[Theme 02]2年生編
32
「わあ…!これが、リアル球場…!」
ゲートを潜り抜けるなり、はるかは泣いてしまうんじゃないかと思うくらいに瞳を揺らした。
「な、生打球音…!」
フィールドではプロ野球選手たちが、軽快なBGMをバックに試合前練習を行っている。
試合開始は1時間後だが、既に客席は埋まり始めていた。
「わあ、売り子さんかわいい…!みんなアイドルみたい…!」
「そのペースで突っ込んでると始まる前に疲れるぞ」
「ハッハッハ!はるかちゃんが売り子さんとしゃべれるようにいっぱい飲まねえとな!」
裕士がテレビ番組のキャンペーンで当てたというチケットを手に訪れた、ゴールデンウィーク終盤の東峰ドーム。
はるかはプロ野球を現地で観戦するのははじめてらしく、目に映るものすべてに感激している。
「はるかちゃん神岡ドームは?連れてってもらったことないの?」
「ハリアーズの初現地は、将来自分で働いたお金でって決めてるんです…!」
「おーえらいな!こいつは俺の金で何度もウォルラス観てっけどな!」
「悪かったな」
チケットに記された座席に辿り着き、腰を下ろすなりはるかがカバンを探っている。
おもむろに取り出したのは、選手名鑑だった。
「お前それ…」
「リーグが違うから、申し訳ないことに顔と名前が一致しなくて。今のうちに確認しとこうと…」
はるかは丁寧にインデックスまでつけてあるそれを開き、フィールド上の選手たちと交互に眺めはじめる。
「はっ、あれが噂のやらかした方…!」
「アハハハ!これは楽しい試合になりそうだな!」
試合開始後も、はるかは一つ一つのプレーに胸を震わせ、ピンチもチャンスも固唾をのんで見守っていた。
ヒットが出れば飛び上がりそうなほど喜び、得点が入ると──この場ではウォルラスを応援してくれているらしい──全身から昂る気持ちが伝わってきた。
自分の試合もこんなふうに見ていてくれているんだろうかと、この日ばかりは試合よりもはるかの姿を見ている時間の方が長かったように思う。
「この子初観戦なんですよー!」
「そうなんですか?ようこそ!勝ちましょうねっ」
「あ、は、はい!ありがとうございます!?」
裕士が売り子を呼びつけるたびに挙動不審になっていたのには、親子で笑い転げた。
ヒーローインタビュー中にフィールドをうろうろしていたマスコットも気に入ったようで、葛藤の末にグッズ売り場で小さなキーホルダーを買っていた。
その調子で“推し変”すればいいのに、なんて思いながら見ていたのは黙っておくことにする。
ゴールデンウィークの威力は予想以上で、直前で宿を探すのは一苦労だったらしい。
部屋のフロアが三人ともバラバラになってしまったと父親が嘆いていたが、瑛にとってはこの上なく好都合だった。
そもそもはるかと売り子の交流を口実に、球場であれほど飲んでいた父親は、十中八九部屋に入るなり夢の中だろうけど。
「こ、こんばんは…」
ゆっくりと扉を開けたはるかは、昼間とは違うゆったりとしたワンピースに身を包んでいた。
「それ寝間着?」
「ううん、それはまた別。部屋着かな?」
「わざわざ?」
「わたし、旅先で全然眠れないタイプで…いかに普段通りの空間をつくるかっていうのが重要らしいよ。枕カバーも持ってきてるの」
ほら、とベットに腰掛け、枕を抱えるはるか。
ワンピースの裾が舞い、白い太ももが覗いた。
「…さっそく誘ってんの?」
「まじめな話…!」
瑛もすぐそばに腰を下ろし、はるかを見つめた。
「死ぬほど運動して疲れきったら眠れるんじゃね?」
「瑛くん、もうなんか、おじさんみたいだよ…せっかくだからお話とかしたいな…」
──話したいこともあるし。
ああ、そんな気がしたから、ゆっくり話す間もなく事を運んでしまおうと思ったのに。
そんな瑛の心中に反して、はるかは枕を置いて姿勢を正した。
茶化そうなんて気も起こさせてくれない、真っ直ぐな瞳が瑛を見上げる。
「瑛くん、わたしね、高校を出たらもう一度アメリカに行こうと思うの」
どこかで、分かっていた。
カナリアでもう一度、ピアノを弾く姿を見た時。
あるいは、それよりも前から。
「ピアニストになる方法は、いくらでもある。そして音楽の学校に行ったからって、ピアニストになれるわけでもない。だけど、やり残したことを片付けてこないと、わたしは前に進めないと思うんだ」
幼い日を思い出す。
リトルリーグの試合の帰り道。
騒がしい空港のロビー。
「勝負してくる。もう二度と、立ち止まらないように」
穏やかだけど、強い引力を持った声音。
「もう二度と、大切な人を失わないように」
大きな瞳が、生まれたての星のように燃えている。
ああこの子は、本当にずるい。それから、強い。
「…何年?4年?」
「うん、一応。でも、飛び級もできるし単位を取りきったら卒業できるから、頑張ればそれより早く帰ってこられるよ」
「じゃあ、頑張って。俺が…」
一瞬、言葉に詰まる。
本当に、その覚悟はあるか?
