[Theme 02]2年生編
29
ふたりで学校の最寄駅へと向かう電車に揺られるのは、偶然の再会を果たした入学式の日と、想いを語り合った正月明けの日と、これで三度目だった。
窓の外の桜並木は、やはり先日の豪雨で花を落としてしまったようだ。
「…あ」
そこで、ふと思い出す。
桜が咲くとすぐに、雨が降る。
日本に帰ってきてから、毎年そんな景色を目の当たりにしている気がする。
だけど去年は、瑛と再会したあの日は、満開の花々がこの並木を満たしていたのだった。
──そうか。そうだったんだ…
あまり眠れなかったのか、隣で舟をこいでいる瑛をそっと見上げて、はるかは微笑んだ。
入学式前の全体練習の後、はるかは年度内最後のコンクール後から新部長となっていた杏里の隣で、部員たちの前に立っていた。
一人ひとりと目を合わせていくように、部員たちを見渡し、口を開く。
「入学式までで、吹奏楽部を退部させていただきます」
何人もの部員が、戸惑いの声を上げた。
「中途半端な時期に入って、まだ1年ちょっとで…また急に辞めるなんて言い出して、みんなのことを振り回してごめんなさい」
一度深く頭を下げて、続ける。
「実は、わたしは小さい頃からピアノをやっていて、ピアノで生きていくつもりでした。だけど、すごくつらいことがあって、ピアノも音楽もできなくなっていました。だけど…杏里ちゃんに誘ってもらって吹奏楽部に入って、みんなと音楽ができて、とてもとても楽しくて…!そのおかげもあって、もう一度ピアノに向き合うことができるようになりました」
隣で杏里が鼻をすするのが聞こえた。
「これからもう一度、ピアノで勝負したいと思っています。みんなと一緒にやる音楽はとても大切で…とても、片手間でなんてできないから。だから、退部することにしました」
もう一度、先ほどより深く、頭を下げた。
「勝手ばかり言ってごめんなさい。それでも、みんなと一緒に音楽ができて幸せでした。ありがとう」
いつだって音楽や、賑やかな話声に満ちている音楽室が、水を打ったように静かで。
その静けさが肌に刺さるようで、痛みすら感じそうになった時。
「…この子はマルチタスクなんてできるほど器用じゃないからさ。せっかく私たちが背中を押せたっていうんなら、足枷になんかなりたくないでしょ?許してやって欲しい」
杏里も、はるかに並んで頭を下げた。
そっと視線だけで見遣ったその目には、涙が滲んでいた。
「…いや、中途半端も何も、杏里が無理やり引っ張ってきたんでしょ?」
「そうだよ、振り回されてんのはるかでしょ…」
怪訝そうな声音に顔を上げると、部員たちは気まずそうに顔を見合わせていた。
その様子に首を傾げると、渚がおずおずと手を上げた。
「あの…月城先輩ごめんなさい!知ってたんです…僕たち…」
「え…?」
「先輩のクラスの岡本さん?が、先輩が部活休んだ日にここに来て、僕たちに何か知らないかって…」
「はあ!?あいつこんなとこにまで…」
もう時効だろうと、今さら岡本を責める気にはならなかったけれど。
つまり部員たちははるかの過去を知っていて、今まで何も言ってこなかったということで。
杏里もそれを知らなかったということは、杏里が口留めしていたということでもなさそうだ。
「本人が弾けないって言うんなら、何か事情があるんだろうしそっとしておくべきだと思いますってその時は言いました。それから、事情はわからないけど、いつかまた月城先輩がピアノを弾けるようになったらいいなって…陰ながら思ってたんです」
じわりと、涙が滲んだ。
「だから、嬉しいです。いや、寂しいですけど。寂しいです…!」
「私も寂しい!やっぱ許さん!みんなおはるを許すな!」
「たまには顔出してよ!コンクールは無理でも、演奏会とか!」
「そうそう!はるかの大好きな野球の応援とか!」
「う…試合はじっくり観たい…」
「おい!今年は絶対行かねえぞ応援は!!」
守られていた。
大切な仲間たちに。
その事実は、ずっとずっと大切に持っていこうと思った。
入学式に先立って行われた始業式。
解散後に講堂から向かうのは、新しい教室。
「あ」
そこにはすっかり見慣れた顔が、二人並んでいた。
「月城」
「月城さん」
「わーびっくり。柳木君は3年間一緒だね」
「羨ましいなあ。1年間だけどよろしくね」
「うん!桐谷君」
きっとこの夏、瑛や正也とともに勝いのグラウンドに立つ二人。
はるかは背筋が伸びるような思いで見上げた。
「…ねえねえ、お近づきの印にさ、名前で呼ぼうよ」
「え?」
「僕らもさ。試合中もなんだか他人行儀だなって思ってたんだ」
「…俺たちはそうかもしれないが…女子を名前で呼ぶというのは…」
「なに武士みたいなこと言ってんの?いいでしょ、はるかちゃん」
ここ数年ではほとんど瑛や女友達からしか呼ばれない名前を、少しくすぐったく感じる。
