[Theme 01]1年生編
18
少し暑いくらいの車内に、ことことと小気味良い音が響く。
途中の駅でごっそりと乗客がいなくなり、瑛とはるかは座席に並んで腰を下ろした。
「…それ、何?」
はるかが乗り込んできた時から抱えていた、やけに大きな荷物を見ながら尋ねる。
「あ、これは…キーボードだよ。さっき買ったの」
「へえ…?」
「いろいろ試してみようと思って。鍵盤の蓋を開けられないなら、最初から蓋がなければいいんじゃないかとか。そしたら一応、触れた」
はるかの言葉に、鼓動が跳ねる。
「だから、これから“再構築”をしてみようかなって」
「“再構築”?」
「うん。野球の、イップスのことを調べてみたの」
「イップスって…」
予想外の言葉が出て驚いた。
ボールを投げるような動作をしながら、はるかは続けた。
なぜかサイドスローだった。
「ピアノでもイップスって言葉は使うんだけどね?野球の場合の対処法で、“再構築”っていう言葉がよく出てきて…フォームを一から作り直す。基礎の基礎からやり直す。そんなふうに書いてあった」
「へえ…」
「だからね…ててん!」
おもむろにカバンから取り出して見せたのは、小さな本、というより冊子に近い何か。
かわいらしい動物の絵とともに、ひらがなで“ぴあの”と書かれていた。
「思いっきり“幼児版”って書いてあるけど…?」
「そう!わたしちゃんとこういうのやったことないから、改めてここからはじめてみるのもいいんじゃないかって思ったの」
小学校で出会った時よりも前から、あのジャズ喫茶──カナリアでセッションに混ざっていたというはるか。
ピアノは教室に通うでもなく、父親の見様見真似で覚えたと当時聞いたのを思い出した。
本をパラパラとめくってみると、絵と同じ指を出せとか、そんなレベルのことまで書かれてあった。
まさに“天才”としか言いようのない才能を持ち、幼くして海さえ越えたような人間に、こんなことができるものだろうか。
どれほどの葛藤と、決意でこの一冊を手に取ったのか。
ぐ、と胸にこみ上げる何かとともに、言葉が転がり出ていった。
「…あのさ」
「うん?」
声をかけると必ず目を見てくれる。
そんなはるかに、瑛もしっかりと目線を合わせた。
「この間はごめん」
あの日のはるかの表情は、思い出す度胸がえぐれるようだった。
「…俺は、たぶんあの頃から、はるかと、はるかのピアノと、野球と。それだけが世界のすべてだった」
だからはるかがいなくなったあの町で、野球だけをやってきた。
いつか、いつかまたはるかのそばで、はるかのピアノを聴ける日を信じて。
はるかと再会して、もう二度と離したくないと思った。
それは、自分の知らないところで苦しみ、戦ってきたはるかを、もうひとりにしたくないという思いでもあり。
自分自身が、はるかがいない日々にもう戻りたくない、という思いでもあった。
だけど再会してから、ふたりを取り巻く環境はあの頃とはあまりに変わってしまっていた。
一番は、はるかがピアノを弾かないこと。
それから、はるかがピアノと自分以外に、広い世界を持っていること。
自分の知らないはるかのことを、多くの人が知っていること。
そのすべてがはるかを、自分の手の届かないところへさらっていってしまいそうで、怖かった。
繋ぎ止めようとして、はるかに触れていようと必死だった。
そのくせ、はるかはきっとそんな自分を許してくれるはずだと、心のどこかで甘えきっていた。
「俺だけを、見て欲しかったんだ。だから、あんなことをした」
他人が勝手に当てはめようとする言葉なんて、あまりに軽薄すぎると思っていたけれど。
「はるかが好きなんだ」
あの頃から。
そして、あの頃よりもずっと。
それも、確かに自分の気持ちに間違いはなかった。
「…え、」
長い沈黙のあと、はるかが声を漏らした。
「え…え…?」
みるみるうちに顔は真っ赤になり、面白いほど目が泳いでいる。
「…え…?」
思いもよらない反応に、瑛も同じように声を漏らした。
「わたし、わたし、は…」
「うん?」
落ち着かないはるかに、努めてやさしく促す。
「わたしは…瑛くんは、わたしのことを、あの時のまんまだと思ってるんだろうなって、思ってて」
「…うん」
「だから小さい子にするみたいに触れるし、わたしを心配して、しょっちゅう会いに来てくれるんだろうなって…」
「んん…?」
「でも、わたしはそれに、ドキドキしちゃうから…それじゃ、ずるいよなあって、悩んでたの」
瑛がそんなふうに接するのは、どうも自分にだけだと気付いてから。
