[Theme 01]1年生編
15
その日は晴天ながら風が強く、譜面台も絶えずカタカタと音を立てていた。
打席に立つ、背番号“6”の背中を見つめる。
祈りを、思いを声にできないもどかしさとともに、目一杯リードに息を吹き込んだ。
瞬間、響き渡る少し長めの金属音。
突き抜けていく打球。
その放物線はバックスクリーンを目前にして、突如その矛先を変えてしまった。
風に行方を阻まれ落下していった打球は、中堅手のグラブへ。
奇しくもそれは、県大会突破の瞬間と同じ構図だった。
2日後、瑛は講堂の座席でステージを睨み付けていた。
「日坂君、やっぱり試合のことが…?」
隣に座るクラスメイトが、おずおずと声をかける。
出席番号順に座っているので、周りは普段話さないような人物ばかりだった。
「でも、数年ぶりの地区大会進出なんてすごいじゃない…!」
「…」
「それに、あの日はあんなに風が強かったし…」
「文谷 、そいつの幻のホームランには触れてやるな…」
憐れむようにそう言いながら、前方からこちらを振り返ってきた正也の顔は、今すぐ殴りたいほど腹立たしかった。
「うるせえ正也劇場」
「な…っ!」
先日の試合では2点ビハインドの場面でマウンドに上がり、みるみるうちにランナーを溜めてしまった正也にそう言い放つと、思ったより気にしていたようで黙り込んでしまった。
「おい…お前は結局抑えたんだからいいだろ…打てなかったの俺らだし…」
「…ウン…」
分かりやすくしょんぼりした正也と、どこかめんどくさそうな面持ちの瑛を、クラスメイトはおろおろと眺めていた。
「…試合のことを気にしてるわけじゃねえよ」
「え?そうなんだ…あ、もしかして月城先輩?」
思わず目を見開く。
それと同時に、ステージに生徒たちの集団がぞろぞろと出てきた。
「僕、吹奏楽部なんだ。試合の日もスタンドで応援してたよ」
「…知らなかった。ごめん」
「ううん」
その会話を最後に、二人は黙ってステージへ視線を移した。
瑛の視線はそのまま、ピアノの前でしかめっ面をしている杏里、女子の最前列に立つ岡本、そして最後列のはるかへと向かった。
ひな壇になっているとはいえ、身長の低いはるかは周りに埋もれて見えてしまい、つい笑みがこぼれた。
はるかの表情からは変わったところは感じられず、なぜか岡本もどこか晴れやかな表情をしているので、事態は丸く収まったのかもしれない。
その予感を裏付けるように、はるかのクラスの合唱はよくまとまっていてそれなりにきれいだった。
一人ひとりの歌声は分からないが、はるかはどんな歌声をしているのだろうと気になった。
すぐそばで歌っている者には聞こえているのだろうか。
もし、自分がそこにいられたら──少し胸が痛んだ。
「うわあああ…めっちゃミスったああ…!」
ステージから袖へ戻るなり、杏里は頭を抱えて叫んだ。
「大丈夫だよ杏里ちゃん、聴いてる人にはわかんないよ」
「…おはるはわかってたってこと?」
「あはは、グランドピアノって弾きづらいよね」
「出たなブラックおはるーっ!」
騒ぐ杏里のもとへ、岡本が歩み寄った。
「秋山さん、伴奏すごくよかった。ありがとう」
「…入賞しなくても文句言わないでよね!」
「もちろんだよ!月城さんも、ありがとう。みんな月城さんの声で音程合わせてたから」
「え?」
「バレてたか…!」
女子たちが気まずそうに笑う。
はるかの配置にはそんな意味があったらしい。
「そんな聞き耳立てられてたなんて、急に恥ずかしくなってきた…」
「いやいや!安定感半端なかったよ!」
「おはるは口から音源だからね」
「ねー!今度カラオケ行こうよ!」
「えええっ、わたしハリアーズの応援歌くらいしか歌えない…」
「出た、月城さんの野球好き」
いつの間にか男子も一緒になってはるかを取り囲んでいる。
岡本はその様子を眺めながら、心がじんわりとあたたかくなるのを感じた。
それも束の間、身震いするほどの気配を感じて振り返った。
遠くからこちらを眺めていたのは、はるかの幼馴染。
今は何も持っている様子はないのに、あの日聞いた鈍い音が脳裏に浮かんだ。
幸いその視線は自分ではなく、はるかたちの方へ向けられているようだと気付く。
あの日とはまた違う、激しい怒りと、深い哀しみが入り混じったような視線だった。
──このふたりの間には、一体どんな世界が…
