[Theme 01]1年生編
22
梢を飾る蕾が開くにはまだ遠く、まだ少し肌寒い風が吹き抜けていくグラウンドは、いつにも増して賑やかだった。
晴れやかでいて、やはりどこか寂寥が滲むような表情を浮かべ、制服姿で立ち並ぶ3年生たちの姿。
ユニフォームや練習着姿の方が圧倒的に見慣れていたものだから、何だか不思議な感覚がしてしまう。
暑さも序盤のうちに幕切れとなってしまった彼らの夏、そして球児としての日々。
引退後は寮を出て自宅に戻る者も多く、1年生の瑛にとって彼らと過ごした時間はあまり多くなかった。
それでも、あくまで笑顔で自分たちに言葉をかけるその姿には、すぐには言語化できないような感情がこみ上げてきた。
「拓!」
瑛の隣にいた拓真に声をかけたのは、前主将。
対峙した二人はしばらく黙ったまま、どちらからともなく握手を交わした。
傍から眺めていてもわかる、力強い握手だった。
「お前たちは、もっと長く、ここで戦うんだぞ」
その言葉に、拓真や瑛だけでなく全員が息を呑む。
「俺らみたいにたっぷり受験勉強なんてするんじゃないぞ!」
「そうだぞ!お前らはギリギリで苦しめ!」
四六時中白球を追いかけては、絶えず絞り出していた彼らの声がこの場所に木霊することは、もうない。
去り行く背中が見えなくなるまで見送ったあと、瑛は足元の土をじっと見つめていた。
「…まずいな」
いつもならば練習着に袖を通す時間に、瑛はシャツのボタンを見下ろして声を漏らした。
「パツパツだな」
机から顔を上げた拓真も頷いた。
入学試験の真っ最中、部活はおろか自主練さえも禁じられたこの期間。
はるかの祖父母に会うべく、入寮から開封すらしていなかった私服のダンボールから襟のついたシャツを引っ張り出したものの、ボタンが閉まらないのである。
正確に言うと閉まりはするが、無理に引っ張られた布地がかなり不格好だ。
もともと長身な瑛は制服や練習着がサイズアウトする心配はしていなかったが、筋肉というものは予想以上に嵩張ることを知った。
おかげで入学時に用意したワイシャツは早々に脱落、父親の助言で一応大き目にしておいたブレザーや練習着も1年と経たずにジャストサイズとなり、このままいくと買い直しの可能性もある。
ましてや入学以来一度も着ることのなかった、ジャージ以外の私服ともなれば、違和感なく着られるものを探す方が困難だった。
かといって制服で出向くのも違う気がする。はるかもきっと私服だろう。
結局生き残ったのは軽い自主練の時にも着ているパーカーくらいで、鏡の中のあまりにいつも通りな自分に溜め息がこぼれる。
「それでいいんじゃないか。お前は清潔感があるし、決してだらしない印象にはならないはずだ」
「…あざす」
何も話していないはずの拓真が見透かしたように微笑んでいるのは気にしないことにして、部屋を出た。
「あ、瑛くん。こんにちは」
学校からもはるかの家からも程近いコンビニで瑛を待っていたはるかは、シンプルなワンピースにあたたかそうなカーディガンを羽織っていた。
片手にぶら下がったマイバッグからは牛乳パックが顔を出している。
それが何だか間抜けに見えて、喉元でムズムズしていた緊張感が少し和らいだ。
「高校生になってから、私服で会うのははじめてだね」
そんなことを言うから、また別の緊張が沸き上がる。
「とか言って、わたしはほとんど部屋着だけどね。でも、瑛くんに会うから…ちょっとだけ気合い入れちゃった」
「…殺す気?」
「えっ!?」
うろたえるはるかの手元でかさりと音を立てたマイバッグを奪って、身を翻す。
次の一歩を踏み出す前に、もう一度はるかに振り返った。
「かわいい」
「は…」
「俺は、まともに入るのこれしかなかったわ」
短く息を吐いたままのはるかの頬がみるみる赤くなっていくのを見ると、やっぱり言ってよかったなと実感した。
いつもなら──“いつも”というほどここへは来ていないけれど──別れの目印である街灯をふたりで通り過ぎ、明るいブラウンの屋根を見上げたところではるかが足を止めた。
「それじゃあ、行きますか」
小さな手がドアノブを引く前に、その扉は開かれた。
「おかえり、はるちゃん」
穏やかな瞳がはるかを出迎えたあと、瑛を映した。
「はじめまして、どうぞいらっしゃい」
一見、外国人かと見紛うほどの彫りの深い目元に、すっきりと通った鼻筋。
その笑みに漂う気品は、どこか浮世離れした印象を受けた。
「びっくりした、おじいちゃんそこで待ってたの?」
「いや、帰ってきたような気がしてね」
「はるちゃんたち着いたの?あら、こんにちは」
奥から顔を覗かせた女性は、これまたかわいらしい笑顔でふたりを出迎えてくれた。
カナリアに飾られた写真で見た顔を思い出す。