自分にそんなことができるのか?
迷いに瞼を伏せると、先刻、ドームで見つめていた横顔が浮かんだ。
目を開ける。
小さな星空を覗く。
「俺が、あのフィールドに立つ時までに、帰ってこいよ」
星空は、ゆるりと弧を描いた。
「もちろん。そのつもりだよ」
その輝きを、眩しいと思うだけの自分じゃ、いけない。
「…ただし、瑛くんに立ってもらうのは東峰ドームではなく、神岡ドームのフィールドですけどね!」
「絶対やだね。オープン戦からボコボコにしてはるかに推し変させてやる!」
「くー!絶対獲得しますからっ!」
「…はるか」
おどけて笑うはるかの頬に、手をかざす。
「あの時…お前の不安とか、心細さとか、ほんとは気付いてたのに、背中を押してやれなかった」
勝手にすれば、なんて吐き捨てた記憶が苦々しい。
「応援してる」
口付けを落とすと、はるかはやっぱり顔を赤くして、だけど穏やかに笑っていた。
「…瑛くんは、どんどん強くなるね」
「そうでもねえよ。帰ってくるって分かってても、またはるかのいない世界を生きるのは、正直怖い」
「…瑛くん…」
「だから…はるかっていう存在を、そこにいなくても感じられるくらい、この身体に染み込ませたい」
はるかが小さく息を呑むのを感じながら、腕の中に閉じ込める。
さっきよりも長く、口付けた。
「…これ以上のこと、してもいい?」
それはまるで、祈るように。
はるかはゆらゆらと瞳を揺らして、静かに頷いた。
「わあ…!これが、リアル球場…!」
ゲートを潜り抜けるなり、はるかは泣いてしまうんじゃないかと思うくらいに瞳を揺らした。
「な、生打球音…!」
フィールドではプロ野球選手たちが、軽快なBGMをバックに試合前練習を行っている。
試合開始は1時間後だが、既に客席は埋まり始めていた。
「わあ、売り子さんかわいい…!みんなアイドルみたい…!」
「そのペースで突っ込んでると始まる前に疲れるぞ」
「ハッハッハ!はるかちゃんが売り子さんとしゃべれるようにいっぱい飲まねえとな!」
裕士がテレビ番組のキャンペーンで当てたというチケットを手に訪れた、ゴールデンウィーク終盤の東峰ドーム。
はるかはプロ野球を現地で観戦するのははじめてらしく、目に映るものすべてに感激している。
「はるかちゃん神岡ドームは?連れてってもらったことないの?」
「ハリアーズの初現地は、将来自分で働いたお金でって決めてるんです…!」
「おーえらいな!こいつは俺の金で何度もウォルラス観てっけどな!」
「悪かったな」
チケットに記された座席に辿り着き、腰を下ろすなりはるかがカバンを探っている。
おもむろに取り出したのは、選手名鑑だった。
「お前それ…」
「リーグが違うから、申し訳ないことに顔と名前が一致しなくて。今のうちに確認しとこうと…」
はるかは丁寧にインデックスまでつけてあるそれを開き、フィールド上の選手たちと交互に眺めはじめる。
「はっ、あれが噂のやらかした方…!」
「アハハハ!これは楽しい試合になりそうだな!」
試合開始後も、はるかは一つ一つのプレーに胸を震わせ、ピンチもチャンスも固唾をのんで見守っていた。
ヒットが出れば飛び上がりそうなほど喜び、得点が入ると──この場ではウォルラスを応援してくれているらしい──全身から昂る気持ちが伝わってきた。
自分の試合もこんなふうに見ていてくれているんだろうかと、この日ばかりは試合よりもはるかの姿を見ている時間の方が長かったように思う。
「この子初観戦なんですよー!」
「そうなんですか?ようこそ!勝ちましょうねっ」
「あ、は、はい!ありがとうございます!?」
裕士が売り子を呼びつけるたびに挙動不審になっていたのには、親子で笑い転げた。
ヒーローインタビュー中にフィールドをうろうろしていたマスコットも気に入ったようで、葛藤の末にグッズ売り場で小さなキーホルダーを買っていた。
その調子で“推し変”すればいいのに、なんて思いながら見ていたのは黙っておくことにする。
