[ad lib]番外編など
Day 3 [1]
頭がおかしくなりそうだった。
いや、もうとっくにおかしくなっていたのが、いっそ冷静になったような。
はたまた、自分でも不気味なほど凪いだ思考とは裏腹に、腹の底で何かが暴れ続けているような感覚はやはり異常でしかないような。
硬球が空の座席を叩き付ける音が響く。
まだ限られた観客しか入ることのできない時間、その“限られた観客”たちからどよめきが上がる。
「目キマりすぎだろ。寝不足か?」
打席を出ると、呆れ気味に声をかけられた。
はるかの“推し”こと藤堂 貴文に続くベテランで、二遊間コンビの相棒でもある湯川 達史 。
一軍戦に出始めた頃から何かと目をかけてくれる彼と瑛の関係は、ファンの間で“師弟コンビ”と騒がれ──本当の意味での“師匠”は、昨シーズンをもって引退してしまった──、球団のSNSにもセットで載せられることが多い。
現に、こうして二人で話しはじめるとすかさずシャッターを切られた。
「…まあ、寝れてないっすね。ある意味」
「え?ああ…寮出て同棲してるんだっけ」
広報スタッフが構えているのは一眼レフだけで、動画は撮られていないことを確認し、達史はその話題に触れた。
「気持ちは分かるけど、羽目外しすぎんなよ?」
「…たぶん、達さんが思ってるのと逆ですよ」
「えっ、お前それでそんな目バキバキになってんの?よく寮生活できたな…」
「マジで限界なんで、“先輩に心配された”って、口実に使っていいですか?」
大真面目な顔で言うと、達史はお前な、と言いながら小突いてきた。
そこでまたシャッターを切られる。
「…ファンの子たちが喜んでくれる写真の中身がこんな会話なんて、騙してる気分っす」
勝手に撮っておいてその口ぶりはないだろう。
そんな思いが前面に出た顔も、レンズの向こうにしっかり収められた。
はるかの言いつけ通り、開幕三連戦、チームは見事に白星を並べた。
今シーズン初ヒットは二戦目、三遊間を破ってのレフト前。
当然エンタイトルなど狙ってできるものではないが、打球が突き抜けていくその様を、そこそこ近くで見せられたんじゃないかと思う。
三戦目の今日はいずれも何とも地味な打席となり、せめて守備で援護しようと必死に打球に喰らい付いたら体制が崩れた。
そこからピンチを凌ぐゲッツーとなったのは、悪送球になりかけたところをしっかり掴み、一塁へ繋いでくれた達史のおかげだ。
バットでもしっかりチームに貢献した彼は、お立ち台でインタビューを受けている。
傍らには今季第1号を放った貴文が控えており、スポットライトの外でもその存在感は圧倒的だった。
──その場所へは、まだ遠い。
お立ち台に並んでポーズを決める二人の姿をしっかりと目に焼き付けて、瑛はベンチを後にした。
扉を開けた瞬間、鼻腔をくすぐるにおいに頬が緩んだ。
リビングに顔を出すと、キッチンから顔だけを出してはるかが微笑む。
「おかえり!」
その笑顔を見た瞬間、試合開始とともにどうにか引っ込めていた感情が一気に雪崩れ込んでくる。
ノーヒットは完全に自分の経験不足でしかないが、“口実”としては有効かもしれない。
「すぐ食べる?ちょっとゆっくりする?」
「いや、食べる」
今すぐに。
瑛が手を伸ばしたのはもちろん、フライパンの中でちょうど出来上がった生姜焼きじゃなく。
「瑛く、」
火を消して振り返ったはるかの唇をふさぐ。
驚いて開いたままの瞳を見つめながら、一つにまとめた髪の結び目あたりを支えて、角度を変えてまた口付けた。
空いている手ははるかの細い腰に回して、少し捲れたシャツの裾から指先で素肌をさする。