びっくりするほど大きくなって、頼もしくなった瑛は、いつまでも時が止まったままの自分を守ろうとしてくれているのに、それに邪な気持ちを抱くのはいかがなものかと葛藤していた。
だから、強くなれるよう、前に進めるよう誠心誠意努力するとして。
「瑛くんにも、わたしがお姉さんなんだぞ!ってとこを見せて、小さい子みたいな扱いはやめていただこうかと…」
「…」
「それであの日、ちょうど教室で瑛くんに会えたから。ここぞとばかりに先輩ムーブをやってみたつもりだったんだけど…」
「…は…?」
「そしてらあんなことになって、もう脳がバグりまくっちゃって…」
はるかは赤くなりすぎて、もはや泣いてしまいそうだ。
「やっぱり幻のホームランが相当ショックで、気が動転してるのかなって、思うことにしたの」
「…」
「だから、去り際も必死で強がってしまいました…」
はるかの話を頭の中で整理して、大きく息を吐いた。
そしてその後、もう笑いさえこみ上げてくる。
「あ、呆れてる…?」
はるかは恐る恐る、といった様子で瑛を見上げていた。
──言葉足らずですれ違うのは、悲しいしもったいないですよ
店主の穏やかな声に、心の中で頷いた。
「…ドキドキ、するんだ?」
「あ…えっと、?」
肩と肩の間、ほんのわずかに開いていた隙間を、いよいよゼロにして。
所在なさげに彷徨う小さな手に、指を絡めて。
「“邪な気持ち”って、なぁに?」
甘えるように尋ねると、はるかが息を呑んだ。
かわいそうなほど泳いでいた瞳は、いっそ吹っ切れてしまったのか、もう一度まっすぐに瑛をとらえた。
「好きです。瑛くんのことが」
少し震えていたけれど、あたたかくて、それでいて芯の通った、大好きな声だった。
「…いや、“先輩ムーブ”って」
「だ、だって!瑛くんに勝てることなんて学年くらいしかないし…それならそれでゴリ押しするしかないじゃん!いくら去年は自分のクラスだったとはいえ、ほかの教室に入るなんてすっごい緊張したけど…わたし頑張ったんだよ!?」
「勘弁してくれ、腹いてえ」
「もう!…みんな、わたしのこと“お姉ちゃんみたい”って言うけどさ。逆だよ…わたしからしたら」
拗ねたように視線を反らして、はるかは呟いた。
「あれだけ大口叩いてアメリカに行ったのに…瑛くんがどんどんリトルで活躍していく一方で、ピアノが好き、楽しいってだけじゃやっていけないんだなって思い知ったり…」
「え…?」
「試合は観に行けなくても、チームのブログでメンバーと結果は必ずチェックしてたし、新聞に載った時は瑛くんのお父さんから送ってもらってたんだ」
「はあっ!?」
あまりの発言に腹から飛び出した声。
車両に誰もいないことが幸いであり、それ以前にここまでの会話もこんなシチュエーションでするにはなかなかにリスキーだったと今更ながら思った。
「父さんそんなこと、一言も…ていうか、見ていてくれてたんだな」
「うん!ただ…あの事故があってからは、気持ちに余裕がなかったのと…やっぱりとても触れられなかった」
「…」
「歩みを止めてしまったわたしと、きっとこれからも未来に向かっていく瑛くんとの間で広がっていく距離。そこから、目を背けていたの」
瑛は繋いでいたままの手を引き寄せて、はるかを腕の中に閉じ込めた。
するとすぐに、はるかはもぞもぞと顔を上げる。
「…それでも、そんなわたしの弱さごと、こんなふうに包んでくれる瑛くんに、ずるいけど甘えてしまいたくなっちゃったんだ」
──ああ、こいつは、本当に。
「俺はお前の時が止まっているとも、それだから守ってやらなきゃいけないとも、思ってないけど?」
「…え…?」
「言ったろ、必死だって。お前は俺の知らないとこで苦しんで、知らないとこでもう前を向こうとしてたんだから」
「…そう、なのかな…?」
「そうなんだよ。だから…お互い勝手にあれこれ考え過ぎてたってことだろ」
未だふわふわと思考を漂わせている面持ちのはるかに、今更気恥ずかしくなりながらも。
「とりあえず結論として、俺たちはお互い好きってこと」
はるかの顔が、またしても真っ赤になった。
「そっか。そうなんだ、ね…」
「そ。んでさ…俺とはるかは何なんだって、やたら聞かれんだけどさ」
「うん?」
「それ、今度から…カノジョって、答えていいんだよな?」
なんとも間の悪いところで、アナウンスが鳴り響いて。
ふたりが降り立つべきホームへと、扉が開かれる。
「そ、それは、時と場合によります…!」
我に返ったはるかが叫ぶのを笑いながら、電車を降りた。
