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[Theme 01]1年生編

23

「すげ」

個人の自宅ではなかなか見かけないその光景に、素直に驚く。
広い部屋はグランドピアノを置いても尚ゆとりがあり、壁際の大きな棚にはレコードやCDがびっしりと並んでいた。

そして、ピアノの傍らには小さなテーブルと、正月のあの日はるかが抱えていたキーボードが置かれていた。

「なんでまたわたしの部屋じゃなくてここに…」

ぽつりと呟きながら、はるかがテーブルの上に積まれた本を脇へ寄せていく。
その中には電車の中で見せてくれたあの本もあった。
寄せるだけでは足りず、床にも積み重ねられていく。
よく見ればそこにあるのはどれもピアノの教則本で、あれからもうこんなにも数をこなしてきたのかと、唖然としてしまった。

「ごめんね、散らかってて。本棚空いてないから…」

なんとか見えた天板に、飲みかけのまま持ってきたコーヒーカップを並べる。
そのままはるかは座ったので、瑛もそれに続いた。

「この部屋、お父さんが高校生の時につくったんだって」

その言葉につられて、もう一度部屋を見渡す。

「ピアノ教室だけじゃなくて、家でも弾きたいからって。もともとの自分の部屋も、おじいちゃんとおばあちゃんの部屋も、2階全部ぶち抜いて。防音もすごい大変だったのに、“グランドピアノじゃなきゃ嫌!”って。とんでもないよね」
「それは…とんでもねえな」
「ね。なのにこの部屋を使ったのは、たった1年だったらしいよ。師匠に出会って、高校を中退してその人について行っちゃったの」

次々と耳を疑う情報が飛び込んでくるが、なぜかすんなりと受け入れられた。
棚に並んだレコードやCDはどう見ても年季が入っていて、グランドピアノにも経年だけでない使用感が漂っている。
つまりたった1年でも、そのうちの尋常でない時間と熱量をピアノに注ぎ込んでいたはずだ。

高校生。
自分と同じような年齢で、はるかの父親はその瞳に何を映し、その指でどんな音を奏でていたのだろうか。

そして、その血を受け継ぐはるかは今、どの地点に立っているのか。

「練習、見せてもらってもいい…?」

ぴくり、と肩が跳ねた。

コーヒーカップに添えられた手が震える。

そこに自分の手を重ねて、はるかの瞳を見た。

「…わかった」

小さく、だけどしっかりと頷いたはるかは一度立ち上がって、キーボードの前へと椅子をずらした。

ゆっくりと腰を下ろすと、震えたままの指が、鍵盤へと向かう。

深く息を吐いて、少しの静寂のあと。



その姿に、呼吸すらも奪われた。

震える指を無理やり動かすように、全身に力が入っているのが後ろから見ていても分かる。
それでも部屋に広がる音は、やわらかく澄んでいた。
およそ“ピアノが弾けない”という言葉からは想像がつかないような、少なくとも演奏技術の良し悪しが分からない瑛からするとどう見ても何の問題もなく聴こえる、そんな演奏。