はるかの肩が震えて、所在なさげだった小さな手が瑛のパーカーを掴んだ。
なめらかな素肌を探る指先を阻んだ、エプロンの腰紐をするりと解いた。
はるかは焦ったように瑛の胸を押したけれど、首から下がっているだけになったエプロンの下で、思い切りシャツを捲り上げた。
ふんわりとした布越しに、やわらかな感触を手の平で包み込む。
再びはるかの肩がぴくりと震えた時──
けたたましい電子音が鳴り響いた。
驚いたふたりの歯が軽くぶつかって、瑛は思わず口元を押さえる。
その隙にはるかは腕の中をすり抜けて、冷蔵庫にくっつけたキッチンタイマーを止めた。
「大丈夫?痛くない…?」
戸惑いながらも確実に、瑛と同じ熱を帯びはじめていたはずのその瞳は、すっかり心配の色に塗り替えられてしまっていた。
「…全然。はるかは?」
「大丈夫だよ!」
瑛の返答に安心したのか、にこりと笑って、さり気なくエプロンの紐を結び直してしまう。
まるで何事もなかったかのように。
「あ…えっと…」
瑛の不安を感じとったのか、はるかがそっと瑛の袖に触れた。
「約束は、ちゃんと守るから。もう少しだけ待って…」
赤くなった顔は、すぐに瑛の胸元に埋められてしまったのが名残惜しい。
だけどたぶん、瑛の顔も赤いだろうから、少しの間そのまま抱き締めていた。
はるかの料理は昔よりも少し味付けが濃くなっていた。
塩分控えめのやさしい味も気に入っていたが、新しい味わいはもともとの瑛の好みに近く感じた。
鷺嶋の家族のためではなく、今は自分のために料理をしてくれているんだと感じて、無意識にニヤついてしまった。
毎日はるかの手料理を食べる暮らしを夢見ていたが、“素人がアスリートの身体に入るものに関与したくない”という理屈で躊躇われた時は焦った。
もちろんはるかだけに負担をかけるのは本意ではないが、そういう理由ならばと30分ほど説得して、 “試合直前の食事以外なら”という条件で合意にこぎつけた。
もともと祖父母の健康を思って料理をしていたわけで、遠慮するような腕前ではまったくないし、栄養面だけでなく力が湧いてくるものだということをいつか分かってもらいたい。
新居ではるかとともに過ごす、三度目の夜。
一昨日、昨日と、瑛から離れて眠りにつこうとするはるかを半ば強引に引き寄せていたから、今夜はバスルームまで迎えに行って、否応なしにぴったりとくっついたままベッドに腰を下ろした。
「…明日、移動だよね?」
この期に及んでそんなことを口にしたはるかに、短いキスを落とす。
「俺さ、目バキバキらしいよ」
「え?」
あの会話の風景は、1時間と経たないうちに球団のSNSに投稿されていた。
はるかの目にも入ったことだろう。
「達さんに心配されたわ。プレーに影響が出るんじゃないかって」
「ええ、湯川さんに…」
少し脚色してそう告げれば、はるかは深刻そうな表情を浮かべる。
「影響、出てたのかもなあ。今日またノーヒットだし、送球ミスるし。達さんがカバーしてくれてなかったら逆転されてたかも」
これ見よがしに続けると、はるかは打って変わってきょとんとした顔をした。
「それは、ないでしょ」
ショックを受けているわけでも責めているわけでもない、あっけらかんとした声音。
「だって瑛くんだもん」
これには、上手く畳み掛けようとしていたことも忘れてたじろいでしまった。
はずみで繋いだ手まで離してしまわないように、ぎゅっと握りなおす。
「でもそうか…我慢しすぎるのも、つらいよね」
そう呟いて、はるかも重ねた指に力を込めた。
「…寝坊しない程度に、ね…?」
真っ赤な顔でそんなことを言われたら、ギリギリ引っかかっていた頭のネジもとうとう吹き飛んでしまった。
