[coda]それからの話
103
小学校1年生で野球をはじめ、中高と続けた末に今はプロの世界で戦っており、文字通り野球しかしていない瑛にとって“海外に行く”というのは人生初の体験だった。
今や師匠のような存在ともいえる、ベテラン遊撃手の故障以来一軍での出場機会が増え、飛行機には何度か乗るようになった。
しかし国境を超え、ほぼ丸一日を空の上で過ごすような旅は、チケットを手にしても尚想像もつかない。
だけど“大学生のはるか”に会いに行くというのは、きっとこれが最初で最後になるだろうから。
彼は故障から無事一軍へ復帰したものの、自身が思うようなプレーはできず、ついに引退を決意した。
突然の知らせにファンは動揺していたが、チームメイトたちは数年前から“そろそろ”という意志を本人から聞いていたので、驚きはなかった。
それでも、プレーだけでなく精神面でも支柱となっていた彼が現役生活を終えるという事実には、何か一つの時代が終わりを迎えようとしているような、そんな喪失感を誰もが覚えた。
そんなチームメイトたちにも、彼はいつものように明るい声で言い放ったのだった。
──やっと後を任せられるヤツが現れてくれた。他にもお前らの場所を狙っているヤツらがいっぱいいるんだ。気合入れろよ!
これからチームを引っ張っていく世代にも、二軍、三軍の若手たちにも、そしてもちろん瑛にも。
その言葉は、チーム全員の胸に強く刻み込まれた。
──俺より先に出ていくんじゃない
彼が涙を流す姿を見たのは挨拶の後、人気のない通路でそう言った藤堂の前で。
その、たった一回だけだった。
始発の便で日本を出て、ほぼ一日かけてここボストンに降り立ったというのに、電光掲示板に表示された日付は出た時と同じで頭がおかしくなる。
当たり前だがガラスの向こう側は外国人ばかりで、同じ飛行機に乗ってきた日本人たちも、慣れた様子であっという間にどこかへ散っていった。
「あ」
そんな彼らを呆然と見送っていると、外国人たちの中では一層小さく見えるその姿が見えた。
向こうも瑛に気が付いたようで、ぴょんぴょんと飛び跳ねながら手を振っているのがうさぎみたいだ。
「瑛くん!ようこそ!身体きつくない?」
「あー、なんとなくだるいけど、まあ大丈夫」
すっかり高校時代と同じくらいに伸びた髪が、肩口でさらさらと揺れる。
瑛を見上げるその面持ちは、高校時代よりもずいぶん大人っぽくなった。
今夜日付が変われば21歳を迎えるはるかなので、“ぽい”というよりもう本当に大人なのかもしれないけれど。
かくいう瑛も、数日前に20歳になった。
お酒も飲める年齢となり、18歳が成人とされるようになった昨今でも、一つ大きな節目のような気がしている。
「疲れてるだろうしタクシー乗ろっか。一旦ゆっくり休憩できたらいいんだけど…余裕なくてごめんね」
「いやいや、こっちこそ本番前に迎えに来させて、悪い」
エントランスに並んだタクシーに乗り込み、運転手に行先を告げるはるかに、唖然とする。
二度もアメリカの学校に通い、直近でももう3年住んでいるのだから当然ではあるのだが、あまりに流暢な発音についぎょっとしてしまった。
窓の外を流れる景色は、まるで映画の中のような世界だ。
「会場についたらすぐリハに行かないといけないんだけど…圭さんの幼馴染の、カーラさんって人が一緒にいてくれることになってるから!」
圭、という名前にぴくりと眉が跳ねる。
「カーラさん去年から趣味で日本語勉強してて、すっごく上手だから安心して!」
「圭ってやつもいんの?今日」
