[Theme 01]1年生編
16
カバンが落ちる音に、窓の外へ向かおうとした視線を引き戻した。
少し離れた席に立っていた瑛が、こちらへ歩いてくる。
その表情が、今にも泣きだしそうに見えて、“どうしたの?”と問いかけようとした。
それが言葉になる前に、唇がふさがれてしまった。
数秒遅れて状況を理解し、咄嗟に離れようとするも、それを許さないかのように瑛の手がはるかの背に回った。
身体がより密着し、口付けもより深くなる。
胸を押してもびくともせず、その手さえ瑛の手に包まれた。
大きくて、硬い手。たゆまぬ努力を物語る、傷跡のざらりとした感触。
──どうして…?
視界いっぱいにあった瑛の顔が、ぐらぐらと揺れた。
ひどくぼやけているけれど、とても苦しそうなのは分かる。
突然の出来事に動揺して、何がなんだか分からないのに、そんな顔をしている瑛を見ると自分のことなんてまるでどうでもよくなってしまう。
「どうしたの…?」
今度は言葉になった、問いかけ。
それはとても震えていて、ようやく自分が涙を流していたことに気付いた。
「ああ、ごめんね…びっくりしちゃって…」
涙を拭おうとポケットから取り出したハンカチは、手から零れ落ちてしまった。
どうやら手も震えているらしい。
瑛は何も言わない。
「日坂君と…月城先輩…?」
小さな声に振り返ると、声の主は心配そうにこちらを見ていた。
「…文谷、君…」
「えっと、あの、邪魔だったらすいません。でも…先輩…」
「大丈夫だよ。文谷君に用事があって来たし」
「え?」
その場を離れる前に、石のように動かなくなった瑛にそっと声をかける。
「…話したいことがあるなら、いつでも聞く。なかったことにしたいなら…そうする」
瑛の顔は、見られなかった。
落としたハンカチのことを忘れるほど、まだ動揺していたから。
「このチューナー文谷君のだよね?控室に忘れてたよ」
「え、あ、はい!僕のです…!」
今度は落とさないようにポケットからチューナーを取り出し、手渡す。
そしてそのまま教室を出た。
「じゃあまた部活でね」
「はい…!」
とんでもないことをしてしまった。
そんな自覚と、罪悪感がとめどなく溢れるのに、自分勝手に傷付いているのも感じていた。
決して瑛を責めず、気丈にふるまうはるかの姿に。
──なかったことにしたいなら…そうする
そんなこと、自分には到底できやしないのに。
あの時はるかが落としたハンカチは、瑛の部屋の机にしまったままになっている。
「最近、月城さんにちょっかいかけてないね」
一人バットを振っていると、千景がどこからともなく現れた。
はるかのことを考えないようにそうしていたのに、無意識に眉根を寄せた。
「距離感、わきまえるようになったの?」
「…どういうことですか」
「前に月城さん言ってたんだ、日坂はパーソナルスペースが狭いって」
一体いつ、なぜそんな話をするのかと、ますます不快感が募る。
それでも千景は続けた。
「それさ、月城さんにだけでしょ?」
手を止めて、千景の顔を見る。
いつものように澄ました笑顔で、意図が読み取れない。
「はっきり言うけど、君のしてることって結構ひどいと思うよ」
天気の話でもするような口調で並べられる言葉が、瑛の胸にずくりと刺さり続けた。
「付き合ってもないのに、我が物顔で無遠慮に近付いて、触れて。月城さんが弟みたいにかわいがってくれるのにつけこんで」
「…」
「月城さんは、日坂のお人形じゃないよ」
その声には質量を感じた気がして、今一度千景を見た。
表情は変わらなかった。
「…桐谷先輩は、何がしたいんすか」
できるだけ感情を抑えて、尋ねる。
「僕は、好きな子に笑っていて欲しいだけだよ」
「…は…?」
「その子が悩んでいて、その理由が誰かにひどいことをされたからっていうんなら、その誰かを許せないなって思うし、やめさせたい。普通でしょ?」
──好きな子が自分のせいで苦しんでいるのに、平然と苦しめ続ける君に比べたら、ずっと。
それだけ言うと千景は、何事もなかったかのようにバットを振り始めた。
瑛はとてもそこにはいられなくて、部屋に戻った。
カバンが落ちる音に、窓の外へ向かおうとした視線を引き戻した。
少し離れた席に立っていた瑛が、こちらへ歩いてくる。
その表情が、今にも泣きだしそうに見えて、“どうしたの?”と問いかけようとした。
それが言葉になる前に、唇がふさがれてしまった。
数秒遅れて状況を理解し、咄嗟に離れようとするも、それを許さないかのように瑛の手がはるかの背に回った。
身体がより密着し、口付けもより深くなる。
胸を押してもびくともせず、その手さえ瑛の手に包まれた。
大きくて、硬い手。たゆまぬ努力を物語る、傷跡のざらりとした感触。
──どうして…?