頭がおかしくなりそうだった。
いや、もうとっくにおかしくなっていたのが、いっそ冷静になったような。
はたまた、自分でも不気味なほど凪いだ思考とは裏腹に、腹の底で何かが暴れ続けているような感覚はやはり異常でしかないような。
硬球が空の座席を叩き付ける音が響く。
まだ限られた観客しか入ることのできない時間、その“限られた観客”たちからどよめきが上がる。
「目キマりすぎだろ。寝不足か?」
打席を出ると、呆れ気味に声をかけられた。
はるかの“推し”こと藤堂 貴文に続くベテランで、二遊間コンビの相棒でもある
一軍戦に出始めた頃から何かと目をかけてくれる彼と瑛の関係は、ファンの間で“師弟コンビ”と騒がれ──本当の意味での“師匠”は、昨シーズンをもって引退してしまった──、球団のSNSにもセットで載せられることが多い。
現に、こうして二人で話しはじめるとすかさずシャッターを切られた。
「…まあ、寝れてないっすね。ある意味」
「え?ああ…寮出て同棲してるんだっけ」
広報スタッフが構えているのは一眼レフだけで、動画は撮られていないことを確認し、達史はその話題に触れた。
「気持ちは分かるけど、羽目外しすぎんなよ?」
「…たぶん、達さんが思ってるのと逆ですよ」
「えっ、お前それでそんな目バキバキになってんの?よく寮生活できたな…」
「マジで限界なんで、“先輩に心配された”って、口実に使っていいですか?」
大真面目な顔で言うと、達史はお前な、と言いながら小突いてきた。
そこでまたシャッターを切られる。
「…ファンの子たちが喜んでくれる写真の中身がこんな会話なんて、騙してる気分っす」
勝手に撮っておいてその口ぶりはないだろう。
そんな思いが前面に出た顔も、レンズの向こうにしっかり収められた。
はるかの言いつけ通り、開幕三連戦、チームは見事に白星を並べた。
今シーズン初ヒットは二戦目、三遊間を破ってのレフト前。
当然エンタイトルなど狙ってできるものではないが、打球が突き抜けていくその様を、そこそこ近くで見せられたんじゃないかと思う。
三戦目の今日はいずれも何とも地味な打席となり、せめて守備で援護しようと必死に打球に喰らい付いたら体制が崩れた。
そこからピンチを凌ぐゲッツーとなったのは、悪送球になりかけたところをしっかり掴み、一塁へ繋いでくれた達史のおかげだ。
バットでもしっかりチームに貢献した彼は、お立ち台でインタビューを受けている。
傍らには今季第1号を放った貴文が控えており、スポットライトの外でもその存在感は圧倒的だった。
──その場所へは、まだ遠い。
お立ち台に並んでポーズを決める二人の姿をしっかりと目に焼き付けて、瑛はベンチを後にした。
扉を開けた瞬間、鼻腔をくすぐるにおいに頬が緩んだ。
リビングに顔を出すと、キッチンから顔だけを出してはるかが微笑む。
「おかえり!」
その笑顔を見た瞬間、試合開始とともにどうにか引っ込めていた感情が一気に雪崩れ込んでくる。
ノーヒットは完全に自分の経験不足でしかないが、“口実”としては有効かもしれない。
「すぐ食べる?ちょっとゆっくりする?」
「いや、食べる」
今すぐに。
瑛が手を伸ばしたのはもちろん、フライパンの中でちょうど出来上がった生姜焼きじゃなく。
「瑛く、」
火を消して振り返ったはるかの唇をふさぐ。
驚いて開いたままの瞳を見つめながら、一つにまとめた髪の結び目あたりを支えて、角度を変えてまた口付けた。
空いている手ははるかの細い腰に回して、少し捲れたシャツの裾から指先で素肌をさする。
はるかの肩が震えて、所在なさげだった小さな手が瑛のパーカーを掴んだ。