少し暑いくらいの車内に、ことことと小気味良い音が響く。
途中の駅でごっそりと乗客がいなくなり、瑛とはるかは座席に並んで腰を下ろした。
「…それ、何?」
はるかが乗り込んできた時から抱えていた、やけに大きな荷物を見ながら尋ねる。
「あ、これは…キーボードだよ。さっき買ったの」
「へえ…?」
「いろいろ試してみようと思って。鍵盤の蓋を開けられないなら、最初から蓋がなければいいんじゃないかとか。そしたら一応、触れた」
はるかの言葉に、鼓動が跳ねる。
「だから、これから“再構築”をしてみようかなって」
「“再構築”?」
「うん。野球の、イップスのことを調べてみたの」
「イップスって…」
予想外の言葉が出て驚いた。
ボールを投げるような動作をしながら、はるかは続けた。
なぜかサイドスローだった。
「ピアノでもイップスって言葉は使うんだけどね?野球の場合の対処法で、“再構築”っていう言葉がよく出てきて…フォームを一から作り直す。基礎の基礎からやり直す。そんなふうに書いてあった」
「へえ…」
「だからね…ててん!」
おもむろにカバンから取り出して見せたのは、小さな本、というより冊子に近い何か。
かわいらしい動物の絵とともに、ひらがなで“ぴあの”と書かれていた。
「思いっきり“幼児版”って書いてあるけど…?」
「そう!わたしちゃんとこういうのやったことないから、改めてここからはじめてみるのもいいんじゃないかって思ったの」
小学校で出会った時よりも前から、あのジャズ喫茶──カナリアでセッションに混ざっていたというはるか。
ピアノは教室に通うでもなく、父親の見様見真似で覚えたと当時聞いたのを思い出した。
本をパラパラとめくってみると、絵と同じ指を出せとか、そんなレベルのことまで書かれてあった。
まさに“天才”としか言いようのない才能を持ち、幼くして海さえ越えたような人間に、こんなことができるものだろうか。
どれほどの葛藤と、決意でこの一冊を手に取ったのか。
ぐ、と胸にこみ上げる何かとともに、言葉が転がり出ていった。
「…あのさ」
「うん?」
声をかけると必ず目を見てくれる。
そんなはるかに、瑛もしっかりと目線を合わせた。
「この間はごめん」
あの日のはるかの表情は、思い出す度胸がえぐれるようだった。
「…俺は、たぶんあの頃から、はるかと、はるかのピアノと、野球と。それだけが世界のすべてだった」
だからはるかがいなくなったあの町で、野球だけをやってきた。
いつか、いつかまたはるかのそばで、はるかのピアノを聴ける日を信じて。
はるかと再会して、もう二度と離したくないと思った。
それは、自分の知らないところで苦しみ、戦ってきたはるかを、もうひとりにしたくないという思いでもあり。
自分自身が、はるかがいない日々にもう戻りたくない、という思いでもあった。
だけど再会してから、ふたりを取り巻く環境はあの頃とはあまりに変わってしまっていた。
一番は、はるかがピアノを弾かないこと。
それから、はるかがピアノと自分以外に、広い世界を持っていること。
自分の知らないはるかのことを、多くの人が知っていること。
そのすべてがはるかを、自分の手の届かないところへさらっていってしまいそうで、怖かった。
繋ぎ止めようとして、はるかに触れていようと必死だった。
そのくせ、はるかはきっとそんな自分を許してくれるはずだと、心のどこかで甘えきっていた。
「俺だけを、見て欲しかったんだ。だから、あんなことをした」
他人が勝手に当てはめようとする言葉なんて、あまりに軽薄すぎると思っていたけれど。
「はるかが好きなんだ」
あの頃から。
そして、あの頃よりもずっと。
それも、確かに自分の気持ちに間違いはなかった。
「…え、」
長い沈黙のあと、はるかが声を漏らした。
「え…え…?」
みるみるうちに顔は真っ赤になり、面白いほど目が泳いでいる。
「…え…?」
思いもよらない反応に、瑛も同じように声を漏らした。
「わたし、わたし、は…」
「うん?」
落ち着かないはるかに、努めてやさしく促す。
「わたしは…瑛くんは、わたしのことを、あの時のまんまだと思ってるんだろうなって、思ってて」
「…うん」
「だから小さい子にするみたいに触れるし、わたしを心配して、しょっちゅう会いに来てくれるんだろうなって…」
「んん…?」
「でも、わたしはそれに、ドキドキしちゃうから…それじゃ、ずるいよなあって、悩んでたの」
瑛がそんなふうに接するのは、どうも自分にだけだと気付いてから。
