[Theme 02]2年生編
38
雨の降りしきる昼休み、軒下のベンチに腰を下ろし、瑛は厚い雲を見上げていた。
「試合の日じゃなくてよかったね」
隣で、はるかが缶コーヒーをあおる。
春、早朝のグラウンドで彼女を見つけた日を思い出す。
今日よりずっとひどい豪雨の中で、誰もいないグラウンドを見つめる彼女の横顔。
“バットを振りたい”という唐突な約束よりも、車で濡れずに帰れた方が彼女にとっては良かったのかもしれないと何度か思ったけれど。
何かが吹っ切れたような顔でバットを振る彼女の姿を思い出すと、自分の選択は間違っていなかったと思えた。
「夕方には上がりそうかな」
今も、彼女は穏やかに笑っている。
瑛はおもむろに距離を詰めて、はるかの肩にもたれかかった。
「はー…」
息を吐く。
全身から力が抜けていくようだ。
「さすがにお疲れですね?」
「有難いことだけどな」
かなりタイトに組まれた試合日程。
遊撃手というポジションゆえに運動量も多く、クリーンナップとして打席に立つ回数も多い瑛の身体には、当然疲労が溜まってきていた。
「去年は、疲れてきた頃には全部終わっちまってたんだ」
「…ベスト4おめでとう。ここからだね」
「ああ。けどその前に休憩」
ついに頭まで預けてしまうと、その下ではるかがふふ、と笑いながら身じろぎした。
爽やかな香りをすぐそばで感じる。
今は真夏。ふたりとも半袖なので、むき出しの腕と腕がぴったりくっついている。
その、吸い付くような感触。
「…なあ、寮の部屋行かねえ?」
「行きませんし、ダメですよ」
「勘が鋭くなったな…」
「だって瑛くんが…その、え、えっちなことばっかり言うから…!」
恥ずかしそうに声を潜めて言うはるかに、余計に腹の底が疼く。
「次はいつになるんだよ…」
「えっ、わ、わかんないよ…!ここ学校だから!もうやめようよこの話…!」
そうは言うものの、こんなにくっついていることについては咎めようとしないのは、彼女の優しさに他ならなくて。
「…ありがとな」
「大会中だけですよ」
「へー、大会最高じゃん。それなら来年も…」
そこまで言って、はっとした。
雨音と、少し冷たいベンチと、彼女の体温と。
せめて今この感覚を、忘れないように目を閉じた。
はるかの予想通り、午後の授業を受けている間に雨は上がり、雲の隙間から光が差していた。
学級日誌の上を走らせていたペンを止めて、それを眺める。
開いた窓からは雨上がり特有のにおいがした。
「こっち全部終わったよ」
「あ、ありがとう!日誌はやっておくから、練習頑張ってね」
「あれ、まだ書いてなかったの?」
気付けば千景がすぐそばで、はるかの手元を覗いていた。
一日の時間割と、コメントを書き込むシンプルな構成。
そのコメントの枠がなかなか広く、地味に時間をとられると誰もが悩まされていた。
「…そっか。昼休みはお楽しみだったようですしね?」
「えっ!?」
弾かれたように見上げると、千景の顔は相変わらずの笑顔だった。
「知ってる?あそこ、ちょうど真上が図書室の書庫なんだよ。僕のお気に入りスペース」
「わ、わあ…」
「大丈夫。たぶん僕しか知らないし、入れない」
そう言ってポケットから鍵を覗かせた。
一体どういう理由でそこにあるのかは検討もつかないけれど。
「まあ、お楽しみだったのは日坂か」
そう呟きながら、千景は椅子を引いてはるかの隣に腰を下ろした。
練習に行かないんだろうか、と怪訝な顔をするはるかに、微笑みかける。
「はるかちゃんは、やさしいね」
変わらず穏やかで、だけどどこか冷たい声音だった。
「ねえ、君たちってデートとかしたことあるの?」
突拍子もない質問は、一転していつも通りだった。
