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[Theme 01]1年生編

13

今にも降り出しそうな曇天がなんとか持ち堪えてくれた、9回裏。
あとアウト一つというところで迎えた満塁のピンチ。
“あと少し”のところで何かが起こるのが高校野球の醍醐味、だけど今だけは何も起こってくれるな、と祈りを込めたその瞬間、球場に残酷なほどの快音が響き渡った。
一気に湧き上がった歓声に包まれながら美しい放物線を描いたその打球は、勢いそのままフェンスに直撃──

「は…っ!」

その寸前、逆転の一撃は、俊足の中堅手のグラブにさらわれていった。

鷺嶋高校野球部が、秋期地区大会への出場を決めた瞬間だった。



「桐谷君なら追いつく、そう信じていてもあれには息を呑んだよ…!」

一夜明けても興奮は止まず、はるかは教室で熱弁していた。

「地区大って応援いくのかな…いくんだろうな…」

杏里ははるかの話を聞いているようで聞いていない。

「あれは完全に野手陣に助けられた試合だったな」
「バッテリーすごかったよ!高原君はこれまでより長いイニングになったから、最後こそ疲れが出てしまったかもしれないけど…ずっと息ぴったりってかんじで、柳木君がしっかり引っ張ってあげてるんだろうなって見てて思ったよ!」
「ありがとう。野球の話になると本当によくしゃべるな」
「えっ?だ、だって良い試合だったから…」
「何良い雰囲気になってんの?地区大の日、文化祭の直前だからね?」

はるかと拓真を遮るように、杏里はスマートフォンの画面をはるかに押し付けた。
カレンダーには“文化祭!!!!”と記されている。

「ねえ、月城さん」

既に多い“!”をさらに増やして遊んでいると、その手元に影が落ちた。
見上げると、普段あまり話したことのない女子生徒が佇んでいた。


「月城さんに、合唱コンクールの伴奏お願いしたいんだけど…」


その言葉に、はるかより先に杏里が反応した。

「なんで?」
「えっ、いや…入賞するなら、合唱だけじゃなくて伴奏も大事だからさ」
「だから、なんでおはる?」
「だって、月城さんピアノで留学してたんでしょ?」

指先まで凍り付くようだった。
秋も深まり、すぐそこまで冬が近づいているとはいえ、締め切った教室はさっきまで少し暑いくらいだったのに。

「あんた、なんでそれを…」

──やめて。

「やっぱり秋山さんは知ってたんだ。なんでふたりとも呼びかけた時言ってくれなかったの?」

──お願いだから、やめて欲しい。

「私は、これ見たの」

本日二度目の、スマートフォンの画面を掲げられる構図。
ピアノを前に笑顔を浮かべる幼い自分の写真に、頭がひどく痛んだ。

「…ごめん。弾け、ない…」
「え?ああ、吹部の演奏もあるから大変だと思うけど、こっちはクラスのことだからさ」
「そうじゃないよ!いや、それもあるけど!」
「もう、さっきから秋山さんは何?ね、月城さん、お願い!私、本気でやりたいの!」

手を合わせるクラスメイトに、はるかは首を振った。

「…時間の、問題じゃなくて…弾けないの…本当に」

お願いだからそれで許して欲しかった。
それなのに。

「ええー?留学したのに?こんなすごい記事にもなってるのに?」

悪意などひとつもない、ただただ不思議そうな顔だった。

「いい加減にしてよ!」
「だから何なの!?」
「おい二人とも…」
「ごめん、あの…本当にごめん…」

ふり絞るようにそう言って、はるかはその場を立った。
すぐに杏里が追いかけてくる。

「杏里ちゃん…授業…」
「大丈夫だから!保健室行こう、ね!」



情けない。
つくづくそう思った。

こうして保健室のカーテンを見つめるのは二回目だった。

一度目は瑛たち──忙しい野球部の部員と、監督の手までを煩わせ。
二度目は杏里に、授業に遅れさせてしまった。

既に放課後となり、今も二人は揉めているかもしれない。
周りにも話が伝わってしまったりしているんだろうか、そう考えるとまた頭が重くなるばかりだった。

「月城さん、授業終わったけど…お家の人に来てもらう?」
「いえ…大丈夫です」

養護教諭は前回も今回も、事情を聞こうとはしてこなかった。

「話したいことがあったら話してくれたらいいし、何も言わなくても、ただ休みにきてくれてもいいですからね」

その言葉はとても有難かったし、同時に申し訳なくも感じた。

「おはる!」

保健室を出ると、杏里がはるかの荷物を持って歩いてくるところだった。

「杏里ちゃん…」
「あの、さっきはごめん。勝手にギャーギャー騒いじゃって」

しゅんとする杏里に、はるかはぶんぶんと首を振った。
まだ少し眩暈がする。

「ありがとう、だよ。ほんとに…びっくりするくらいなにも言えなかった」
「そりゃ言えないよ!おはるの口から聞いたことじゃないのに、よくもまああんな…」
「あ…あの子は…?」