視界いっぱいにあった瑛の顔が、ぐらぐらと揺れた。
ひどくぼやけているけれど、とても苦しそうなのは分かる。
突然の出来事に動揺して、何がなんだか分からないのに、そんな顔をしている瑛を見ると自分のことなんてまるでどうでもよくなってしまう。
「どうしたの…?」
今度は言葉になった、問いかけ。
それはとても震えていて、ようやく自分が涙を流していたことに気付いた。
「ああ、ごめんね…びっくりしちゃって…」
涙を拭おうとポケットから取り出したハンカチは、手から零れ落ちてしまった。
どうやら手も震えているらしい。
瑛は何も言わない。
「日坂君と…月城先輩…?」
小さな声に振り返ると、声の主は心配そうにこちらを見ていた。
「…文谷、君…」
「えっと、あの、邪魔だったらすいません。でも…先輩…」
「大丈夫だよ。文谷君に用事があって来たし」
「え?」
その場を離れる前に、石のように動かなくなった瑛にそっと声をかける。
「…話したいことがあるなら、いつでも聞く。なかったことにしたいなら…そうする」
瑛の顔は、見られなかった。
落としたハンカチのことを忘れるほど、まだ動揺していたから。
「このチューナー文谷君のだよね?控室に忘れてたよ」
「え、あ、はい!僕のです…!」
今度は落とさないようにポケットからチューナーを取り出し、手渡す。
そしてそのまま教室を出た。
「じゃあまた部活でね」
「はい…!」
とんでもないことをしてしまった。
そんな自覚と、罪悪感がとめどなく溢れるのに、自分勝手に傷付いているのも感じていた。
決して瑛を責めず、気丈にふるまうはるかの姿に。
──なかったことにしたいなら…そうする
そんなこと、自分には到底できやしないのに。
あの時はるかが落としたハンカチは、瑛の部屋の机にしまったままになっている。
「最近、月城さんにちょっかいかけてないね」
一人バットを振っていると、千景がどこからともなく現れた。
はるかのことを考えないようにそうしていたのに、無意識に眉根を寄せた。
「距離感、わきまえるようになったの?」
「…どういうことですか」
「前に月城さん言ってたんだ、日坂はパーソナルスペースが狭いって」
一体いつ、なぜそんな話をするのかと、ますます不快感が募る。
それでも千景は続けた。
「それさ、月城さんにだけでしょ?」
手を止めて、千景の顔を見る。
いつものように澄ました笑顔で、意図が読み取れない。
「はっきり言うけど、君のしてることって結構ひどいと思うよ」
天気の話でもするような口調で並べられる言葉が、瑛の胸にずくりと刺さり続けた。
「付き合ってもないのに、我が物顔で無遠慮に近付いて、触れて。月城さんが弟みたいにかわいがってくれるのにつけこんで」
「…」
「月城さんは、日坂のお人形じゃないよ」
その声には質量を感じた気がして、今一度千景を見た。
表情は変わらなかった。
「…桐谷先輩は、何がしたいんすか」
できるだけ感情を抑えて、尋ねる。
「僕は、好きな子に笑っていて欲しいだけだよ」
「…は…?」
「その子が悩んでいて、その理由が誰かにひどいことをされたからっていうんなら、その誰かを許せないなって思うし、やめさせたい。普通でしょ?」
──好きな子が自分のせいで苦しんでいるのに、平然と苦しめ続ける君に比べたら、ずっと。
それだけ言うと千景は、何事もなかったかのようにバットを振り始めた。
瑛はとてもそこにはいられなくて、部屋に戻った。