はるかは父方に似たんだなと、何となく想像した。
「日坂 瑛と申します。えっと…年明けくらいから、はるかさんとお付き合いさせていただいてます」
リビングのテーブルで、瑛は軽く頭を下げた。
「蔵崎 の頃から、お友達だったのよね?」
それは、はるかと瑛が幼い日々を過ごした街の名前。
「…はい。今年の春から鷺嶋に来て、はるかさんと再会しました」
「まあ、なんだかドラマみたいね!今はひとりで?」
「はい、寮に入ってます。父親は蔵崎にいます」
「そう。寂しくない?」
ぽんぽんとキャッチボールのように会話を続けていると、はるかがコーヒーを運んできた。
「お砂糖とミルクいる?あ、おじいちゃんお砂糖は半分だけね!」
「しゅん…」
「かわいい顔してもダメだよ」
相変わらずはっとするほどの美貌をたたえる老紳士が、しおらしい顔で甘えるような視線を向けてきた。
男の瑛でも思わずどきりとしてしまう。
「あっ、瑛くんに甘えてる。ふふ」
「あ、えっと…」
「瑛君、野球部なんだって?キャッチャー?」
しおらしい表情から一転、興味津々といった面持ちで尋ねられた。
脳内で、はるかの推し選手がガッツポーズをしてくる。
「…ショートです」
思わず苦々しい表情をしてしまった。
「ショートっていうと?」
「んとね、主に二塁と三塁の間の人。ウォルラスだと最近は泉田さんとか」
「ああ!」
「瑛くんすごいんだよ!捕球姿勢に入った瞬間、アウトを確信する…きっとそんな選手になるね」
「言い過ぎ…」
拳を握って語るはるかに呆れたような、照れたような視線を送る。
はるかは“言い過ぎじゃない!”と、爛々とした視線を返してきた。
「…せっかくだから、洋ちゃんの部屋でお話ししてきたら?」
「え?」
先ほどから話題転換のスピードに思考が置いていかれそうだ。
ころころ変わる表情も相まって、掴めない人だと思った。
「そうねえ。忙しい中来てくれたのに、じいさんばあさんの話し相手じゃかわいそうだわ」
「おじいちゃんとおばあちゃんに会いに来てくれたんだよ?」
「まあまあ。はるちゃんが普段過ごしている場所を見てもらうのもいいんじゃない?」
「…見てない間にお菓子食べちゃダメだからね!」
「しゅん…」
かくして、瑛ははるかに連れられて階段を昇った。
その先で待っていたのは、他の部屋とは違う重厚な扉。
はるかがそこを開けると、大きなグランドピアノが鎮座していた。
梢を飾る蕾が開くにはまだ遠く、まだ少し肌寒い風が吹き抜けていくグラウンドは、いつにも増して賑やかだった。
晴れやかでいて、やはりどこか寂寥が滲むような表情を浮かべ、制服姿で立ち並ぶ3年生たちの姿。
ユニフォームや練習着姿の方が圧倒的に見慣れていたものだから、何だか不思議な感覚がしてしまう。
暑さも序盤のうちに幕切れとなってしまった彼らの夏、そして球児としての日々。
引退後は寮を出て自宅に戻る者も多く、1年生の瑛にとって彼らと過ごした時間はあまり多くなかった。
それでも、あくまで笑顔で自分たちに言葉をかけるその姿には、すぐには言語化できないような感情がこみ上げてきた。
「拓!」
瑛の隣にいた拓真に声をかけたのは、前主将。
対峙した二人はしばらく黙ったまま、どちらからともなく握手を交わした。
傍から眺めていてもわかる、力強い握手だった。
「お前たちは、もっと長く、ここで戦うんだぞ」
その言葉に、拓真や瑛だけでなく全員が息を呑む。
「俺らみたいにたっぷり受験勉強なんてするんじゃないぞ!」
「そうだぞ!お前らはギリギリで苦しめ!」
四六時中白球を追いかけては、絶えず絞り出していた彼らの声がこの場所に木霊することは、もうない。
去り行く背中が見えなくなるまで見送ったあと、瑛は足元の土をじっと見つめていた。
「…まずいな」
いつもならば練習着に袖を通す時間に、瑛はシャツのボタンを見下ろして声を漏らした。
「パツパツだな」
机から顔を上げた拓真も頷いた。
入学試験の真っ最中、部活はおろか自主練さえも禁じられたこの期間。
はるかの祖父母に会うべく、入寮から開封すらしていなかった私服のダンボールから襟のついたシャツを引っ張り出したものの、ボタンが閉まらないのである。
正確に言うと閉まりはするが、無理に引っ張られた布地がかなり不格好だ。
もともと長身な瑛は制服や練習着がサイズアウトする心配はしていなかったが、筋肉というものは予想以上に嵩張ることを知った。
おかげで入学時に用意したワイシャツは早々に脱落、父親の助言で一応大き目にしておいたブレザーや練習着も1年と経たずにジャストサイズとなり、このままいくと買い直しの可能性もある。
ましてや入学以来一度も着ることのなかった、ジャージ以外の私服ともなれば、違和感なく着られるものを探す方が困難だった。