「いるっていうか、圭さんも出るんだけど…学校の友達はほとんどいるから、そこに変な意味はないよ!」
──はるかになくても、ソイツにとってはどうかねえ。
重苦しい感情が胸の中に漂うが、せっかくの日なのでどうにか考えないことにした。
今夜、名門ジャズ・クラブで、少し早めのクリスマスイベントが開かれる。
有名なミュージシャンから地元の若手まで、様々な演者たちがステージに立つこのイベントで、はるかは同じ大学の仲間たちとのバンドで──そして、ピアノ・ソロでも演奏することになっているのだ。
はるかは4年生にはならず、次のクォーターで卒業することを決めた。
ずいぶん前に卒業に必要な単位は取得し、あとは純粋にただの教養としていくつか授業を受け、そして学内の設備を使うためだけに籍を置いているような状態なので、教師からも冗談交じりに“そろそろ出て行ってくれ”と言われたらしい。
つくづく計り知れない人である。
既にあちこちのジャズ・クラブでステージの常連となっていたはるかだけど、今回のイベントはこれまでで最大の規模だった。
そこへ瑛を招待するのは、はるかにとってとても大きな決断だった。
はるかがピアノを弾けなくなったあの日。
ここボストンでのはるかのライブを観に来た祖父母が、宿泊先で火事に遭い亡くなった、あの日。
それを乗り越えなければ、本当の意味で前に進むことはできない気がした。
──大丈夫、俺は死なない。
電話口で聞いた瑛の声を思い出しながら、隣で同じ車に揺られる横顔を見上げる。
瑛もまた、はるかを真っ直ぐに見つめていた。
何度だって新しい景色を見せてくれるあなたなら。
そして、そんなあなたに、わたしも新しい景色を。
その無言の決意が伝わったのか、瑛の瞳がす、と細められた。
そしてそっと、手に手が重なる。
オフシーズンでも変わらず、はっとするほどに硬い手だった。
「コンニチハ!あなたがウワサのアキラね。ハルカの言う通り男前!」
レンガ造りの建物──この辺りではだいたいがそうだが──の前でタクシーを降りるなり、見るからに快活そうな女性が飛び出してきた。
「ちょっと!」
「ふーん、“男前”なんだ?俺」
「う、いや、その…!」
「ワーオ!ハルカがオトメの顔してる!はじめて見た!」
聞いていた通り、カーラはまったく会話に困らないレベルで日本語を習得しているようだった。
すぐに誰かに呼ばれて、申し訳なさそうに奥へ引っ込んでいったはるかの代わりに、スタッフらしき人に瑛の荷物を預けてくれた。
そんなカーラがふいに英語で何か言い出したかと思えば、数名で固まっていたグループが近付いてくる。
何を言っているかはまったく分からないが、好奇の目を向けられていることだけは分かった。
国籍も様々に見える彼らが口々にハルカ、ハルカと言う光景は、なんだか誇らしいような腹立たしいような気もした。
ほぼ瑛本人はそっちのけで繰り広げる会話を放置していると、すらりと手足の長い男がどこからともなく加わってきた。
はるかが送ってくれるステージでの動画にかなりの高確率で写り込んでいるこの男は、もしかしなくても。
「あれ、君もしかして英語ダメなの?」
わざとらしく怪訝そうな表情を浮かべて、日本語で問いかけられる。
「あー、だから本番前なのにはるかがお迎え行ってたんだ」
「ちょっとケイ!」
すかさずカーラが窘める。
それでも圭はニヤニヤと笑っていた。
「うわ、圭さん絶対瑛くんにウザ絡みしてるでしょ!」
果てしなく居心地の悪い空気を、一瞬で薙ぎ払ってくれる声。