詮索はしないと決めた。
そうでなくとも、それを知ることはおそろしく感じた。
見なかったことにしようと、クラスメイトたちの輪の中へ入り、移動を促した。
合唱コンクールが終わり、午後からは講堂では音楽系の部活動の発表が行われ、校内では模擬店や展示がはじまった。
午後の部は自由参加のため、クラスや部活動での出展がない者は気ままに散策し、文化祭にまったく興味のない者は帰宅する場合もある。
瑛はどちらかというと後者ではあるが、午前中に引き続いて講堂に残っていた。
周りにはクラスメイトではなく、野球部員たちがいる。
応援でお世話になっている吹奏楽部の演奏を聴きに来ているのだ。
「2Aのあと、月城先輩んとこ行ってたの?」
珍しくうなだれていた正也は、もうすっかり回復したらしい。
今朝クラスで配られたパンフレットで紙飛行機を作っている。
「…いや」
はるかのもとを訪れていたのは、本当。
だけど声はかけられなかった。
やわらかい雰囲気で人当たりもいいので孤立することはないが、大勢で騒ぐような性格でもないはるかがあんなふうにクラスメイトたちに囲まれている光景は、あの頃も、再会してからも見たことがなかった。
はるかのクラスメイトを名乗る女がべらべらと語ったことには、耳を疑った。
そしてはるかがどんな思いをしているか、考えただけではらわたが煮えくり返った。
あまりの怒りに、また自分は何も、はるかを守れるような言葉を口にできなかった。
その場を収めてくれた拓真にクラスで起こったことを聞き、堪らず電話をするとはるかは既に気が晴れたような声音だった。
今日の様子だと、きっとあの女ともきちんと話をつけたのだと思う。
吹奏楽部の演奏がはじまり、サックスを吹くはるかをじっと見つめた。
プログラムによると、文化祭仕様なのか曲目には某夢の国関連や映画の曲が並んでいる。
はるかは伸び伸びと演奏している様子だった。
よく見るとはるかの目の前に、今日はじめて話したクラスメイトの姿がある。
鷺嶋高校に入学して8か月ほどを過ごし、はるかのことを知る人物の多さには驚いた。
あの頃、はるかは四六時中ピアノのことばかり考えていた。
いつも家かジャズ喫茶でピアノを弾いていて、学校でクラスを覗いたときも必ず“記号の本”を見ながら指を動かしていた。
唯一はるかの意識がピアノから離れるのは、自分の試合の応援をしているとき。
ピアノを弾くはるかと、野球をする自分と。
それだけが、世界のすべてだった。
あの女がスマートフォンの画面を見せつけようとしてきた瞬間、あれほどまでに嫌悪感を覚えた理由が、今分かった。
自分も同じなのだ。
はるかのことを何も知らず、勝手に詮索したことも。
ただひたすらに自分のエゴで、“ピアノを弾け”と乞うたのも。
──はるかがもう一度ピアノを弾いたなら、またその瞳の宇宙に、鍵盤と自分だけを映すようになってくれるだろうか。
演奏を終え、部員たちと笑い合うはるかを見つめながら、そんなことばかりが頭に浮かんだ。
吹奏楽部の出番が終わったところで野球部はそのまま解散し、瑛は教室へと向かった。
そこには誰もおらず、模擬店などが行われているのも別の棟なので日中とは思えないほど静かだ。
机の上に無造作に置いていたカバンを肩にかけ、踵を返す。
足音に気付くと、廊下からはるかが顔を覗かせた。
「瑛くん!文化祭はもういいの?」
「…ああ」
はるかはきょろきょろと辺りを見渡したあと、教室へと足を踏み入れた。
「ふふ、お邪魔します。わたしもね、去年この教室だったんだ」
そう言うと、窓側の前から3番目の席に立つ。
「最後はここだったかな?たぶんだけど…」
はるかと同じクラスだったなら、こんなふうに見えるのかと、瑛は自分の席からその姿を眺めた。
窓から吹く風が、はるかの長い髪をさらさらと撫でていく。
長いまつげに飾られ、きらきらと星を浮かべた瞳が窓の外へと向かおうとした瞬間。
「瑛くん?」
カバンが落ちる音に、はるかがこちらを見た。
──そうだ、そうやって…
鍵盤と、自分だけを。
祈るように、はるかの唇に自分のそれを重ねた。
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【背番号】少年~高校野球では、基本的にポジションと対応しています。“6”は遊撃手(ショート)を示します。