「ええと、いいのかな…?」
「いいんだよ、別にチューしようって言ってるんじゃないんだから」
「!?」
「テメーら勘違いしてんじゃねえぞ、おはるが好きなのは野球であってテメーらじゃねえからな!」
いつものように杏里が仁王立ちで低い声を響かせた。
教室ではなく、窓の向こうの廊下から。
「くそー!クラスまで離すことないじゃんかー!」
「杏里ちゃん、泣かないで!これからもお昼とか一緒に食べようね!」
「うわああん!食べるううー!」
どうどう、と杏里をなだめるはるかを、取り残された二人は静かに眺めていた。
「…手強いガードマンは他にもいたんだね、拓真」
「ガードマン…?」
「ふふ、こっちの話」
鷺嶋高校野球部の寮では新3年生同士が相部屋となり、その結果空いた枠には新入生が入る。
2年生となった瑛の部屋からも拓真が去り、そして数日後に入学式を控えた新1年生がやってきた。
「…」
「…」
部屋に入る時に軽く挨拶をして以来、その部屋に会話はない。
「…名前は?」
「…園田 冬真 です」
「そうか。俺は、日坂 瑛。よろしく」
「よろしくお願いします」
会話終了。
もともと人付き合いが得意でない瑛にとって、後輩の相手というのは圧倒的に苦手なタスクであった。
試合や練習に必要な会話なら中学時代までも問題なくしてきたつもりだが、共同生活ともなるとかなり話が違う。
拓真も決して口数は多くなかったが、居心地が悪いと感じることは、初日から最後までただの一度もなかった。
正直、冬真の居心地はどうでもいいが、自分の居心地が悪いのは非常に困る。
こういう時は、やはりはるかの顔が浮かんだ。
──“後輩との接し方 検索”
メッセージを送ると、すぐに返ってきた。
“困るんじゃないかなと思ってたよ…”
“先に言えよな”
“わたしも男の子ってなるとよく分かんないなー、吹部はほとんど女の子と同じ扱いだし”
そのあとに綴られた文字に、眉がぴくりと跳ね上がった。
“拓真君とか千景君に聞いたら?”
「どういうことだ…?」
思わずスマートフォンを握る手に力が入る。
おまけに困惑が口に出た。
「…先輩、大丈夫ですか?」
「あ?ああ…別に」
「そうですか…」
明らかに怪訝そうな顔。
ただでさえ厄介な“後輩”という存在に対し、第一印象を損なってしまった責任は取ってもらわなければ、と画面の向こうに理不尽な念を送った。
ふたりで学校の最寄駅へと向かう電車に揺られるのは、偶然の再会を果たした入学式の日と、想いを語り合った正月明けの日と、これで三度目だった。
窓の外の桜並木は、やはり先日の豪雨で花を落としてしまったようだ。
「…あ」
そこで、ふと思い出す。
桜が咲くとすぐに、雨が降る。
日本に帰ってきてから、毎年そんな景色を目の当たりにしている気がする。
だけど去年は、瑛と再会したあの日は、満開の花々がこの並木を満たしていたのだった。
──そうか。そうだったんだ…
あまり眠れなかったのか、隣で舟をこいでいる瑛をそっと見上げて、はるかは微笑んだ。
入学式前の全体練習の後、はるかは年度内最後のコンクール後から新部長となっていた杏里の隣で、部員たちの前に立っていた。
一人ひとりと目を合わせていくように、部員たちを見渡し、口を開く。
「入学式までで、吹奏楽部を退部させていただきます」
何人もの部員が、戸惑いの声を上げた。
「中途半端な時期に入って、まだ1年ちょっとで…また急に辞めるなんて言い出して、みんなのことを振り回してごめんなさい」
一度深く頭を下げて、続ける。
「実は、わたしは小さい頃からピアノをやっていて、ピアノで生きていくつもりでした。だけど、すごくつらいことがあって、ピアノも音楽もできなくなっていました。だけど…杏里ちゃんに誘ってもらって吹奏楽部に入って、みんなと音楽ができて、とてもとても楽しくて…!そのおかげもあって、もう一度ピアノに向き合うことができるようになりました」
隣で杏里が鼻をすするのが聞こえた。
「これからもう一度、ピアノで勝負したいと思っています。みんなと一緒にやる音楽はとても大切で…とても、片手間でなんてできないから。だから、退部することにしました」
もう一度、先ほどより深く、頭を下げた。
「勝手ばかり言ってごめんなさい。それでも、みんなと一緒に音楽ができて幸せでした。ありがとう」
いつだって音楽や、賑やかな話声に満ちている音楽室が、水を打ったように静かで。
その静けさが肌に刺さるようで、痛みすら感じそうになった時。
「…この子はマルチタスクなんてできるほど器用じゃないからさ。せっかく私たちが背中を押せたっていうんなら、足枷になんかなりたくないでしょ?許してやって欲しい」
杏里も、はるかに並んで頭を下げた。
そっと視線だけで見遣ったその目には、涙が滲んでいた。