──だけど、あの少女の音を知っているから。

小さな身体いっぱいの熱量を爆発させるような、広い鍵盤をもってしても足りないと叫ぶような、あの音を。

今のはるかはまるで、翼を捥がれ、がんじがらめに縛り付けられた小鳥のようで、胸が突き刺されるように痛んだ。

それでもここまで来るのに、どれだけの思いをしてきたことだろう。

あの時よりは背が伸びたけれど、自分よりはずいぶん小さくなった背中に、思わず手を伸ばす。

しかしその手はそのまま空を切った。

今触れるのは、許されない気がした。


そうして何度か聞き覚えのあるフレーズが繰り返されたあと、突如としてその音は途絶えてしまった。


弾かれたようにはるかの手が鍵盤を離れ、震えを通り越して痙攣を起こしている。
今度は迷わず手を伸ばした。

「はるか」

額に汗を滲ませ、ぎゅっと目を瞑ったはるかを抱きしめ、名前を呼ぶ。

「…アドリブが、もう全然ダメでね…」

少しずつ落ち着きを取り戻したはるかが、ゆっくりと口を開いた。

「いや、まあ、それ以前にいろいろと問題しかないんだけど…」
「アドリブ…?」
「うん…今弾いたような、楽譜にある部分が、テーマ。だいたいはそれをみんなで一緒に演奏したあと、その構成に沿ってそれぞれがアドリブ…即興の演奏をしていくの」
「じゃあ…ジャズの曲って全部即興ってこと?」
「全部、ではないけど…だいたいはそう、って言っていいのかな…?」

首を傾げながら答えるはるかは、概ねいつも通りだった。
震えの止まった指に安堵する。

「テーマは、なぞるだけならなんとか。ひどいもんだけど…でも、アドリブは御覧の有様」
「…そうか」
「あの頃どうやって弾いてたんだろう。わかんないや」

──たのしかったのにな。

あまりに哀しい声だった。

「今日も月にはいけませんでした!」
「…え…?」
「Fly Me To The Moonっていうの、この曲。瑛くんのこと、月に連れて行ってあげたかったな」

打って変わって悔しそうにして、はるかは笑った。
その瞳は潤んで、ゆらゆらと揺れているくせに。



そのあとまたリビングに戻って、はるかが予め用意していた夕食をみんなで囲んだ。
はるかの祖父母は、まるで瑛がそこにいることが当たり前のように、拍子抜けするほど自然に接してくれた。
無条件で包んでくれるような、そんな雰囲気もまさにはるかにそっくりだった。
はるか“が”そっくりだと言うのが正しいかもしれないけれど。

「またね、瑛くん。はるちゃんをウォルラス選手の奥さんにしてね」

にこにこととんでもないことを言ってのける老紳士には、最後までたじろいでしまった。
野球自体にはそこまで詳しくないようだが、贔屓は自分と一緒らしい。

「ちょっと!瑛くんのことは、ハリアーズのフロントが絶対に見つけますからっ」
「…そこ?」
「じゃあちょっとお見送りしてくるね!」

シャツのボタンが閉まらなかった時はどうなることかと思ったが、祖父母への挨拶は成功と言って良いだろう。
日が沈んだあとの空は、真冬に比べるとずいぶん明るくなったように思う。

「…ありがとな。いろいろと。飯もごちそうさん」
「ふふ。こちらこそ、いろいろとお粗末様でした。ほんとに」

ぺこりとお辞儀をして見せたはるかはもうすっかり元気だ。
その強かさが、脆さがいとおしくて、キスの一つでもすればよかったと後悔する。
だけどやっぱり、あの部屋でそんなことをする気にはなれないなとも思った。

「もうすぐ瑛くんも2年生だねえ」

先ほどの瑛のように空を見上げながら、はるかが言った。

「…ああ、そうだな」
「先輩になるの、楽しみ?いじめちゃダメだよ」

ゆるりと弧を描く瞳。
そこにもまた、カナリアの写真が重なる。

「いじめねえよ…あのさ、」
「うん?」
「春休み、一緒に蔵崎帰んねえ?」

はるかの家から見て死角になるような位置で、そっと手を繋ぐ。
もっとも、あのふたりは窓の外を覗いたりなどしていないだろうけど。

「…それはつまり、お父さんに…?」
「まあ、それもあるけど」

はるかは少し考えを巡らせていて、含みを持たせた物言いは耳に入らなかったようだ。

「正直ちょっと不安だけど…あ、お父さんがってことじゃなくて、あの街に行くことがね。でも、瑛くんといっしょなら。いいよ」

ああ本当に、この子は強い。

──はるちゃんをウォルラス選手の奥さんにしてね

なるほどね、なんて思うくらいには、自分も肝が据わってきたのかもしれない。


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■Fly Me To The Moon/Bart Howard
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