[Theme 01]1年生編
11
「はるか」
休憩に入り校舎へと戻っていく生徒たちの中にいても、はるかには何ら不審な点はなかった。
だが、言われてみれば感じ取れるものがある。
“言われてみれば”なのが非常に癪だが。
「瑛くん!リレー速かったね、お疲れさま」
「それははるかだろ…今から昼飯持って理科室来て。旧館の方」
「え?なんで?」
「なんでも」
首を傾げた表情は何も理解していない様子だが、それでも言う通りにしてくれるのには正直心配になる。
「勝手に入っていいの?」
「監督の庭だから、なんか言われたら野球部の用って言えばいいよ」
「わたし吹部…」
「いいから」
扉を開けてはるかを押し込むと、誰もいないその部屋は冷気に満ちていて、天国のようだった。
授業用のグラウンドに近い旧館は全館空調のシステムが古く、部屋毎の制御ができないらしい。
体育祭では旧館の保健室を一時救護室として使っているので、用のない部屋でもこの通りキンキンというわけである。
「すずし…」
はるかも無意識に呟いていた。
「はい座る」
「わ、」
「これとこれと、はいこれ」
「ひゃ!」
首筋にアイスバッグを押し付けるなり上がった声は、デジャヴのようだ。
机の上に並べたドリンクと、塩分タブレットと、隣に座った瑛の顔を交互に見るはるか。
「飯は?食えそ?」
「…ちょっと、微妙かも」
「んじゃこれ」
保冷バッグから取り出したゼリー飲料も、机に並べた。
「び、備品ですか」
「アイスバッグはそうだけど、他は俺の。だから遠慮すんな」
「…」
「そこまでではないと思ってここにしたけど、もし横になりたかったら救護室連れてくけど?」
「ううん、ここで大丈夫。ありがとう…」
はるかは気持ちよさそうにアイスバッグに頬を寄せた。
どうやら抵抗する気はないようだ。
「逆に寒くなったらすぐ言えよ、上着あるから」
「瑛くん、頼もしくなったね…」
気を張っていたのが解けたのか、ぼんやりとした表情で笑う。
頬は薄っすらと赤く、やはりこの暑さが堪えていたのが分かった。
「…だから水分摂れって言ったのに」
「うー…ごめんなさい。意外とバタバタしてて」
確かに、どうも競技出場者の招集が早すぎるので、ちょくちょく出番があったはるかはテントにいる時間も短かっただろう。
もっとも瑛は、毎回招集時間を無視してダラダラしていたが。
「あ、瑛くん食べる?これ…」
はるかがおずおずと差し出したのは、シンプルなランチバッグ。
よく見るとはるかの好きな球団のロゴマークが、それを知らない者であれば到底気付かないほどさりげなくあしらわれている。
はるかがそんなふうに差し出すということは、中身は自分で作っているのだろう。
「え、いいの?」
「うん、ちょっと食べられそうにないし。交換…?」
「やった」
ランチボックスも球団グッズで笑いそうになりながら蓋を開けると、実に健康的なおかずだった。
「いただきます」
「つまらないものですが…」
実家で食べていた父親の料理や、鷺嶋に来てから覚えた食堂の味とも違う、やさしい味付け。
噛むほどに素材の旨みを感じられて、満足感は十分だった。
「うまい」
「ふふ。塩分控えてるから、若い子には味薄いかもしれないけどね」
「若い子って、そんな変わんねえじゃん」
次々口に入れていると、はるかは笑った。
「瑛くん、食べるの早すぎだよ」
「あ、悪い!味わってはいるんだけど…」
「ううん、それはいいの。忙しい中いっぱい食べないといけないもんね。でも、30回は噛んで」
「サンジュッカイ…」
頭の中で数えながら噛むと、また笑われた。
ばつが悪いので話題を変える。
「…家では、はるかが飯作ってんの?」
「うん。学費以外、全面的にお世話になっちゃってるからね」
