から力が抜けていった。
──俺、やっぱりダメだな。
自分の知らないところで傷を負ってしまったはるかを、これからはすべての苦しみから守ってやりたい。
その傷が少しでも癒えるように、この季節に新しい景色を飾ってやりたい。
そんなふうに思うのに、守られているのは、いつだって。
「楽しみだなあ、決勝!瑛くんたちのプレーも、高峰の4番の笑顔が歪む瞬間も、絶対見逃さないぞ!」
「…あのさ、はるか」
些か気になるセリフとともに意気込むはるかに、瑛はもう一度手を伸ばした。
「すげーワガママ言ってもいい?」
気恥ずかしさにさまよいかける視線を、どうにか真っ直ぐにはるかに向けて問いかけると。
はるかははじめて見るほど嫌そうな表情をしたので、瑛は腹を抱えて笑ってしまった。
大きなネットに囲まれた空間に併設された小さな建物。
その扉からはるかが顔を出した瞬間、瑛は思わず瞬きをした。
「…お前、マジでここでバイトしてんだな」
アルバイトをするつもりだという話は聞いていたが、まさかその現場がバッティングセンターになるとは思いもよらなかった。
客として通っているということも聞いたが、“ひとりではいかないように”と釘を刺したはずだった。
「お客さんじゃないし、ひとりじゃないし!店長いるよ!」
「いや、むしろそっちの方がマズい気が…」
「大丈夫だよ!お客さんにも店長にもいじめられてないよ。店長すごくいい人なんだよ!」
そういうことじゃない、というセリフを挟む間もなく、店長なる人物についてを語られる。
カナリアのマスターよりも高齢で、足腰を悪くしたためにデスクワーク以外の業務がほとんどできなくなり困っていたのだという。
ワンオペだった店長の業務を、一部とはいえ肩代わりしているような状態のため、時給もかなり高めらしい。
ついついなるほど、と頷いてしまった頭を振った。
「その…迷惑な客とかいねえの?絡んでくるやつとか」
鷺嶋高校からも徒歩圏内といえる立地だが、校内の設備で間に合っているためわざわざ足を運ぶ機会はない。
しかしバッティングセンターというものには、素行の悪い客という存在が多かれ少なかれつきまとうものである──という偏見を瑛は持っている。
これでもかと眉間にしわを寄せる瑛をよそに、はるかは朗らかに笑った。
「ちょっと元気いっぱいすぎるかな?って人は時々いるけど、ほとんど接することがないからね。コインも自動だし、お客さんがいる時はあんまりうろうろしないし」
「…」
「もちろん他のお客さんに迷惑かけるようなら出ていくけど、さすがにそこは店長が行ってくれてるよ」
瑛の中で、顔も知らない店長の株が少しずつ上がっていく。
ただ、やはりそういう層がいるという事実が引っかかりぐるぐると思考を巡らせていると、はるかがそういえば、と口にしながら少し険しい表情を浮かべた。
何か実害があったのか、と無意識のうちに身構える。
「高峰の4番に遭遇したよ」
予想していたものとは違う、むしろそれ以上の衝撃が走る。
ざわざわと波立っていた胸に、どくりと重たい鼓動が打ち付ける。
「大会がはじまる前の土曜日だったかな。一応お昼休憩中だったんだけど、ホームランの景品を取りに来たの」
「そんな時に何やってんだ…」
「学校で模試をやってて練習ができないからって。大学受験をするつもりはないみたい」
その言葉が意味するもの。
それを推察するのはあまりに簡単で、瑛はポケットの中で拳を握り締めた。
「…決勝、やっぱり高峰だね」
はるかが呟くように言うのを聞いてふと、今日の試合の結果を伝えていなかったことに気が付いた。
平日の開催だったため一般生徒は観戦することができず、はるかも無念だとこぼしていた。