ゴールデンウィークの威力は予想以上で、直前で宿を探すのは一苦労だったらしい。
部屋のフロアが三人ともバラバラになってしまったと父親が嘆いていたが、瑛にとってはこの上なく好都合だった。
そもそもはるかと売り子の交流を口実に、球場であれほど飲んでいた父親は、十中八九部屋に入るなり夢の中だろうけど。
「こ、こんばんは…」
ゆっくりと扉を開けたはるかは、昼間とは違うゆったりとしたワンピースに身を包んでいた。
「それ寝間着?」
「ううん、それはまた別。部屋着かな?」
「わざわざ?」
「わたし、旅先で全然眠れないタイプで…いかに普段通りの空間をつくるかっていうのが重要らしいよ。枕カバーも持ってきてるの」
ほら、とベットに腰掛け、枕を抱えるはるか。
ワンピースの裾が舞い、白い太ももが覗いた。
「…さっそく誘ってんの?」
「まじめな話…!」
瑛もすぐそばに腰を下ろし、はるかを見つめた。
「死ぬほど運動して疲れきったら眠れるんじゃね?」
「瑛くん、もうなんか、おじさんみたいだよ…せっかくだからお話とかしたいな…」
──話したいこともあるし。
ああ、そんな気がしたから、ゆっくり話す間もなく事を運んでしまおうと思ったのに。
そんな瑛の心中に反して、はるかは枕を置いて姿勢を正した。
茶化そうなんて気も起こさせてくれない、真っ直ぐな瞳が瑛を見上げる。
「瑛くん、わたしね、高校を出たらもう一度アメリカに行こうと思うの」
どこかで、分かっていた。
カナリアでもう一度、ピアノを弾く姿を見た時。
あるいは、それよりも前から。
「ピアニストになる方法は、いくらでもある。そして音楽の学校に行ったからって、ピアニストになれるわけでもない。だけど、やり残したことを片付けてこないと、わたしは前に進めないと思うんだ」
幼い日を思い出す。
リトルリーグの試合の帰り道。
騒がしい空港のロビー。
「勝負してくる。もう二度と、立ち止まらないように」
穏やかだけど、強い引力を持った声音。
「もう二度と、大切な人を失わないように」
大きな瞳が、生まれたての星のように燃えている。
ああこの子は、本当にずるい。それから、強い。
「…何年?4年?」
「うん、一応。でも、飛び級もできるし単位を取りきったら卒業できるから、頑張ればそれより早く帰ってこられるよ」
「じゃあ、頑張って。俺が…」
一瞬、言葉に詰まる。
本当に、その覚悟はあるか?
自分にそんなことができるのか?
迷いに瞼を伏せると、先刻、ドームで見つめていた横顔が浮かんだ。
目を開ける。
小さな星空を覗く。
「俺が、あのフィールドに立つ時までに、帰ってこいよ」
星空は、ゆるりと弧を描いた。
「もちろん。そのつもりだよ」
その輝きを、眩しいと思うだけの自分じゃ、いけない。
「…ただし、瑛くんに立ってもらうのは東峰ドームではなく、神岡ドームのフィールドですけどね!」
「絶対やだね。オープン戦からボコボコにしてはるかに推し変させてやる!」
「くー!絶対獲得しますからっ!」
「…はるか」
おどけて笑うはるかの頬に、手をかざす。
「あの時…お前の不安とか、心細さとか、ほんとは気付いてたのに、背中を押してやれなかった」
勝手にすれば、なんて吐き捨てた記憶が苦々しい。
「応援してる」
口付けを落とすと、はるかはやっぱり顔を赤くして、だけど穏やかに笑っていた。
「…瑛くんは、どんどん強くなるね」
「そうでもねえよ。帰ってくるって分かってても、またはるかのいない世界を生きるのは、正直怖い」
「…瑛くん…」
「だから…はるかっていう存在を、そこにいなくても感じられるくらい、この身体に染み込ませたい」
はるかが小さく息を呑むのを感じながら、腕の中に閉じ込める。
さっきよりも長く、口付けた。
「…これ以上のこと、してもいい?」
それはまるで、祈るように。
はるかはゆらゆらと瞳を揺らして、静かに頷いた。