父方の祖父母の家に身を寄せているというはるか。
母親とのことも、気になるがまだ聞けていない。
「…夏、苦手?」
次はそう問いかけてみると、少し困った顔をした。
そのまま少し考えて、そっと口を開く。
「…暑いのは、少し苦手。でもそれより…気持ちの問題かな」
はるかの手の中で、アイスバッグがカラカラと音を立てた。
「事故で、おじいちゃんとおばあちゃんが亡くなったのも。6歳のとき、お父さんが亡くなったのも…夏だったの。だから…夏は怖い」
その声は存外落ち着いていたけど、瞳は揺れていた。
気の利いたことの一つも言えないまま、蝉の声だけがけたたましく響く。
──そっか、君たち付き合ってるわけじゃなかったんだ
余計なことを思い出して、少し躊躇する。
それでもやっぱり、あの頃より小さくなった身体を抱き寄せるほかに、どうすればいいのか分からなかった。
「あ、わたし、汗かいたから…」
「お互い様だろ」
はじめからそんなことは気にもしていなかったが、むしろはるかからはどこか爽やかな香りがした。
一体どういう原理なんだと内心首を傾げながら頭を撫でると、はるかが少しだけ体重を預けてくれるのを感じた。
「…今年の夏は、少し楽しいよ」
「うん?」
「形は違えど、音楽ができて。全国いけなくて悔しかった。音楽で誰かと競うなんて、心の中でなんか違くない?とも思ってたのに」
「…うん」
「あとね、お父さんの部屋に、入れたの。そこにはお父さんが昔弾いてたピアノがあって、ずっとそのままにしてあるの。今まで部屋に入ることすら、できなかったんだ」
はるかがアイスバッグをぎゅっと握る。もう氷の音はしなかった。
「入れただけで、ピアノには触れられないんだけどね」
「…はるかにとっては、大きな進歩だろ」
そう返すと、はるかは顔を上げた。
ふいにすぐそばで見ると圧倒されるような瞳。
「うん…!」
そんな瞳で、そんなふうに笑うから、なんだか頭がおかしくなりそうだ。
「…それとね、昼も夜も野球が面白い」
少し言いづらそうにするのがいじらしくて、また頭を撫でる。
「甲子園も観てんの?」
「去年までは守備範囲外だったんだけど、今年からね。瑛くんが戦っているのはどんな世界なんだろうって気になって、それから…」
「おいおい、嫌みか?土俵にすら立ってねえんだぞ」
「え?」
もう一度顔を上げたはるかは、心底不思議そうな表情をしていた。
「瑛くんが今してる練習の先に、あの場所があるんでしょう?もうとっくに、土俵の上でしょ」
至極当然のように言ってのけたはるかに、胸の鼓動がずしりと重たくなった。
ぴったりとくっついているはるかにも伝わってしまいそうで焦る。
そんなことも知らず、はるかは続けた。
「予選での瑛くんにはほんとに驚いたよ…あの頃よりこんなに大きくなったのに、まるで小動物のような機動力!打撃センスも磨かれて、今後が楽しみなような、もはや恐ろしいような…!」
「…それ褒めてんのかよくわかんねえよ」
「褒めてるよ!ハリアーズのフロントは早くこの子を見つけて欲しい」
「どうせならウォルラスに見つかりてえよ」
呆れたように笑ってみせるけど、薄っすらと冷や汗まで浮かんできた気がする。
瑛より頭一つ分以上小さいくせに、この目線の高さ、そして広さ。
はるかは昔からそうだった。
それが当たり前のことみたいに、宇宙の果てまでその瞳の中に閉じ込めようとするのだ。
──だから…夏は怖い
そう言って震えていたつい数分前の姿が、まるで別人のように。
「…あのさ、」
「うん?」
「来年の夏は、もっと楽しくなるといいな」
その言葉は、まだ自分の声から浮いているように感じたけれど。
星空の中に映し出された自分は、なかなかに悪くない表情をしていたように思う。