その日は晴天ながら風が強く、譜面台も絶えずカタカタと音を立てていた。
打席に立つ、背番号“6”の背中を見つめる。
祈りを、思いを声にできないもどかしさとともに、目一杯リードに息を吹き込んだ。
瞬間、響き渡る少し長めの金属音。
突き抜けていく打球。
その放物線はバックスクリーンを目前にして、突如その矛先を変えてしまった。
風に行方を阻まれ落下していった打球は、中堅手のグラブへ。
奇しくもそれは、県大会突破の瞬間と同じ構図だった。
2日後、瑛は講堂の座席でステージを睨み付けていた。
「日坂君、やっぱり試合のことが…?」
隣に座るクラスメイトが、おずおずと声をかける。
出席番号順に座っているので、周りは普段話さないような人物ばかりだった。
「でも、数年ぶりの地区大会進出なんてすごいじゃない…!」
「…」
「それに、あの日はあんなに風が強かったし…」
「
憐れむようにそう言いながら、前方からこちらを振り返ってきた正也の顔は、今すぐ殴りたいほど腹立たしかった。
「うるせえ正也劇場」
「な…っ!」
先日の試合では2点ビハインドの場面でマウンドに上がり、みるみるうちにランナーを溜めてしまった正也にそう言い放つと、思ったより気にしていたようで黙り込んでしまった。
「おい…お前は結局抑えたんだからいいだろ…打てなかったの俺らだし…」
「…ウン…」
分かりやすくしょんぼりした正也と、どこかめんどくさそうな面持ちの瑛を、クラスメイトはおろおろと眺めていた。
「…試合のことを気にしてるわけじゃねえよ」
「え?そうなんだ…あ、もしかして月城先輩?」
思わず目を見開く。
それと同時に、ステージに生徒たちの集団がぞろぞろと出てきた。
「僕、吹奏楽部なんだ。試合の日もスタンドで応援してたよ」
「…知らなかった。ごめん」
「ううん」
その会話を最後に、二人は黙ってステージへ視線を移した。
瑛の視線はそのまま、ピアノの前でしかめっ面をしている杏里、女子の最前列に立つ岡本、そして最後列のはるかへと向かった。
ひな壇になっているとはいえ、身長の低いはるかは周りに埋もれて見えてしまい、つい笑みがこぼれた。
はるかの表情からは変わったところは感じられず、なぜか岡本もどこか晴れやかな表情をしているので、事態は丸く収まったのかもしれない。
その予感を裏付けるように、はるかのクラスの合唱はよくまとまっていてそれなりにきれいだった。
一人ひとりの歌声は分からないが、はるかはどんな歌声をしているのだろうと気になった。
すぐそばで歌っている者には聞こえているのだろうか。
もし、自分がそこにいられたら──少し胸が痛んだ。
「うわあああ…めっちゃミスったああ…!」
ステージから袖へ戻るなり、杏里は頭を抱えて叫んだ。
「大丈夫だよ杏里ちゃん、聴いてる人にはわかんないよ」
「…おはるはわかってたってこと?」
「あはは、グランドピアノって弾きづらいよね」
「出たなブラックおはるーっ!」
騒ぐ杏里のもとへ、岡本が歩み寄った。
「秋山さん、伴奏すごくよかった。ありがとう」
「…入賞しなくても文句言わないでよね!」
「もちろんだよ!月城さんも、ありがとう。みんな月城さんの声で音程合わせてたから」
「え?」
「バレてたか…!」
女子たちが気まずそうに笑う。
はるかの配置にはそんな意味があったらしい。
「そんな聞き耳立てられてたなんて、急に恥ずかしくなってきた…」
「いやいや!安定感半端なかったよ!」
「おはるは口から音源だからね」
「ねー!今度カラオケ行こうよ!」
「えええっ、わたしハリアーズの応援歌くらいしか歌えない…」
「出た、月城さんの野球好き」
いつの間にか男子も一緒になってはるかを取り囲んでいる。
岡本はその様子を眺めながら、心がじんわりとあたたかくなるのを感じた。
それも束の間、身震いするほどの気配を感じて振り返った。
遠くからこちらを眺めていたのは、はるかの幼馴染。
今は何も持っている様子はないのに、あの日聞いた鈍い音が脳裏に浮かんだ。
幸いその視線は自分ではなく、はるかたちの方へ向けられているようだと気付く。
あの日とはまた違う、激しい怒りと、深い哀しみが入り混じったような視線だった。
──このふたりの間には、一体どんな世界が…
詮索はしないと決めた。