「…うーんと、うちの家にきてもらったり、瑛くんのお父さんと一緒に地元帰ったり、野球観にいったりはしたかな」
「それ全部デートではないでしょ。ふたりだけで出かけたりとかは?」
「ないよ。だってそんな時間ないもん」
「そうだよね」
尋ねてきておいて、不審な反応だ。
はるかがつい首を傾げると、千景は尚も笑った。
「なのに、やることはやってるんだ」
「な…っ」
「自分のしたいことだけは、さ」
その言葉が瑛を非難していることだけは分かって、はるかは戸惑いつつも口を開いた。
「わたしだって、デートに行く暇なんてないよ」
「うん」
「むしろ、瑛くんの方がどうにか時間をつくってくれてるよ。わたしはどうも不器用で…あ、もちろん練習を疎かにしているとかでは、まったくないよ!」
「それは知ってる」
「それと…その…そういうことを、したのは、ただの生物的欲求以上に複雑な事情が…」
「あはは。顔真っ赤だね」
弧を描いていた瞳が、さらに細められた。
「やっぱりやさしいよ。はるかちゃんは」
「…それは、どういう…」
「もっと自分を大事にして欲しい」
ペンが机の上を転がる。
握っていたはずの手は、千景の手に包まれていた。
瑛と同じように、ごつごつとした手。
「日坂のことが大切だからって、すべてを差し出すことなんてないよ」
少しかさついた指が、はるかの手の甲をゆっくりと撫でて、離れていった。
「日誌、任せちゃってごめんね」
「…あ、ううん。他のこと全部してくれたし」
「じゃあ、また明日」
「うん」
誰もいなくなった教室で再びペンをとったけれど、白い四角形はなかなか埋まらなかった。
________________
【クリーンナップ】打順における3・4・5番。先に出塁したランナーを長打でホームに帰す(=埋まった塁をクリーンアップする)役割を期待されます。
雨の降りしきる昼休み、軒下のベンチに腰を下ろし、瑛は厚い雲を見上げていた。
「試合の日じゃなくてよかったね」
隣で、はるかが缶コーヒーをあおる。
春、早朝のグラウンドで彼女を見つけた日を思い出す。
今日よりずっとひどい豪雨の中で、誰もいないグラウンドを見つめる彼女の横顔。
“バットを振りたい”という唐突な約束よりも、車で濡れずに帰れた方が彼女にとっては良かったのかもしれないと何度か思ったけれど。
何かが吹っ切れたような顔でバットを振る彼女の姿を思い出すと、自分の選択は間違っていなかったと思えた。
「夕方には上がりそうかな」
今も、彼女は穏やかに笑っている。
瑛はおもむろに距離を詰めて、はるかの肩にもたれかかった。
「はー…」
息を吐く。
全身から力が抜けていくようだ。
「さすがにお疲れですね?」
「有難いことだけどな」
かなりタイトに組まれた試合日程。
遊撃手というポジションゆえに運動量も多く、クリーンナップとして打席に立つ回数も多い瑛の身体には、当然疲労が溜まってきていた。
「去年は、疲れてきた頃には全部終わっちまってたんだ」
「…ベスト4おめでとう。ここからだね」
「ああ。けどその前に休憩」
ついに頭まで預けてしまうと、その下ではるかがふふ、と笑いながら身じろぎした。
爽やかな香りをすぐそばで感じる。
今は真夏。ふたりとも半袖なので、むき出しの腕と腕がぴったりくっついている。
その、吸い付くような感触。
「…なあ、寮の部屋行かねえ?」
「行きませんし、ダメですよ」
「勘が鋭くなったな…」
「だって瑛くんが…その、え、えっちなことばっかり言うから…!」
恥ずかしそうに声を潜めて言うはるかに、余計に腹の底が疼く。
「次はいつになるんだよ…」
「えっ、わ、わかんないよ…!ここ学校だから!もうやめようよこの話…!」
