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[Theme 02]2年生編

36

その人はいつも、ここではないどこかを見つめているようだった。

野球部の高原君といつも一緒にいて、聞こえてくる話も野球のことばかりなので、彼も野球部なんだろうということは分かる。
だけどそれ以外、彼のことを深く知る者はこの教室には一人もいなかったと思う。



入学式から数日後、ふと廊下を見ると周りと違う色のリボンをつけた女子生徒の姿があった。
吹奏楽部の月城先輩。
そういえばなんとなく、彼女にも彼と似たような空気を感じる気がする、そんなことを思っていると当の本人が廊下へ出ていった。

──はるかと俺は幼馴染

盗み聞きというわけではないけれど、窓を挟んですぐそばで行われる会話は自然と耳に入って。
新入部員たちの間で“美人すぎてちょっと緊張する”と言われているその人を呼び捨てにしていることと、幼馴染であることと、二重の衝撃を受けた。



野球部の交流試合の時も、ふたりはとても仲が良さそうだった。
同じ教室で数カ月過ごしていて一度も見たことのないような顔で笑う彼と、それを見上げる彼女。
彼女はいつだって優しいけれど、彼に向ける目線はより一層やわらかなものに見えた。

それと同時に、ふたりの間には何か、張り詰めた糸のようなものがあるような気がした。
それに触れてしまわないように、慎重に言葉を選んでいるような気が。

誰よりも親密に見えるふたりの関係は、ひどく脆くも感じられた。



「あれ?おはるまだグラウンド?何やってんのかねあの子」
「あ、僕、様子見てきます!」

体育祭の日、部内で特に彼女と仲の良い秋山先輩にそう伝えて、吹奏楽部のテントへと向かった時だった。

彼女の三つ編みの束を掬い上げる、彼の横顔。

その視線はどこか眩暈がするほど甘ったるくて、それなのに飢えた獣のような鋭さもあって。
大音量のBGMや生徒たちの賑やかな話し声も、ふたりのまわりにだけは存在していないような、世界にふたりきりでいるような空気がそこにあった。

なぜだかそこから動けなくて、我に返ったのはいつの間にかひとりになっていた彼女がサックスを抱えて目の前に来た時だった。

「文谷君、お疲れさま。暑いね」

穏やかな笑みをたたえるその頬は、少しだけ赤い。
それは暑さのせいか、それとも。

ビスクドールのようなかんばせに演奏もとびきり美しく、あたたかな人柄も持ち合わせた彼女には尊敬以上の感情を抱きかけていたけれど、それは自分には到底許されないことのように感じた。



彼女のクラスの合唱委員を名乗る女子生徒が語った話には、不思議と驚きはなかった。
女子生徒のあまりに浅い思慮には開いた口が塞がらなかったけれど。

彼女には明らかに常人とは違う才がある。
それはピアノでなくサックスであっても、彼女の紡ぐ音を聴いていればすぐにわかることだった。

「…何か事情があるんだろうしそっとしておくべきだと思います。先輩自身が言っていないことを、こんなふうに聞いて回るなんて、正直どうかと思います」
「本当だよ。私たちは何も知らないし、知ってても勝手に話したりしないから。もし私たち以外にも同じことするつもりなら、もうやめなよ」

物言いたげな表情のまま去っていく背中を見ながら、はじめの頃にふたりの間に感じていた“張り詰めた糸”は、これだったのかもしれないとなんとなく思った。

そしてその“糸”はいつの間にか見えなくなっていたから、もしかしたら彼女が抱える悩みも、良い方に向かっているのかな。
そうでありますようにと、心の中で祈った。



ふたりの間の空気がより特別なものになっていくたび、彼自身の雰囲気もどことなく変わっていくようだった。
クラスメイトのことなどまったく興味がないような、ともすれば干渉を許さないかのようにも見えていた彼だったけれど。

いや、たぶん、今も興味はないだろう。
それでも話しかけることすら躊躇うような、見えない壁はずっと薄くなってきた気がする。

「日坂君、やっぱり試合のことが…?」

だから文化祭の日、出席番号に従って隣に座った彼に、勇気を出してそう問いかけてみた。
ステージを見つめる表情があまりに険しくて、それでいて迷子の小さな子どものようだったから。

その視線の先には、穏やかな顔で歌う彼女の姿。
それなのにどうして、そんな目をしているの?



それから数時間後の教室で、夕陽に包まれながら唇を重ね合うふたりの姿を見てしまった時も、彼は同じ目をしていた。

それを見つめる彼女の目からは、涙が零れて。

彼の心の中は、ふたりの世界は、自分には計り知れないほどのものなのかもしれない。

──何か、してあげたいのにな。

自分の中に沸き上がる感情に、少し驚いた。

きっと相手にとっては特別親しいわけではない、ただの“クラスメイト”、“ 部活の後輩”。
そんな自分だけど、ふたりにはあたたかい場所で、穏やかに笑っていて欲しい。
いつしかそんなふうに思うようになっていた。



「…すげー、見事にストライク」

体育の時間、精一杯放り投げた球をしっかりと受け留めてくれた彼は、呟くようにそう言った。

「えへへ、よかった…!小さい頃、よく兄ちゃんとキャッチボールしてたんだ」
「それだけ?少年野球とかは?」
「え?やったことないよ。ずっとピアノ習ってたし…」
「マジか」

嬉しいことに彼のお眼鏡にかなったらしい自分の球を彼のミットに投げ込み、彼がまた自分へと返してくれる。
それを繰り返しながら、いつの間にかたわいもない会話をしていた。

「日坂君はやっぱり、小さい頃から?」
「ああ。小1からだな」
「わあ、野球漬けの人生だね!」
「“人生”って言うほどの歳でもねえけどな」
「…月城先輩とも、その頃から?」

その質問の後の、返球。
浮かべた表情とは違って、そこには一切の動揺を感じさせなかったのは、やはり選手だからか。

「まあ、そうだな。でもずっと一緒にいたわけじゃない」
「あ…」

脳裏に過ったのは、あの合唱委員が語った話。
幼くして海を渡っていたということは、彼らには離れ離れになっていた期間があるということ。

何を口にしたものか迷いながら投げた球は、彼の構える場所から大きく逸れてしまった。

「わ、ごめん!」

反射的に追いかけようとしたけれど、彼は腕を伸ばし、ミットを打ち鳴らしてその球を受け留めてみせた。

「意外と力あるな。ただ、試合では何球も投げるから、もっと力抜けよ。お前の場合それでもちゃんとここまで届く」
「あ…うん!」
「あと…」

少しだけ、“野球をしている時の彼”が垣間見えた気がしてなんとなく圧倒されていると、彼の目が鋭くなった。

「…なんかよくはるかのこと気にしてくるけど。彼女だから」

思わず背筋が凍るような、冷たい視線。
だけど、なんだか笑いがこみ上げてきてしまった。

「おい、何だよ…」
「ごめん…!いやあ、その、知ってるよ。月城先輩から聞いた」
「…」
「安心して。僕は、なんだろうな、」

きまりが悪そうに立ちすくむ彼を眺める。
自分と違って大きくて、彼女の好きな野球がとっても上手で、野球のこととなるとやっぱり頼もしくて。
羨ましいな、と思うことだってあったけど。

「ふたりのことが、大好きなんだ」
「…は…?」
「恋愛感情とかじゃなくて、君たちがセットで好き。ふたりの世界が好き」
「何言ってんだ…?」

いよいよ困惑してしまった彼に、また笑った。
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