はるかがぎゅっと眉を寄せた表情で、瑛と圭の間に立った。
「この子、ろくに会話もできないのにお姉ちゃんに会いに来ちゃったの?かわいい坊やだね」
「会話ができて失礼な人よりマシだと思いますけど?」
「ん?誰のこと?」
「瑛くんは野球IQに全振りしてますから!バットとグローブ持たせたら天才ですから!」
微妙にフォローになっていないようなセリフを叫ぶはるかに頬を緩めながら、瑛はその肩をそっと引き寄せた。
「はるか、いいよ」
「よくないよ!乱闘は参加しないと罰金ですよ!」
「いいから球界の不文律は」
どうどうと背中をさすっても、一向に怒りが収まらない様子のはるか。
そんなはるかを、瑛は突然、包み込むように抱き締めた。
学友たちや、ちらちらとこちらを見ていた他の客たちの目の前で。
「俺のために怒ってくれんのはかわいいけど、そんな顔も他のやつには見せたくねえから」
ワーオ!とカーラがなぜだか嬉しそうな声を上げ、拍手までするものだから、周りも訳も分からずそれに続いた。
はるかは耳まで真っ赤にして、声にならない声を上げて瑛を見上げる。
今や圭のことなどすっかり眼中にないだろうその様子に、ますます頬が緩んだ。
外の世界では日が傾き始めた頃、いよいよイベントの幕が上がった。
学生たちの演奏は前座のようなポジションのようで、はるかたちの出番は割と早々に訪れた。
彼らの演奏は動画で観るよりもずっと迫力があって、ずっとエネルギッシュだった。
メンバーの中でも特にレベルの高いはるかのピアノと、そして圭のサックスの掛け合いには、はじめはどこか微笑ましげに眺めていた観客たちも一気に盛り上がっていた。
「…なんだかハルカ、いつもと全然違う」
曲間、隣でカーラが呟く。
表情から鑑みるに、それは悪い意味ではないようだけど、瑛がそれに気付けないことがなんとなく悔しい気がした。
バンドでの出番が終わった後、はるかは一度瑛のもとへ出てきてくれた。
カーラはそんなふたりに気を遣ったのか、バーカウンターの方へ移動していった。
ふたり並んで、ステージを見る。
時折短い会話を交わしながら、曲がはじまれば音の世界へと釘付けになるはるかの瞳を、じっと見つめながら。
転換の間は必ずといっていいほど、誰かしらがはるかと言葉を交わしにやってきた。
相変わらず会話の内容は分からないが、はるかがふいに頬を染めながら瑛の方を見て、それを相手が温かい目で見守る流れが何度も繰り返されていて、どうにも悪い気はしなかった。
「それじゃあ、そろそろまたいってくるね」
はるかが席を立つ頃、夜は深まり、はじめはまばらだったフロアも観客たちで溢れかえっていた。
大半は彼女の後に登場する、ベテランミュージシャンたちの演奏を目当てに。
そんな彼らに、この小さな少女──今はもう女性、と言った方が正しいだろうか──がたったひとり、挑戦状を叩き付ける。
「頑張れよ」
「…ふふ、うん!」
なんとも月並みな言葉しかかけられなかったけれど、はるかは心底嬉しそうな笑みを残して歩いて行った。
瑛から与えるどんなものでも、はるかはこんなふうに、心から大切に受け取ってくれるのだ。
スポットライトに照らされた、一台のグランドピアノ。
そこへ悠然と歩み寄るはるかを、あたたかい拍手が迎えた。
日本人らしく深々とお辞儀をして、顔を上げたその瞳にはっとする。
──ここにいる全員、一人残らず本気にしてやる。
そんな強い意志を感じる、輝きと熱がそこにあった。
艶やかな黒髪をさらりと流す。
ノースリーブのドレスから伸びる白くて細い腕が、小さな手が、白と黒の世界へと伸ばされた。