かといって制服で出向くのも違う気がする。はるかもきっと私服だろう。
結局生き残ったのは軽い自主練の時にも着ているパーカーくらいで、鏡の中のあまりにいつも通りな自分に溜め息がこぼれる。
「それでいいんじゃないか。お前は清潔感があるし、決してだらしない印象にはならないはずだ」
「…あざす」
何も話していないはずの拓真が見透かしたように微笑んでいるのは気にしないことにして、部屋を出た。
「あ、瑛くん。こんにちは」
学校からもはるかの家からも程近いコンビニで瑛を待っていたはるかは、シンプルなワンピースにあたたかそうなカーディガンを羽織っていた。
片手にぶら下がったマイバッグからは牛乳パックが顔を出している。
それが何だか間抜けに見えて、喉元でムズムズしていた緊張感が少し和らいだ。
「高校生になってから、私服で会うのははじめてだね」
そんなことを言うから、また別の緊張が沸き上がる。
「とか言って、わたしはほとんど部屋着だけどね。でも、瑛くんに会うから…ちょっとだけ気合い入れちゃった」
「…殺す気?」
「えっ!?」
うろたえるはるかの手元でかさりと音を立てたマイバッグを奪って、身を翻す。
次の一歩を踏み出す前に、もう一度はるかに振り返った。
「かわいい」
「は…」
「俺は、まともに入るのこれしかなかったわ」
短く息を吐いたままのはるかの頬がみるみる赤くなっていくのを見ると、やっぱり言ってよかったなと実感した。
いつもなら──“いつも”というほどここへは来ていないけれど──別れの目印である街灯をふたりで通り過ぎ、明るいブラウンの屋根を見上げたところではるかが足を止めた。
「それじゃあ、行きますか」
小さな手がドアノブを引く前に、その扉は開かれた。
「おかえり、はるちゃん」
穏やかな瞳がはるかを出迎えたあと、瑛を映した。
「はじめまして、どうぞいらっしゃい」
一見、外国人かと見紛うほどの彫りの深い目元に、すっきりと通った鼻筋。
その笑みに漂う気品は、どこか浮世離れした印象を受けた。
「びっくりした、おじいちゃんそこで待ってたの?」
「いや、帰ってきたような気がしてね」
「はるちゃんたち着いたの?あら、こんにちは」
奥から顔を覗かせた女性は、これまたかわいらしい笑顔でふたりを出迎えてくれた。
カナリアに飾られた写真で見た顔を思い出す。
はるかは父方に似たんだなと、何となく想像した。
「日坂 瑛と申します。えっと…年明けくらいから、はるかさんとお付き合いさせていただいてます」
リビングのテーブルで、瑛は軽く頭を下げた。
「
それは、はるかと瑛が幼い日々を過ごした街の名前。
「…はい。今年の春から鷺嶋に来て、はるかさんと再会しました」
「まあ、なんだかドラマみたいね!今はひとりで?」
「はい、寮に入ってます。父親は蔵崎にいます」
「そう。寂しくない?」
ぽんぽんとキャッチボールのように会話を続けていると、はるかがコーヒーを運んできた。
「お砂糖とミルクいる?あ、おじいちゃんお砂糖は半分だけね!」
「しゅん…」
「かわいい顔してもダメだよ」
相変わらずはっとするほどの美貌をたたえる老紳士が、しおらしい顔で甘えるような視線を向けてきた。
男の瑛でも思わずどきりとしてしまう。
「あっ、瑛くんに甘えてる。ふふ」
「あ、えっと…」
「瑛君、野球部なんだって?キャッチャー?」
しおらしい表情から一転、興味津々といった面持ちで尋ねられた。
脳内で、はるかの推し選手がガッツポーズをしてくる。
「…ショートです」
思わず苦々しい表情をしてしまった。
「ショートっていうと?」
「んとね、主に二塁と三塁の間の人。ウォルラスだと最近は泉田さんとか」
「ああ!」
「瑛くんすごいんだよ!捕球姿勢に入った瞬間、アウトを確信する…きっとそんな選手になるね」
「言い過ぎ…」
拳を握って語るはるかに呆れたような、照れたような視線を送る。
はるかは“言い過ぎじゃない!”と、爛々とした視線を返してきた。
「…せっかくだから、洋ちゃんの部屋でお話ししてきたら?」
「え?」
先ほどから話題転換のスピードに思考が置いていかれそうだ。
ころころ変わる表情も相まって、掴めない人だと思った。
「そうねえ。忙しい中来てくれたのに、じいさんばあさんの話し相手じゃかわいそうだわ」
「おじいちゃんとおばあちゃんに会いに来てくれたんだよ?」
「まあまあ。はるちゃんが普段過ごしている場所を見てもらうのもいいんじゃない?」
「…見てない間にお菓子食べちゃダメだからね!」
「しゅん…」
かくして、瑛ははるかに連れられて階段を昇った。
その先で待っていたのは、他の部屋とは違う重厚な扉。
はるかがそこを開けると、大きなグランドピアノが鎮座していた。