「はるか」
休憩に入り校舎へと戻っていく生徒たちの中にいても、はるかには何ら不審な点はなかった。
だが、言われてみれば感じ取れるものがある。
“言われてみれば”なのが非常に癪だが。
「瑛くん!リレー速かったね、お疲れさま」
「それははるかだろ…今から昼飯持って理科室来て。旧館の方」
「え?なんで?」
「なんでも」
首を傾げた表情は何も理解していない様子だが、それでも言う通りにしてくれるのには正直心配になる。
「勝手に入っていいの?」
「監督の庭だから、なんか言われたら野球部の用って言えばいいよ」
「わたし吹部…」
「いいから」
扉を開けてはるかを押し込むと、誰もいないその部屋は冷気に満ちていて、天国のようだった。
授業用のグラウンドに近い旧館は全館空調のシステムが古く、部屋毎の制御ができないらしい。
体育祭では旧館の保健室を一時救護室として使っているので、用のない部屋でもこの通りキンキンというわけである。
「すずし…」
はるかも無意識に呟いていた。
「はい座る」
「わ、」
「これとこれと、はいこれ」
「ひゃ!」
首筋にアイスバッグを押し付けるなり上がった声は、デジャヴのようだ。
机の上に並べたドリンクと、塩分タブレットと、隣に座った瑛の顔を交互に見るはるか。
「飯は?食えそ?」
「…ちょっと、微妙かも」
「んじゃこれ」
保冷バッグから取り出したゼリー飲料も、机に並べた。
「び、備品ですか」
「アイスバッグはそうだけど、他は俺の。だから遠慮すんな」
「…」
「そこまでではないと思ってここにしたけど、もし横になりたかったら救護室連れてくけど?」
「ううん、ここで大丈夫。ありがとう…」
はるかは気持ちよさそうにアイスバッグに頬を寄せた。
どうやら抵抗する気はないようだ。
「逆に寒くなったらすぐ言えよ、上着あるから」
「瑛くん、頼もしくなったね…」
気を張っていたのが解けたのか、ぼんやりとした表情で笑う。
頬は薄っすらと赤く、やはりこの暑さが堪えていたのが分かった。
「…だから水分摂れって言ったのに」
「うー…ごめんなさい。意外とバタバタしてて」
確かに、どうも競技出場者の招集が早すぎるので、ちょくちょく出番があったはるかはテントにいる時間も短かっただろう。
もっとも瑛は、毎回招集時間を無視してダラダラしていたが。
「あ、瑛くん食べる?これ…」
はるかがおずおずと差し出したのは、シンプルなランチバッグ。
よく見るとはるかの好きな球団のロゴマークが、それを知らない者であれば到底気付かないほどさりげなくあしらわれている。
はるかがそんなふうに差し出すということは、中身は自分で作っているのだろう。
「え、いいの?」
「うん、ちょっと食べられそうにないし。交換…?」
「やった」
ランチボックスも球団グッズで笑いそうになりながら蓋を開けると、実に健康的なおかずだった。
「いただきます」
「つまらないものですが…」
実家で食べていた父親の料理や、鷺嶋に来てから覚えた食堂の味とも違う、やさしい味付け。
噛むほどに素材の旨みを感じられて、満足感は十分だった。
「うまい」
「ふふ。塩分控えてるから、若い子には味薄いかもしれないけどね」
「若い子って、そんな変わんねえじゃん」
次々口に入れていると、はるかは笑った。
「瑛くん、食べるの早すぎだよ」
「あ、悪い!味わってはいるんだけど…」
「ううん、それはいいの。忙しい中いっぱい食べないといけないもんね。でも、30回は噛んで」
「サンジュッカイ…」
頭の中で数えながら噛むと、また笑われた。
ばつが悪いので話題を変える。
「…家では、はるかが飯作ってんの?」
「うん。学費以外、全面的にお世話になっちゃってるからね」