そっと触れるように。
それから、やんわりと撫ぜるように、可憐な音色が浮かんでは消えていく。
それを何度か繰り返した後、少しの沈黙とともに、空気が変わった。
風を受け、空を舞う鳥のように軽快に跳ねるリズム。
厚い雲の向こうに差し込む光のように、希望に溢れた音色。
それでいてどこか儚さや、哀しさを感じさせるその空気感に、ぎゅっと胸が詰まった。
凪いだ海のような眼差しで鍵盤を見つめていたはるかが、ふと顔を上げた。
観客たちの目には見えない、彼女だけの音の世界を見つめているようなその横顔は、なんだかこの世のものとは思えないほどに美しかった。
リズムに合わせてわずかに身体を揺らしながら、ある時ふと、その瞳は何かを見つけたように強く輝いた。
テラコッタに彩られた唇が、小さく弧を描く。
その瞬間なぜだか、ぐらりと視界が揺らいだ。
水面のような世界の中に、ピアノの音が響き渡る。
いつかのように彼女は、その腕を目一杯伸ばして、小さな手で踊っていた。
数メートルは離れているであろうステージの上にいる彼女が、なぜだかすぐそばで抱き締めてくれている気がした。
ただふたり、手を取り合って、お互いだけを見つめ合っている、そんな夢を見ていた。
はるかもまた、生まれたての星のように燃えるその瞳に、同じ景色を浮かべていた。
彼女の演奏に息を呑む、満員の観客たちの中で。
ただ、ふたり。
「やっぱり僕は、はるかはもっと広い世界で生きていくべきだと思うよ」
スタンディングオベーションに見送られ、ステージを去ったはるかが、再び客席に戻るなり圭が言った。
「あんたねえ…あんな演奏聴いて、まだそんなこと言うの?」
「聴いたからだよ。いい加減分かってよ、あの歓声がすべての答えだよ」
飄々とした雰囲気から一転、語気を強めた圭の様子に、瑛は咄嗟にはるかを背に隠した。
その背にそっと手を添えて、はるかが圭の前に立つ。
「それがあなたの答えでも、わたしの答えではありません」
「え…?」
「どんなに広くたって、瑛くんがいない世界なら、わたしはいりません」
その瞳はステージにいた時と同じように、きらきらと輝いていた。
「瑛くんのそばでピアノを弾くことがわたしの、ただひとつの生き方なんです」
その言葉には圭も、心配そうに見ていたカーラも、そして瑛も、それぞれに違う意味で息を呑んだ。
「…私はね、ハルカにとって、ピアノを弾くことが一番自然なことなんだろうなって思ってたの」
バーカウンターから持ってきたらしいグラスを傾けながら、カーラが口を開いた。
「眠ること、呼吸をすること、食べること…それと同じように。言葉を話すことよりも、ずっと」
「それは、俺もそう思います」
瑛は頷くと、カーラは微笑みながらゆっくりと首を振った。
「だけど違った。今日の演奏を観ていて気が付いた。“アキラのそばで” ピアノを弾くことが、一番自然なことなのね」
きっとそれが、“いつもと全然違う”という言葉の意味。
「それに気付けないなら、そんなあんたの言う“世界”なんてくだらないと思うけど?」
カーラにそう言われて、圭は黙り込んだ。
──たぶんだけど、こいつは気付いていたんだろう。
その目にはもう、ステージではるかとともに演奏していた時のような輝きは、見えなかったから。
はるかが住むアパートは、他の多くの建物と同じようにレンガ造りの外観ながら、中に入ると意外と日本でもよく見るような様相だった。
「ここで靴を脱いでね」
扉を開けてすぐの足元に敷かれたマットが、玄関代わりということらしい。