「…いや、中途半端も何も、杏里が無理やり引っ張ってきたんでしょ?」
「そうだよ、振り回されてんのはるかでしょ…」
怪訝そうな声音に顔を上げると、部員たちは気まずそうに顔を見合わせていた。
その様子に首を傾げると、渚がおずおずと手を上げた。
「あの…月城先輩ごめんなさい!知ってたんです…僕たち…」
「え…?」
「先輩のクラスの岡本さん?が、先輩が部活休んだ日にここに来て、僕たちに何か知らないかって…」
「はあ!?あいつこんなとこにまで…」
もう時効だろうと、今さら岡本を責める気にはならなかったけれど。
つまり部員たちははるかの過去を知っていて、今まで何も言ってこなかったということで。
杏里もそれを知らなかったということは、杏里が口留めしていたということでもなさそうだ。
「本人が弾けないって言うんなら、何か事情があるんだろうしそっとしておくべきだと思いますってその時は言いました。それから、事情はわからないけど、いつかまた月城先輩がピアノを弾けるようになったらいいなって…陰ながら思ってたんです」
じわりと、涙が滲んだ。
「だから、嬉しいです。いや、寂しいですけど。寂しいです…!」
「私も寂しい!やっぱ許さん!みんなおはるを許すな!」
「たまには顔出してよ!コンクールは無理でも、演奏会とか!」
「そうそう!はるかの大好きな野球の応援とか!」
「う…試合はじっくり観たい…」
「おい!今年は絶対行かねえぞ応援は!!」
守られていた。
大切な仲間たちに。
その事実は、ずっとずっと大切に持っていこうと思った。
入学式に先立って行われた始業式。
解散後に講堂から向かうのは、新しい教室。
「あ」
そこにはすっかり見慣れた顔が、二人並んでいた。
「月城」
「月城さん」
「わーびっくり。柳木君は3年間一緒だね」
「羨ましいなあ。1年間だけどよろしくね」
「うん!桐谷君」
きっとこの夏、瑛や正也とともに勝いのグラウンドに立つ二人。
はるかは背筋が伸びるような思いで見上げた。
「…ねえねえ、お近づきの印にさ、名前で呼ぼうよ」
「え?」
「僕らもさ。試合中もなんだか他人行儀だなって思ってたんだ」
「…俺たちはそうかもしれないが…女子を名前で呼ぶというのは…」
「なに武士みたいなこと言ってんの?いいでしょ、はるかちゃん」
ここ数年ではほとんど瑛や女友達からしか呼ばれない名前を、少しくすぐったく感じる。
「ええと、いいのかな…?」
「いいんだよ、別にチューしようって言ってるんじゃないんだから」
「!?」
「テメーら勘違いしてんじゃねえぞ、おはるが好きなのは野球であってテメーらじゃねえからな!」
いつものように杏里が仁王立ちで低い声を響かせた。
教室ではなく、窓の向こうの廊下から。
「くそー!クラスまで離すことないじゃんかー!」
「杏里ちゃん、泣かないで!これからもお昼とか一緒に食べようね!」
「うわああん!食べるううー!」
どうどう、と杏里をなだめるはるかを、取り残された二人は静かに眺めていた。
「…手強いガードマンは他にもいたんだね、拓真」
「ガードマン…?」
「ふふ、こっちの話」
鷺嶋高校野球部の寮では新3年生同士が相部屋となり、その結果空いた枠には新入生が入る。
2年生となった瑛の部屋からも拓真が去り、そして数日後に入学式を控えた新1年生がやってきた。
「…」
「…」
部屋に入る時に軽く挨拶をして以来、その部屋に会話はない。
「…名前は?」
「…
「そうか。俺は、日坂 瑛。よろしく」
「よろしくお願いします」
会話終了。
もともと人付き合いが得意でない瑛にとって、後輩の相手というのは圧倒的に苦手なタスクであった。
試合や練習に必要な会話なら中学時代までも問題なくしてきたつもりだが、共同生活ともなるとかなり話が違う。
拓真も決して口数は多くなかったが、居心地が悪いと感じることは、初日から最後までただの一度もなかった。
正直、冬真の居心地はどうでもいいが、自分の居心地が悪いのは非常に困る。
こういう時は、やはりはるかの顔が浮かんだ。
──“後輩との接し方 検索”
メッセージを送ると、すぐに返ってきた。
“困るんじゃないかなと思ってたよ…”
“先に言えよな”
“わたしも男の子ってなるとよく分かんないなー、吹部はほとんど女の子と同じ扱いだし”
そのあとに綴られた文字に、眉がぴくりと跳ね上がった。
“拓真君とか千景君に聞いたら?”
「どういうことだ…?」
思わずスマートフォンを握る手に力が入る。
おまけに困惑が口に出た。
「…先輩、大丈夫ですか?」
「あ?ああ…別に」
「そうですか…」
明らかに怪訝そうな顔。
ただでさえ厄介な“後輩”という存在に対し、第一印象を損なってしまった責任は取ってもらわなければ、と画面の向こうに理不尽な念を送った。