びっくりするほど大きくなって、頼もしくなった瑛は、いつまでも時が止まったままの自分を守ろうとしてくれているのに、それに邪な気持ちを抱くのはいかがなものかと葛藤していた。
だから、強くなれるよう、前に進めるよう誠心誠意努力するとして。
「瑛くんにも、わたしがお姉さんなんだぞ!ってとこを見せて、小さい子みたいな扱いはやめていただこうかと…」
「…」
「それであの日、ちょうど教室で瑛くんに会えたから。ここぞとばかりに先輩ムーブをやってみたつもりだったんだけど…」
「…は…?」
「そしてらあんなことになって、もう脳がバグりまくっちゃって…」
はるかは赤くなりすぎて、もはや泣いてしまいそうだ。
「やっぱり幻のホームランが相当ショックで、気が動転してるのかなって、思うことにしたの」
「…」
「だから、去り際も必死で強がってしまいました…」
はるかの話を頭の中で整理して、大きく息を吐いた。
そしてその後、もう笑いさえこみ上げてくる。
「あ、呆れてる…?」
はるかは恐る恐る、といった様子で瑛を見上げていた。
──言葉足らずですれ違うのは、悲しいしもったいないですよ
店主の穏やかな声に、心の中で頷いた。
「…ドキドキ、するんだ?」
「あ…えっと、?」
肩と肩の間、ほんのわずかに開いていた隙間を、いよいよゼロにして。
所在なさげに彷徨う小さな手に、指を絡めて。
「“邪な気持ち”って、なぁに?」
甘えるように尋ねると、はるかが息を呑んだ。
かわいそうなほど泳いでいた瞳は、いっそ吹っ切れてしまったのか、もう一度まっすぐに瑛をとらえた。
「好きです。瑛くんのことが」
少し震えていたけれど、あたたかくて、それでいて芯の通った、大好きな声だった。
「…いや、“先輩ムーブ”って」
「だ、だって!瑛くんに勝てることなんて学年くらいしかないし…それならそれでゴリ押しするしかないじゃん!いくら去年は自分のクラスだったとはいえ、ほかの教室に入るなんてすっごい緊張したけど…わたし頑張ったんだよ!?」
「勘弁してくれ、腹いてえ」
「もう!…みんな、わたしのこと“お姉ちゃんみたい”って言うけどさ。逆だよ…わたしからしたら」
拗ねたように視線を反らして、はるかは呟いた。
「あれだけ大口叩いてアメリカに行ったのに…瑛くんがどんどんリトルで活躍していく一方で、ピアノが好き、楽しいってだけじゃやっていけないんだなって思い知ったり…」
「え…?」
「試合は観に行けなくても、チームのブログでメンバーと結果は必ずチェックしてたし、新聞に載った時は瑛くんのお父さんから送ってもらってたんだ」
「はあっ!?」
あまりの発言に腹から飛び出した声。
車両に誰もいないことが幸いであり、それ以前にここまでの会話もこんなシチュエーションでするにはなかなかにリスキーだったと今更ながら思った。
「父さんそんなこと、一言も…ていうか、見ていてくれてたんだな」
「うん!ただ…あの事故があってからは、気持ちに余裕がなかったのと…やっぱりとても触れられなかった」
「…」
「歩みを止めてしまったわたしと、きっとこれからも未来に向かっていく瑛くんとの間で広がっていく距離。そこから、目を背けていたの」
瑛は繋いでいたままの手を引き寄せて、はるかを腕の中に閉じ込めた。
するとすぐに、はるかはもぞもぞと顔を上げる。
「…それでも、そんなわたしの弱さごと、こんなふうに包んでくれる瑛くんに、ずるいけど甘えてしまいたくなっちゃったんだ」
──ああ、こいつは、本当に。
「俺はお前の時が止まっているとも、それだから守ってやらなきゃいけないとも、思ってないけど?」
「…え…?」
「言ったろ、必死だって。お前は俺の知らないとこで苦しんで、知らないとこでもう前を向こうとしてたんだから」
「…そう、なのかな…?」
「そうなんだよ。だから…お互い勝手にあれこれ考え過ぎてたってことだろ」
未だふわふわと思考を漂わせている面持ちのはるかに、今更気恥ずかしくなりながらも。
「とりあえず結論として、俺たちはお互い好きってこと」
はるかの顔が、またしても真っ赤になった。
「そっか。そうなんだ、ね…」
「そ。んでさ…俺とはるかは何なんだって、やたら聞かれんだけどさ」
「うん?」
「それ、今度から…カノジョって、答えていいんだよな?」
なんとも間の悪いところで、アナウンスが鳴り響いて。
ふたりが降り立つべきホームへと、扉が開かれる。
「そ、それは、時と場合によります…!」
我に返ったはるかが叫ぶのを笑いながら、電車を降りた。