卒業式の日、はじめてはるかとふたりだけで一晩過ごして以来、“一人暮らしの家に上がる”というのはまた一段とレベルの高いことのように感じながら、スリッパに足を滑り込ませた。
いかにも“学生の一人暮らし”といった様子の、小さな部屋。
実家のはるかの部屋のように物は少なく、ピアノは見当たらなかった。
「音大生向けの物件にしなかったからね。ゆっくり休むために、家ではピアノは弾かないの」
だからこそ夜遅くまで学校に残っていたり、いつでも卒業できる状況になっても学生であり続けることを選んでいたのだろう。教師から煙たがられるほどに。
ひとまず並んでソファに腰を下ろした頃、時計の針は既に日付が変わる直前を指していた。
「明日、誕生日祝いで飲みにでも行く?」
「残念瑛くん、アメリカでは21歳からですよ」
「マジ?あー、そういうことか。俺のこと待っててくれたのかと思ってた」
「あはは。そこまでロマンチックじゃなくてごめん」
昨年20歳を迎えてからも一向にお酒を飲んだという話を聞かないので、てっきり“はじめて飲む時は瑛くんと一緒に”なんて考えているんだろうという結論に至っていた自分に頭を抱える。
「…まあ別に、はるかだけ飲んでもいいけど」
「ううん。それなら日本に帰るまでとっておくよ」
穏やかに笑う顔を、そっと引き寄せる。
唇を重ねた瞬間、時計の針がカチリと音を立てた。
「はるか…誕生日、おめでとう」
なぜだか急に照れくさくなって、もう一度口付ける。
はるかもそれに応えてくれた。
そして瑛の背中にぎゅっと腕を回したので、驚いてつい固まってしまった。
「…怖かった、すごく」
瑛のパーカーを握り締めた手が、震えていた。
「今も少し怖い。帰るまで何があるか、わからないから」
「はるか…」
「でもごめん。ここに一緒にいれば…何が起きても、ひとりぼっちには、ならないなって…思う」
たとえそれが、あの日と同じ悲劇だとしても。
瑛にとっては、何よりの愛の言葉だと感じた。
「はるか。俺にも、幸せな景色を見せてくれてありがとう」
「…うん」
「ふたりで、ずっと一緒にいよう。ずっと、最後まで」
腕の中で頷いたはるかを、そっとソファに沈ませる。
さらさらと流れる髪が、まるで流れ星のようできれいだった。
小学校1年生で野球をはじめ、中高と続けた末に今はプロの世界で戦っており、文字通り野球しかしていない瑛にとって“海外に行く”というのは人生初の体験だった。
今や師匠のような存在ともいえる、ベテラン遊撃手の故障以来一軍での出場機会が増え、飛行機には何度か乗るようになった。
しかし国境を超え、ほぼ丸一日を空の上で過ごすような旅は、チケットを手にしても尚想像もつかない。
だけど“大学生のはるか”に会いに行くというのは、きっとこれが最初で最後になるだろうから。
彼は故障から無事一軍へ復帰したものの、自身が思うようなプレーはできず、ついに引退を決意した。
突然の知らせにファンは動揺していたが、チームメイトたちは数年前から“そろそろ”という意志を本人から聞いていたので、驚きはなかった。
それでも、プレーだけでなく精神面でも支柱となっていた彼が現役生活を終えるという事実には、何か一つの時代が終わりを迎えようとしているような、そんな喪失感を誰もが覚えた。
そんなチームメイトたちにも、彼はいつものように明るい声で言い放ったのだった。
──やっと後を任せられるヤツが現れてくれた。他にもお前らの場所を狙っているヤツらがいっぱいいるんだ。気合入れろよ!