そうでなくとも、それを知ることはおそろしく感じた。
見なかったことにしようと、クラスメイトたちの輪の中へ入り、移動を促した。
合唱コンクールが終わり、午後からは講堂では音楽系の部活動の発表が行われ、校内では模擬店や展示がはじまった。
午後の部は自由参加のため、クラスや部活動での出展がない者は気ままに散策し、文化祭にまったく興味のない者は帰宅する場合もある。
瑛はどちらかというと後者ではあるが、午前中に引き続いて講堂に残っていた。
周りにはクラスメイトではなく、野球部員たちがいる。
応援でお世話になっている吹奏楽部の演奏を聴きに来ているのだ。
「2Aのあと、月城先輩んとこ行ってたの?」
珍しくうなだれていた正也は、もうすっかり回復したらしい。
今朝クラスで配られたパンフレットで紙飛行機を作っている。
「…いや」
はるかのもとを訪れていたのは、本当。
だけど声はかけられなかった。
やわらかい雰囲気で人当たりもいいので孤立することはないが、大勢で騒ぐような性格でもないはるかがあんなふうにクラスメイトたちに囲まれている光景は、あの頃も、再会してからも見たことがなかった。
はるかのクラスメイトを名乗る女がべらべらと語ったことには、耳を疑った。
そしてはるかがどんな思いをしているか、考えただけではらわたが煮えくり返った。
あまりの怒りに、また自分は何も、はるかを守れるような言葉を口にできなかった。
その場を収めてくれた拓真にクラスで起こったことを聞き、堪らず電話をするとはるかは既に気が晴れたような声音だった。
今日の様子だと、きっとあの女ともきちんと話をつけたのだと思う。
吹奏楽部の演奏がはじまり、サックスを吹くはるかをじっと見つめた。
プログラムによると、文化祭仕様なのか曲目には某夢の国関連や映画の曲が並んでいる。
はるかは伸び伸びと演奏している様子だった。
よく見るとはるかの目の前に、今日はじめて話したクラスメイトの姿がある。
鷺嶋高校に入学して8か月ほどを過ごし、はるかのことを知る人物の多さには驚いた。
あの頃、はるかは四六時中ピアノのことばかり考えていた。
いつも家かジャズ喫茶でピアノを弾いていて、学校でクラスを覗いたときも必ず“記号の本”を見ながら指を動かしていた。
唯一はるかの意識がピアノから離れるのは、自分の試合の応援をしているとき。
ピアノを弾くはるかと、野球をする自分と。
それだけが、世界のすべてだった。
あの女がスマートフォンの画面を見せつけようとしてきた瞬間、あれほどまでに嫌悪感を覚えた理由が、今分かった。
自分も同じなのだ。
はるかのことを何も知らず、勝手に詮索したことも。
ただひたすらに自分のエゴで、“ピアノを弾け”と乞うたのも。
──はるかがもう一度ピアノを弾いたなら、またその瞳の宇宙に、鍵盤と自分だけを映すようになってくれるだろうか。
演奏を終え、部員たちと笑い合うはるかを見つめながら、そんなことばかりが頭に浮かんだ。
吹奏楽部の出番が終わったところで野球部はそのまま解散し、瑛は教室へと向かった。
そこには誰もおらず、模擬店などが行われているのも別の棟なので日中とは思えないほど静かだ。
机の上に無造作に置いていたカバンを肩にかけ、踵を返す。
足音に気付くと、廊下からはるかが顔を覗かせた。
「瑛くん!文化祭はもういいの?」
「…ああ」
はるかはきょろきょろと辺りを見渡したあと、教室へと足を踏み入れた。
「ふふ、お邪魔します。わたしもね、去年この教室だったんだ」
そう言うと、窓側の前から3番目の席に立つ。
「最後はここだったかな?たぶんだけど…」
はるかと同じクラスだったなら、こんなふうに見えるのかと、瑛は自分の席からその姿を眺めた。
窓から吹く風が、はるかの長い髪をさらさらと撫でていく。
長いまつげに飾られ、きらきらと星を浮かべた瞳が窓の外へと向かおうとした瞬間。
「瑛くん?」
カバンが落ちる音に、はるかがこちらを見た。
──そうだ、そうやって…
鍵盤と、自分だけを。
祈るように、はるかの唇に自分のそれを重ねた。
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【背番号】少年~高校野球では、基本的にポジションと対応しています。“6”は遊撃手(ショート)を示します。