[Theme 01]1年生編
17
はるかと会うことも話すこともないまま、冬休みになった。
学年も部活も違うはるかとは、会おうとしなければまったく接点がなかったし、2年生には修学旅行もあったので尚更だった。
冬の合宿を終え、瑛は地元へと戻っていた。
まだ一年経っていないのに、その景色はひどく懐かしく感じた。
「お前、結構よくやってるみたいじゃねえか」
父・裕士 には、はるかと再会したことは伝えていない。
もともとはこうして帰ったら話そうと思っていたが、何となく言えなくなってしまった。
「いやー、せっかく貴重な連休なのに、こんなクソ田舎じゃなんもできなくてかわいそうだな!」
だらしなく寝そべりながらけらけらと笑う裕士。
これでいて会社では“紳士なイケオジ”で通っているというのは、たぶん一生信じられない。
身体が鈍ったら困るしランニングでもしてくるか、と考えていると、裕士は急に起き上がった。
「カナリアでも行ってきたらどうだ?」
「は?」
それは、商店街のはずれにある店の名前。
幼い頃、小さなピアニストを見るために通っていた場所。
「…なんでだよ」
「お前にとっても思い出の場所だろ?」
「…」
「このへんで正月にやってるとこなんてあそこくらいだろ!今からちょっといかがわしいドラマはじまんだよ、気を利かせろ!」
「はあ!?気持ち悪いなこのクソ親父!」
しっし、と手を振る裕士に軽く蹴りを入れ、仕方なく家を出ることにした。
不思議と場所は分かるものの、目的もなく一人でここを訪れるのははじめてだった。
かなり急だと記憶していた階段は意外とそうでもなく、すぐにその扉に辿り着く。
建付けは記憶通りか、むしろ悪化している気もした。
仄暗いレンガ造りの空間は、静かだった。
レコードがかかってはいるが、ここはもっと、とんでもない音に溢れていたように思う。
「いらっしゃい」
「あ…」
人のよさそうな老人が、カウンターの向こうから声をかけてきた。
促されるまま、奥へと進む。
カウンターのそば、無理やりこじ開けたようなスペースと、アップライトピアノが視界に入った瞬間、足が止まった。
その鍵盤に飛びついて、椅子から転げ落ちそうなほど腕を伸ばすその姿を思い出す。
「瑛君、だね?」
老人は穏やかに、それでいて目を輝かせながら、微笑んでいた。
──お前にとっても思い出の場所だろ?
「…お久しぶりです。おじさん」
「もうおじいさんですけどね。大きくなったなあ、野球は?」
「今もやってます。高校から鷺嶋に行ってて…」
「そうだったのか!じゃあ寮生活かね?おかえりなさい」
はるかと別れてから一度もこの店を訪れることはなく、それまでも一対一で話したことはなかったのに、店主は瑛のことをよく覚えているようだった。
にこにこと有無を言わさずコーヒーを差し出してきた店主に、ふと問いかける。
「…はるかのこと、知ってますか」
「はるかちゃんの、ピアノのこと?」
「…はい」
朗らかだった表情が一転、心底悲しそうな面持ちに変わる。
「知ってますよ。洋 ちゃん…はるかちゃんのお父さんの地元に引っ越すんだって、お母さんから聞いてね、その時事情を話してくれました」
「…」
「はて、ということははるかちゃんとは、今でも?」
「ああ、それは…高校で、ばったり会って」
「ええ!?…ああそうか!洋ちゃんの地元、鷺嶋だったなあ」
店主はそうかそうかと手を叩きながら、壁にかけられた写真を眺めた。
今よりずいぶん若い店主と肩を組む男性は、驚くほどはるかにそっくりだった。
「…はるかと俺って、何だと思いますか」
「ええ?」
それは無意識の問いだった。
「幼馴染だけど、幼馴染って言うほど長い時間を一緒に過ごしたわけじゃないのも本当だし。でもただの顔見知りとか、そんなわけないし。好きとか嫌いとか、そんな薄っぺらいもんでもないし」
ほとんど独り言に近い、ぽつりぽつりとこぼれていく言葉。
「…俺ははるかと、はるかのピアノと、野球があればそれでいいです。それ以外に、どうしたらいいんですかね」
店主は何も言わず、瑛もそこから続けることはなく、しばらくレコードの音だけが鳴っていた。
やがて、変わらず穏やかな声が、瑛に応えた。
「君たちの関係は、君たちが決めるものであって、周りがこうだと決めつけるものではありませんよ」
引き寄せられるように顔を上げると、その微笑みには今になって懐かしさを感じた。
「だから、周りが言うことを気にする必要はないですけど…ふたりの間では、ちゃんと分かり合えていた方がいいでしょうね」
「…」
「言葉足らずですれ違うのは、悲しいしもったいないですよ」
レコードの音が止み、店主はプレーヤーのもとへ向かった。
しばらくの静寂の後、流れたのは聞き覚えのあるような、ないようなメロディ。
「…はは、やっぱり全然違うな」
小さな手で奏でられる元気いっぱいの音色とは違って、ふんわりとやさしかった。
──それでも、自分が聴いていたいのは…
「また来てもいいですか」
「もちろん。はるかちゃんによろしくどうぞ」
窓の外は、枝だけになった街路樹。
暖房が効いた車内と、背中に当たる日差しが眠気を誘う。
イヤホンから流れる音楽が心地良い。
ふと気になってスマートフォンを見たが、イヤホンの先はしっかりと繋がっていた。
ドアが開き、瑛は隅に身体を寄せた。
まばらな乗客が車内に乗り込んでくる。
その中に、いとおしい姿を見つけた。