これからチームを引っ張っていく世代にも、二軍、三軍の若手たちにも、そしてもちろん瑛にも。
その言葉は、チーム全員の胸に強く刻み込まれた。
──俺より先に出ていくんじゃない
彼が涙を流す姿を見たのは挨拶の後、人気のない通路でそう言った藤堂の前で。
その、たった一回だけだった。
始発の便で日本を出て、ほぼ一日かけてここボストンに降り立ったというのに、電光掲示板に表示された日付は出た時と同じで頭がおかしくなる。
当たり前だがガラスの向こう側は外国人ばかりで、同じ飛行機に乗ってきた日本人たちも、慣れた様子であっという間にどこかへ散っていった。
「あ」
そんな彼らを呆然と見送っていると、外国人たちの中では一層小さく見えるその姿が見えた。
向こうも瑛に気が付いたようで、ぴょんぴょんと飛び跳ねながら手を振っているのがうさぎみたいだ。
「瑛くん!ようこそ!身体きつくない?」
「あー、なんとなくだるいけど、まあ大丈夫」
すっかり高校時代と同じくらいに伸びた髪が、肩口でさらさらと揺れる。
瑛を見上げるその面持ちは、高校時代よりもずいぶん大人っぽくなった。
今夜日付が変われば21歳を迎えるはるかなので、“ぽい”というよりもう本当に大人なのかもしれないけれど。
かくいう瑛も、数日前に20歳になった。
お酒も飲める年齢となり、18歳が成人とされるようになった昨今でも、一つ大きな節目のような気がしている。
「疲れてるだろうしタクシー乗ろっか。一旦ゆっくり休憩できたらいいんだけど…余裕なくてごめんね」
「いやいや、こっちこそ本番前に迎えに来させて、悪い」
エントランスに並んだタクシーに乗り込み、運転手に行先を告げるはるかに、唖然とする。
二度もアメリカの学校に通い、直近でももう3年住んでいるのだから当然ではあるのだが、あまりに流暢な発音についぎょっとしてしまった。
窓の外を流れる景色は、まるで映画の中のような世界だ。
「会場についたらすぐリハに行かないといけないんだけど…圭さんの幼馴染の、カーラさんって人が一緒にいてくれることになってるから!」
圭、という名前にぴくりと眉が跳ねる。
「カーラさん去年から趣味で日本語勉強してて、すっごく上手だから安心して!」
「圭ってやつもいんの?今日」
「いるっていうか、圭さんも出るんだけど…学校の友達はほとんどいるから、そこに変な意味はないよ!」
──はるかになくても、ソイツにとってはどうかねえ。
重苦しい感情が胸の中に漂うが、せっかくの日なのでどうにか考えないことにした。
今夜、名門ジャズ・クラブで、少し早めのクリスマスイベントが開かれる。
有名なミュージシャンから地元の若手まで、様々な演者たちがステージに立つこのイベントで、はるかは同じ大学の仲間たちとのバンドで──そして、ピアノ・ソロでも演奏することになっているのだ。
はるかは4年生にはならず、次のクォーターで卒業することを決めた。
ずいぶん前に卒業に必要な単位は取得し、あとは純粋にただの教養としていくつか授業を受け、そして学内の設備を使うためだけに籍を置いているような状態なので、教師からも冗談交じりに“そろそろ出て行ってくれ”と言われたらしい。
つくづく計り知れない人である。
既にあちこちのジャズ・クラブでステージの常連となっていたはるかだけど、今回のイベントはこれまでで最大の規模だった。
そこへ瑛を招待するのは、はるかにとってとても大きな決断だった。
はるかがピアノを弾けなくなったあの日。
ここボストンでのはるかのライブを観に来た祖父母が、宿泊先で火事に遭い亡くなった、あの日。
それを乗り越えなければ、本当の意味で前に進むことはできない気がした。
──大丈夫、俺は死なない。
電話口で聞いた瑛の声を思い出しながら、隣で同じ車に揺られる横顔を見上げる。
瑛もまた、はるかを真っ直ぐに見つめていた。
何度だって新しい景色を見せてくれるあなたなら。
そして、そんなあなたに、わたしも新しい景色を。
その無言の決意が伝わったのか、瑛の瞳がす、と細められた。
そしてそっと、手に手が重なる。
オフシーズンでも変わらず、はっとするほどに硬い手だった。