なめらかな素肌を探る指先を阻んだ、エプロンの腰紐をするりと解いた。
はるかは焦ったように瑛の胸を押したけれど、首から下がっているだけになったエプロンの下で、思い切りシャツを捲り上げた。
ふんわりとした布越しに、やわらかな感触を手の平で包み込む。
再びはるかの肩がぴくりと震えた時──
けたたましい電子音が鳴り響いた。
驚いたふたりの歯が軽くぶつかって、瑛は思わず口元を押さえる。
その隙にはるかは腕の中をすり抜けて、冷蔵庫にくっつけたキッチンタイマーを止めた。
「大丈夫?痛くない…?」
戸惑いながらも確実に、瑛と同じ熱を帯びはじめていたはずのその瞳は、すっかり心配の色に塗り替えられてしまっていた。
「…全然。はるかは?」
「大丈夫だよ!」
瑛の返答に安心したのか、にこりと笑って、さり気なくエプロンの紐を結び直してしまう。
まるで何事もなかったかのように。
「あ…えっと…」
瑛の不安を感じとったのか、はるかがそっと瑛の袖に触れた。
「約束は、ちゃんと守るから。もう少しだけ待って…」
赤くなった顔は、すぐに瑛の胸元に埋められてしまったのが名残惜しい。
だけどたぶん、瑛の顔も赤いだろうから、少しの間そのまま抱き締めていた。
はるかの料理は昔よりも少し味付けが濃くなっていた。
塩分控えめのやさしい味も気に入っていたが、新しい味わいはもともとの瑛の好みに近く感じた。
鷺嶋の家族のためではなく、今は自分のために料理をしてくれているんだと感じて、無意識にニヤついてしまった。
毎日はるかの手料理を食べる暮らしを夢見ていたが、“素人がアスリートの身体に入るものに関与したくない”という理屈で躊躇われた時は焦った。
もちろんはるかだけに負担をかけるのは本意ではないが、そういう理由ならばと30分ほど説得して、 “試合直前の食事以外なら”という条件で合意にこぎつけた。
もともと祖父母の健康を思って料理をしていたわけで、遠慮するような腕前ではまったくないし、栄養面だけでなく力が湧いてくるものだということをいつか分かってもらいたい。
新居ではるかとともに過ごす、三度目の夜。
一昨日、昨日と、瑛から離れて眠りにつこうとするはるかを半ば強引に引き寄せていたから、今夜はバスルームまで迎えに行って、否応なしにぴったりとくっついたままベッドに腰を下ろした。
「…明日、移動だよね?」
この期に及んでそんなことを口にしたはるかに、短いキスを落とす。
「俺さ、目バキバキらしいよ」
「え?」
あの会話の風景は、1時間と経たないうちに球団のSNSに投稿されていた。
はるかの目にも入ったことだろう。
「達さんに心配されたわ。プレーに影響が出るんじゃないかって」
「ええ、湯川さんに…」
少し脚色してそう告げれば、はるかは深刻そうな表情を浮かべる。
「影響、出てたのかもなあ。今日またノーヒットだし、送球ミスるし。達さんがカバーしてくれてなかったら逆転されてたかも」
これ見よがしに続けると、はるかは打って変わってきょとんとした顔をした。
「それは、ないでしょ」
ショックを受けているわけでも責めているわけでもない、あっけらかんとした声音。
「だって瑛くんだもん」
これには、上手く畳み掛けようとしていたことも忘れてたじろいでしまった。
はずみで繋いだ手まで離してしまわないように、ぎゅっと握りなおす。
「でもそうか…我慢しすぎるのも、つらいよね」
そう呟いて、はるかも重ねた指に力を込めた。
「…寝坊しない程度に、ね…?」
真っ赤な顔でそんなことを言われたら、ギリギリ引っかかっていた頭のネジもとうとう吹き飛んでしまった。