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[Theme 02]2年生編

37

「渚ちゃん、ちょっといい?」

秋山先輩と、彼。
珍しい組み合わせに首を傾げる自分に向けて、口を開いたのは彼だった。

「頼みがある」

いつになく真剣な瞳で彼が語ったのは、こんな話。

ふたりの故郷に、とあるジャズ喫茶がある。
彼女はそこで、大人たちに交じって毎日のように音楽を楽しんでいた。
その時の景色を今の彼女に見せたい。
願わくばそこでもう一度、鍵盤へとその手を伸ばして欲しい。

「はるかの近くで一緒に音楽をやってきた秋山先輩と、文谷に、それを頼みたい」

そう言うなり深々と頭を下げる姿には、美しさすら感じられて。

きっとこれは、彼女にとっての“最後のピース”。
彼女の手は、あともうほんの少しで、“彼女のピアノ”に届くところまできているんだ。

ピアノのことは彼女にも、もちろん彼にも聞いてみたことはない。
だけど彼の語ったほんの短い話だけで、なぜだかそれを悟った。確信ともいえる質量で。

ふと、秋山先輩の横顔を見た。
そして、これから先自分たちに訪れる“その時”のことも、悟ってしまった。

それでも、こんな自分が、彼の力になれるなら。
彼女の、“最後のピース”になれるのなら。

「わかった。精一杯やるよ」

迷いはなかった。



そのピアノは、まるで超新星の爆発のようだった。

どこかぎこちなさも感じさせながら、莫大なエネルギーをぶつけるように、彼女の指が鍵盤を踊る。
そこから空中へと浮かんでいく音は、一粒一粒がきらきらと輝いて、目がつぶれてしまいそうなほど眩しい。
どちらかと言うと静かでやわらかいその曲が、燃え上がるように勢いを増していく。

必死に喰らい付いていきながら、高揚感が止まらなかった。
だけどそれ以上に、彼女自身が、まるで幼い子どものように楽しそうな顔をしていた。
その瞳から流れる涙はなんだかちぐはぐで、なのにやっぱり美しかった。


──そこが、あなたの生きる場所なんですね。


扉を閉めれば、薄暗い地下の階段だけがそこにある。
目も眩むあの時間なんて、まるで最初から存在しなかったかのように。

「…よし、やったね渚ちゃん」

隣から聞こえた声に、思わず目を見開いた。

「うちら、“世界のハルカ・ツキシロとセッションした人”になっちゃったわよ!将来テレビ出る準備しとかなきゃ!」
「秋山先輩…」
「サインの一つでももらっとくんだったな…まあ、あと何回かは顔出してくれるかな?」

暗くて表情はよく見えなかったけど、その声音はあまりに雄弁だった。
彼女と秋山先輩が音楽室で笑い合う姿をもう見られなくなるのは、やっぱり寂しいなと思った。



彼女と一緒に立つ最後のステージは、入学式後の部活動紹介の場となった。

「いなくなる人がそんなに目立っていいの…?」
「いいのいいの!こーいうのはやっぱ一番上手い人がやるもんでしょ!おはるの演奏と美貌で部員ゲット!」
「杏里ー、それ詐欺じゃね?」
「というわけで渚ちゃんもね!あとは部長特権で私!」
「は、はいっ!」

いつも通り、勢いで押していく秋山先輩に周りもはいはい、と慣れた様子だったけれど。
きっとそれは、最後に彼女の一番近くで演奏したいというワガママだったんだろうと、今になって思う。
そしてそこに自分を入れてくれたことが嬉しかった。

彼女のサックスはやっぱり特別で、正規の引退のタイミングを待たずに退部してしまうのはあまりにもったいなくて。

だけど、

──みんなと一緒にやる音楽はとても大切で…とても、片手間でなんてできないから。

彼女がそんなふうに思って、覚悟を決めてくれたなら。

自分にできることは、この音で、飛び立つ彼女の背中を押すことだけ。

超新星の爆発を越えて、また新たにはじまる星の歴史。
それをこれからも、密かに追いかけてもいいですか?

「またどこかで、一緒に演奏しよう」

心の中を見透かしたように、彼女は囁いた。
かつての自分なら、別れ際のリップサービスだと思ったかもしれない。
だけどその言葉は不思議なほど、ストンと胸の中に落ちてきたのだった。



彼女のいなくなった音楽室は、やっぱりどこか物足りなかった。
単純に一番演奏が上手だった彼女の音を失って、サックスパートだけでなく全体の演奏が心許なく聞こえてしまうのもあるけれど、確実にそれだけじゃない何かがあった。

──最後まで、音の切り方も丁寧にしたらもっときれいになるよ

自然と前向きにさせてくれる言い方とか。

──あはは、杏里ちゃんチョコついてるよ

はじめて出会った頃よりも一層やわらかく、愛らしくなった笑顔とか。

──文谷君もどうぞ?

いつもなんとなく気が引けて輪に入れずにいる、自分に気付いてくれるところとか。

──恋愛感情とかじゃなくて、君たちがセットで好き。ふたりの世界が好き

ああ今更になって、嘘になってしまったなんて。

「…みんな、野球の応援はトランペットが中心ともいえるから、気合入れていこう!」
「聞き捨てならんぞ渚ちゃん!まさか野球部の味方に…?」
「まずはしっかりきれいに鳴らせるようになるために、いい練習になると思いませんか?短いフレーズでいろんな曲をやれますし!」
「それは、めちゃくちゃ一理ある気がする…」
「はじめてで緊張する人もいると思うけど、まずは心を込めて思いっきり吹こう!」

自分にできることを一つずつやっていこうと思った。
いつか必ず、彼女との“約束”を果たすために。



チャンスの打席へ、“6”の背中が向かっていく。

近くの座席へ目を向けると、彼女が真っ直ぐにその番号を見つめていた。

彼女の祈りも思いも、悔しいけれど彼に託すしかないから。

すべてこの音に乗せてその背中へ届くようにと、力を込める。
彼のためだけに用意したその曲を、全身全霊で響かせる。
スタンドの野球部員たちも精一杯声を上げている。


応えたのは、高らかに響き渡る音。


右中間を突き抜けた打球は、勢いそのままフェンスに叩き付けられた。

歓声の中、二人のランナーがホームへ帰ってくる。
彼も一塁のベースを蹴って、二塁へと滑り込んだ。

“0”が並ぶスコアボードに刻まれた待望の先制点。
このままこの試合に勝てば、既に彼らの夏は去年よりも長いことになる。

だけどきっと、集中力を微塵も切らさず大きくリードを取った彼の、そしてそれを静かに見つめる彼女の瞳が見据えているものは、きっともっと先にある。

「いやもう、ガチじゃん…マジで全国放送デビューしちゃう?うちら」
「…はは。楽しみですね、秋山部長!」

僕が連れて行ってみせる。この音で。

なんて、彼に言ったら鼻で笑われてしまうだろうけど。
勝手に思うだけなら許して欲しい。


この音に込める、彼への思いも、彼女への想いも。


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【右中間】センターとライトの間。逆側は“左中間”。
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