そうは言うものの、こんなにくっついていることについては咎めようとしないのは、彼女の優しさに他ならなくて。
「…ありがとな」
「大会中だけですよ」
「へー、大会最高じゃん。それなら来年も…」
そこまで言って、はっとした。
雨音と、少し冷たいベンチと、彼女の体温と。
せめて今この感覚を、忘れないように目を閉じた。
はるかの予想通り、午後の授業を受けている間に雨は上がり、雲の隙間から光が差していた。
学級日誌の上を走らせていたペンを止めて、それを眺める。
開いた窓からは雨上がり特有のにおいがした。
「こっち全部終わったよ」
「あ、ありがとう!日誌はやっておくから、練習頑張ってね」
「あれ、まだ書いてなかったの?」
気付けば千景がすぐそばで、はるかの手元を覗いていた。
一日の時間割と、コメントを書き込むシンプルな構成。
そのコメントの枠がなかなか広く、地味に時間をとられると誰もが悩まされていた。
「…そっか。昼休みはお楽しみだったようですしね?」
「えっ!?」
弾かれたように見上げると、千景の顔は相変わらずの笑顔だった。
「知ってる?あそこ、ちょうど真上が図書室の書庫なんだよ。僕のお気に入りスペース」
「わ、わあ…」
「大丈夫。たぶん僕しか知らないし、入れない」
そう言ってポケットから鍵を覗かせた。
一体どういう理由でそこにあるのかは検討もつかないけれど。
「まあ、お楽しみだったのは日坂か」
そう呟きながら、千景は椅子を引いてはるかの隣に腰を下ろした。
練習に行かないんだろうか、と怪訝な顔をするはるかに、微笑みかける。
「はるかちゃんは、やさしいね」
変わらず穏やかで、だけどどこか冷たい声音だった。
「ねえ、君たちってデートとかしたことあるの?」
突拍子もない質問は、一転していつも通りだった。
「…うーんと、うちの家にきてもらったり、瑛くんのお父さんと一緒に地元帰ったり、野球観にいったりはしたかな」
「それ全部デートではないでしょ。ふたりだけで出かけたりとかは?」
「ないよ。だってそんな時間ないもん」
「そうだよね」
尋ねてきておいて、不審な反応だ。
はるかがつい首を傾げると、千景は尚も笑った。
「なのに、やることはやってるんだ」
「な…っ」
「自分のしたいことだけは、さ」
その言葉が瑛を非難していることだけは分かって、はるかは戸惑いつつも口を開いた。
「わたしだって、デートに行く暇なんてないよ」
「うん」
「むしろ、瑛くんの方がどうにか時間をつくってくれてるよ。わたしはどうも不器用で…あ、もちろん練習を疎かにしているとかでは、まったくないよ!」
「それは知ってる」
「それと…その…そういうことを、したのは、ただの生物的欲求以上に複雑な事情が…」
「あはは。顔真っ赤だね」
弧を描いていた瞳が、さらに細められた。
「やっぱりやさしいよ。はるかちゃんは」
「…それは、どういう…」
「もっと自分を大事にして欲しい」
ペンが机の上を転がる。
握っていたはずの手は、千景の手に包まれていた。
瑛と同じように、ごつごつとした手。
「日坂のことが大切だからって、すべてを差し出すことなんてないよ」
少しかさついた指が、はるかの手の甲をゆっくりと撫でて、離れていった。
「日誌、任せちゃってごめんね」
「…あ、ううん。他のこと全部してくれたし」
「じゃあ、また明日」
「うん」
誰もいなくなった教室で再びペンをとったけれど、白い四角形はなかなか埋まらなかった。
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【クリーンナップ】打順における3・4・5番。先に出塁したランナーを長打でホームに帰す(=埋まった塁をクリーンアップする)役割を期待されます。