父方の祖父母の家に身を寄せているというはるか。
母親とのことも、気になるがまだ聞けていない。
「…夏、苦手?」
次はそう問いかけてみると、少し困った顔をした。
そのまま少し考えて、そっと口を開く。
「…暑いのは、少し苦手。でもそれより…気持ちの問題かな」
はるかの手の中で、アイスバッグがカラカラと音を立てた。
「事故で、おじいちゃんとおばあちゃんが亡くなったのも。6歳のとき、お父さんが亡くなったのも…夏だったの。だから…夏は怖い」
その声は存外落ち着いていたけど、瞳は揺れていた。
気の利いたことの一つも言えないまま、蝉の声だけがけたたましく響く。
──そっか、君たち付き合ってるわけじゃなかったんだ
余計なことを思い出して、少し躊躇する。
それでもやっぱり、あの頃より小さくなった身体を抱き寄せるほかに、どうすればいいのか分からなかった。
「あ、わたし、汗かいたから…」
「お互い様だろ」
はじめからそんなことは気にもしていなかったが、むしろはるかからはどこか爽やかな香りがした。
一体どういう原理なんだと内心首を傾げながら頭を撫でると、はるかが少しだけ体重を預けてくれるのを感じた。
「…今年の夏は、少し楽しいよ」
「うん?」
「形は違えど、音楽ができて。全国いけなくて悔しかった。音楽で誰かと競うなんて、心の中でなんか違くない?とも思ってたのに」
「…うん」
「あとね、お父さんの部屋に、入れたの。そこにはお父さんが昔弾いてたピアノがあって、ずっとそのままにしてあるの。今まで部屋に入ることすら、できなかったんだ」
はるかがアイスバッグをぎゅっと握る。もう氷の音はしなかった。
「入れただけで、ピアノには触れられないんだけどね」
「…はるかにとっては、大きな進歩だろ」
そう返すと、はるかは顔を上げた。
ふいにすぐそばで見ると圧倒されるような瞳。
「うん…!」
そんな瞳で、そんなふうに笑うから、なんだか頭がおかしくなりそうだ。
「…それとね、昼も夜も野球が面白い」
少し言いづらそうにするのがいじらしくて、また頭を撫でる。
「甲子園も観てんの?」
「去年までは守備範囲外だったんだけど、今年からね。瑛くんが戦っているのはどんな世界なんだろうって気になって、それから…」
「おいおい、嫌みか?土俵にすら立ってねえんだぞ」
「え?」
もう一度顔を上げたはるかは、心底不思議そうな表情をしていた。
「瑛くんが今してる練習の先に、あの場所があるんでしょう?もうとっくに、土俵の上でしょ」
至極当然のように言ってのけたはるかに、胸の鼓動がずしりと重たくなった。
ぴったりとくっついているはるかにも伝わってしまいそうで焦る。
そんなことも知らず、はるかは続けた。
「予選での瑛くんにはほんとに驚いたよ…あの頃よりこんなに大きくなったのに、まるで小動物のような機動力!打撃センスも磨かれて、今後が楽しみなような、もはや恐ろしいような…!」
「…それ褒めてんのかよくわかんねえよ」
「褒めてるよ!ハリアーズのフロントは早くこの子を見つけて欲しい」
「どうせならウォルラスに見つかりてえよ」
呆れたように笑ってみせるけど、薄っすらと冷や汗まで浮かんできた気がする。
瑛より頭一つ分以上小さいくせに、この目線の高さ、そして広さ。
はるかは昔からそうだった。
それが当たり前のことみたいに、宇宙の果てまでその瞳の中に閉じ込めようとするのだ。
──だから…夏は怖い
そう言って震えていたつい数分前の姿が、まるで別人のように。
「…あのさ、」
「うん?」
「来年の夏は、もっと楽しくなるといいな」
その言葉は、まだ自分の声から浮いているように感じたけれど。
星空の中に映し出された自分は、なかなかに悪くない表情をしていたように思う。