恐る恐る尋ねてみると、杏里は苦虫を嚙み潰したような顔をした。

「合唱部の、岡本って子。中学一緒だったんだけどさ、いわゆる強豪校だったわけ。それはもちろんすごいことなんだけど…クラスの合唱コンクールも仕切ってくるやつ多いのよね!岡本以外もそうだよ。去年は運よくそういうのはいなかったけど…」
「そうなんだ…」
「そ!勝手に練習の日程組んどいて、予定合わないから無理ってなるとめちゃくちゃ言うし!さっきもしれっと部活の方が下みたいなさ!それに…」

杏里は泣きそうな顔ではるかのカーディガンの袖を握った。

「あんな記事まで出してきて、ほんと、信じらんない…!」

──自分はなんて情けないだろう。

はるかは杏里の背中に手をまわし、ぽんぽんと撫でた。

「杏里ちゃん、ありがとう。でも…岡本さんがああ思うのも無理はないよ。普通に考えたらあんな記事があって、弾けないなんて意味わかんないよね…」
「でも…!明らかに何かありそうなのに、粘ってくるのはやっぱりおかしいよ!」
「それは…正直わたしもそう思うよ」

だけど。

「杏里ちゃんにそんな顔させないためにも、やっぱりまたピアノを弾けるようになりたいって思うよ」


──みんな一生懸命やってる中、“ピアノの代わり”なんて気持ちで入っていくわけにいかないよ。

杏里から、何度目か分からない吹奏楽部への勧誘にそう答えた日を思い出す。

「…うちらだって、やる理由も、モチベだってみんな違うよ。私は、あんたの中に、少しでも“音楽やりたい”って気持ちがあるなら、ただ一緒にやりたいってだけだよ」
「秋山さん…」
「“代わり”だってなんだっていいよ!むしろ、音楽をやることでいつか、またピアノを弾けるようになったら、万々歳だよ」

自分とは対照的な杏里のそういう性格が、はるかにはとても眩しかった。


「…なるほどね、これは日坂少年もああなるわけだ」
「え?瑛くん?」
「あんたって子は野球の話以外口下手なくせに、たまにそういうセリフ言ってくるんだから」
「わたしって口下手なの…?」
「でも、あんなやつに言われて無茶することないんだからね!もうこの話はするなって言っておいたし…柳木がキレてた」

予想外の人物の名前が出て、首を傾げる。

「“それはあんなにつらそうにされても、続けないといけない話なのか”って。なんていうか、雰囲気?凄み…?私まで震えたわ…あの人実は部活では恐怖政治してんじゃないの?」
「そうだったんだ…確かに、視線だけでランナーを制する場面もあったもんね」
「また試合の話に持ってく!」

明日は教室に行くのが憂鬱だと思っていたが、二人のおかげで胸の奥に抱えていたものが少し軽くなるのを感じた。



合唱部の練習の後、岡本が野球部のグラウンドに近付いていくと既に解散したあとのようだった。
寮へと戻っていく部員やグラウンドに残る部員、バットを片手にどこかへ向かう部員と、様々だ。
思ったより人数が多く圧倒されていると、バットを持った集団の中に見覚えのある顔を見つけた。
昼休みによくクラスメイトに会いに来る、背の高い男。

「ねえ、日坂君だよね?」
「…は?」

振り向いたその男は、クラスメイトと話している時の様子とは別人のようだった。
しかし上着にあしらわれた刺繍は、確かに目的の人物の名前を描いている。

「私、月城さんと同じクラスで、合唱のこといろいろやってるんだけどさ」
「…」
「日坂君は月城さんと幼馴染って聞いて、聞きたいことがあって」

返事はなく、ただ不信感を隠そうともしない視線を向けられる。
ひるみそうになるも、目的のためにもう一度口を開いた。

「月城さんがピアノのすごい人っていうの知って、伴奏お願いできないかなって相談したの。そしたら“弾けない”って言われちゃって。なんか秋山さんとか柳木君にもいろいろ言われて…ねえ、」

事情を話しながら、スマートフォンを操作し、昼間にクラスメイトに見せた記事を開く。
それを見せながら続けようとした言葉は、喉に痞えて呼吸まで止まりそうだった。

今すぐその手に持ったバットでどうにかされてしまうのではないかと思うほどの、あまりに鋭利な視線。

「…それを、はるかに見せたわけ?」
「え…?あ…うん…」
「それで、ピアノ、弾けって言ったの」

ぎり、と鈍い音がした。
グローブと、バットのグリップが擦れる音。
今すぐ逃げ出したいのに、指一本動かなかった。

「日坂」

諭すような声に、このクラスメイトも野球部だったことを思い出す。

「…違いますよ。大事な道具を、“そんなこと”に使いません」
「分かってる」
「…」

先ほどの動揺が収まらず、目の前で交わされる会話も遠い世界の出来事のようだった。

「岡本」
「…な、に?」
「本人が語らないことを、勝手に詮索するのはやめた方がいい」

言われなくても、もう無理だと思った。
そのまま二人が去ってしばらくしたあと、ようやく動けるようになった足で走った。
このグラウンドにはもう二度と近付かない。何度も何度もそう、心に誓いながら。
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