「瑛くん…!」
マフラーを口元まで広げて、それでも鼻を赤くしているはるかに、自然と笑みがこぼれた。
はるかと会うことも話すこともないまま、冬休みになった。
学年も部活も違うはるかとは、会おうとしなければまったく接点がなかったし、2年生には修学旅行もあったので尚更だった。
冬の合宿を終え、瑛は地元へと戻っていた。
まだ一年経っていないのに、その景色はひどく懐かしく感じた。
「お前、結構よくやってるみたいじゃねえか」
父・
もともとはこうして帰ったら話そうと思っていたが、何となく言えなくなってしまった。
「いやー、せっかく貴重な連休なのに、こんなクソ田舎じゃなんもできなくてかわいそうだな!」
だらしなく寝そべりながらけらけらと笑う裕士。
これでいて会社では“紳士なイケオジ”で通っているというのは、たぶん一生信じられない。
身体が鈍ったら困るしランニングでもしてくるか、と考えていると、裕士は急に起き上がった。
「カナリアでも行ってきたらどうだ?」
「は?」
それは、商店街のはずれにある店の名前。
幼い頃、小さなピアニストを見るために通っていた場所。
「…なんでだよ」
「お前にとっても思い出の場所だろ?」
「…」
「このへんで正月にやってるとこなんてあそこくらいだろ!今からちょっといかがわしいドラマはじまんだよ、気を利かせろ!」
「はあ!?気持ち悪いなこのクソ親父!」
しっし、と手を振る裕士に軽く蹴りを入れ、仕方なく家を出ることにした。
不思議と場所は分かるものの、目的もなく一人でここを訪れるのははじめてだった。
かなり急だと記憶していた階段は意外とそうでもなく、すぐにその扉に辿り着く。
建付けは記憶通りか、むしろ悪化している気もした。
仄暗いレンガ造りの空間は、静かだった。
レコードがかかってはいるが、ここはもっと、とんでもない音に溢れていたように思う。
「いらっしゃい」
「あ…」
人のよさそうな老人が、カウンターの向こうから声をかけてきた。
促されるまま、奥へと進む。
カウンターのそば、無理やりこじ開けたようなスペースと、アップライトピアノが視界に入った瞬間、足が止まった。
その鍵盤に飛びついて、椅子から転げ落ちそうなほど腕を伸ばすその姿を思い出す。
「瑛君、だね?」
老人は穏やかに、それでいて目を輝かせながら、微笑んでいた。
──お前にとっても思い出の場所だろ?
「…お久しぶりです。おじさん」
「もうおじいさんですけどね。大きくなったなあ、野球は?」
「今もやってます。高校から鷺嶋に行ってて…」
「そうだったのか!じゃあ寮生活かね?おかえりなさい」
はるかと別れてから一度もこの店を訪れることはなく、それまでも一対一で話したことはなかったのに、店主は瑛のことをよく覚えているようだった。
にこにこと有無を言わさずコーヒーを差し出してきた店主に、ふと問いかける。
「…はるかのこと、知ってますか」
「はるかちゃんの、ピアノのこと?」
「…はい」
朗らかだった表情が一転、心底悲しそうな面持ちに変わる。
「知ってますよ。
「…」
「はて、ということははるかちゃんとは、今でも?」
「ああ、それは…高校で、ばったり会って」
「ええ!?…ああそうか!洋ちゃんの地元、鷺嶋だったなあ」
店主はそうかそうかと手を叩きながら、壁にかけられた写真を眺めた。
今よりずいぶん若い店主と肩を組む男性は、驚くほどはるかにそっくりだった。
「…はるかと俺って、何だと思いますか」
「ええ?」
それは無意識の問いだった。
「幼馴染だけど、幼馴染って言うほど長い時間を一緒に過ごしたわけじゃないのも本当だし。でもただの顔見知りとか、そんなわけないし。好きとか嫌いとか、そんな薄っぺらいもんでもないし」
ほとんど独り言に近い、ぽつりぽつりとこぼれていく言葉。
「…俺ははるかと、はるかのピアノと、野球があればそれでいいです。それ以外に、どうしたらいいんですかね」
店主は何も言わず、瑛もそこから続けることはなく、しばらくレコードの音だけが鳴っていた。
やがて、変わらず穏やかな声が、瑛に応えた。
「君たちの関係は、君たちが決めるものであって、周りがこうだと決めつけるものではありませんよ」
引き寄せられるように顔を上げると、その微笑みには今になって懐かしさを感じた。
「だから、周りが言うことを気にする必要はないですけど…ふたりの間では、ちゃんと分かり合えていた方がいいでしょうね」
「…」
「言葉足らずですれ違うのは、悲しいしもったいないですよ」
レコードの音が止み、店主はプレーヤーのもとへ向かった。
しばらくの静寂の後、流れたのは聞き覚えのあるような、ないようなメロディ。
「…はは、やっぱり全然違うな」
小さな手で奏でられる元気いっぱいの音色とは違って、ふんわりとやさしかった。
──それでも、自分が聴いていたいのは…
「また来てもいいですか」
「もちろん。はるかちゃんによろしくどうぞ」
窓の外は、枝だけになった街路樹。
暖房が効いた車内と、背中に当たる日差しが眠気を誘う。
イヤホンから流れる音楽が心地良い。
ふと気になってスマートフォンを見たが、イヤホンの先はしっかりと繋がっていた。
ドアが開き、瑛は隅に身体を寄せた。
まばらな乗客が車内に乗り込んでくる。
その中に、いとおしい姿を見つけた。
「瑛くん…!」
マフラーを口元まで広げて、それでも鼻を赤くしているはるかに、自然と笑みがこぼれた。