瑛が伝えずとも自ら結果を確認するだろうし、教師の目を盗んで速報を見ていそうな気すらしてしまうが、それでも瑛の口から伝えるのは一つのこだわりのようなもののはずだった。
余計に、拳に力が入る。
「…ねえ、」
それは、あの“約束”の日のような声だった。
「瑛くん、わたしね」
あの頃より少し落ち着いた声が、同じ言葉をなぞる。
「野球が好き。試合中の、グラウンドの空気が好き」
続いたのは、あの日とは違う言葉。
「瑛くんが捕球するとき、打球がまるで操られてるみたいにグラブに吸い込まれていく瞬間が好き」
「…」
「送球の、色気すら感じる鋭い軌道が好き」
「なんだそれ」
「ふふ。それから、打席に入る背中が好き」
ふいに並べられた、どうにも身に余るように感じてならない言葉にむずがゆくなる。
いつもすぐ赤くなるのが嘘のように、こういうときのはるかは凛としている。
「…触ってもいい?」
その問いかけについ、いかがわしい意味を想像してしまいそうになりながら、瑛は頷いた。
するとはるかの手が瑛の背中、試合中であればちょうど背番号のあるあたりに、そっと触れた。
「やっぱり、背中広いね」
「…そりゃどうも…?」
「この背中にね、いろんなものがのっかってるんだなあって、思うの」
無意識に、全身に力が入った。
それは触れているはるかにも伝わってしまっているだろうと、そう思うほどに力の抜き方が分からなくなった。
それでもはるかの声は、変わらず穏やかだった。
「瑛くんが今まで誰よりも頑張ってきたこととか。今の瑛くんの気持ちとか。それから…」
続く言葉がこわい気がして、だけど聞きたくて、顔だけを振り返ってはるかを伺う。
「瑛くんと一緒に戦ってるチームメイトの気持ち。瑛くんを応援するみんなの気持ち。もちろん、わたしの気持ちも」
途切れ途切れに夜道を照らす街灯なんかより、ずっと眩しい、
「バッターボックスの中に立つのはたった一人。だけど、ひとりじゃないんだって思うの」
瑛の好きな、星の瞳が輝いていた。
「そしてそのぜんぶが爆発する瞬間。あの音は、世界でもっとも美しい音楽…の、ひとつだと思う」
最後だけ少しあやふやにして、はにかむように笑った。
「…何だ、それ」
「だって、悔しいじゃん!世界でもっとも美しい音楽なら、この手で奏でたい。でも今は、あの音には勝てないかな」
はるかの手の感覚が、遠ざかっていった。
それを追いかけるように、今度は身体ごと振り返って手を伸ばす。
はるかは驚いて、だけどしっかりを手に手を重ねてくれた。
「ふふ、手も好きだなあ。どれだけ努力してきたんだろうって、気が遠くなる」
「悪かったな、」
「すごくかっこいいよ」
またしても、あまりに真っ直ぐに伝えられる言葉。
思えばあの頃も、試合の度にこんなふうに子どもらしからぬ語彙を交えながら褒め倒されていた記憶がよみがえった。
ふ、と小さな息とともに、自然と身体から力が抜けていった。
──俺、やっぱりダメだな。
自分の知らないところで傷を負ってしまったはるかを、これからはすべての苦しみから守ってやりたい。
その傷が少しでも癒えるように、この季節に新しい景色を飾ってやりたい。
そんなふうに思うのに、守られているのは、いつだって。
「楽しみだなあ、決勝!瑛くんたちのプレーも、高峰の4番の笑顔が歪む瞬間も、絶対見逃さないぞ!」
「…あのさ、はるか」
些か気になるセリフとともに意気込むはるかに、瑛はもう一度手を伸ばした。
「すげーワガママ言ってもいい?」
気恥ずかしさにさまよいかける視線を、どうにか真っ直ぐにはるかに向けて問いかけると。
はるかははじめて見るほど嫌そうな表情をしたので、瑛は腹を抱えて笑ってしまった。