「コンニチハ!あなたがウワサのアキラね。ハルカの言う通り男前!」
レンガ造りの建物──この辺りではだいたいがそうだが──の前でタクシーを降りるなり、見るからに快活そうな女性が飛び出してきた。
「ちょっと!」
「ふーん、“男前”なんだ?俺」
「う、いや、その…!」
「ワーオ!ハルカがオトメの顔してる!はじめて見た!」
聞いていた通り、カーラはまったく会話に困らないレベルで日本語を習得しているようだった。
すぐに誰かに呼ばれて、申し訳なさそうに奥へ引っ込んでいったはるかの代わりに、スタッフらしき人に瑛の荷物を預けてくれた。
そんなカーラがふいに英語で何か言い出したかと思えば、数名で固まっていたグループが近付いてくる。
何を言っているかはまったく分からないが、好奇の目を向けられていることだけは分かった。
国籍も様々に見える彼らが口々にハルカ、ハルカと言う光景は、なんだか誇らしいような腹立たしいような気もした。
ほぼ瑛本人はそっちのけで繰り広げる会話を放置していると、すらりと手足の長い男がどこからともなく加わってきた。
はるかが送ってくれるステージでの動画にかなりの高確率で写り込んでいるこの男は、もしかしなくても。
「あれ、君もしかして英語ダメなの?」
わざとらしく怪訝そうな表情を浮かべて、日本語で問いかけられる。
「あー、だから本番前なのにはるかがお迎え行ってたんだ」
「ちょっとケイ!」
すかさずカーラが窘める。
それでも圭はニヤニヤと笑っていた。
「うわ、圭さん絶対瑛くんにウザ絡みしてるでしょ!」
果てしなく居心地の悪い空気を、一瞬で薙ぎ払ってくれる声。
はるかがぎゅっと眉を寄せた表情で、瑛と圭の間に立った。
「この子、ろくに会話もできないのにお姉ちゃんに会いに来ちゃったの?かわいい坊やだね」
「会話ができて失礼な人よりマシだと思いますけど?」
「ん?誰のこと?」
「瑛くんは野球IQに全振りしてますから!バットとグローブ持たせたら天才ですから!」
微妙にフォローになっていないようなセリフを叫ぶはるかに頬を緩めながら、瑛はその肩をそっと引き寄せた。
「はるか、いいよ」
「よくないよ!乱闘は参加しないと罰金ですよ!」
「いいから球界の不文律は」
どうどうと背中をさすっても、一向に怒りが収まらない様子のはるか。
そんなはるかを、瑛は突然、包み込むように抱き締めた。
学友たちや、ちらちらとこちらを見ていた他の客たちの目の前で。
「俺のために怒ってくれんのはかわいいけど、そんな顔も他のやつには見せたくねえから」
ワーオ!とカーラがなぜだか嬉しそうな声を上げ、拍手までするものだから、周りも訳も分からずそれに続いた。
はるかは耳まで真っ赤にして、声にならない声を上げて瑛を見上げる。
今や圭のことなどすっかり眼中にないだろうその様子に、ますます頬が緩んだ。
外の世界では日が傾き始めた頃、いよいよイベントの幕が上がった。
学生たちの演奏は前座のようなポジションのようで、はるかたちの出番は割と早々に訪れた。
彼らの演奏は動画で観るよりもずっと迫力があって、ずっとエネルギッシュだった。
メンバーの中でも特にレベルの高いはるかのピアノと、そして圭のサックスの掛け合いには、はじめはどこか微笑ましげに眺めていた観客たちも一気に盛り上がっていた。
「…なんだかハルカ、いつもと全然違う」
曲間、隣でカーラが呟く。
表情から鑑みるに、それは悪い意味ではないようだけど、瑛がそれに気付けないことがなんとなく悔しい気がした。
バンドでの出番が終わった後、はるかは一度瑛のもとへ出てきてくれた。
カーラはそんなふたりに気を遣ったのか、バーカウンターの方へ移動していった。
ふたり並んで、ステージを見る。
時折短い会話を交わしながら、曲がはじまれば音の世界へと釘付けになるはるかの瞳を、じっと見つめながら。
転換の間は必ずといっていいほど、誰かしらがはるかと言葉を交わしにやってきた。
相変わらず会話の内容は分からないが、はるかがふいに頬を染めながら瑛の方を見て、それを相手が温かい目で見守る流れが何度も繰り返されていて、どうにも悪い気はしなかった。
「それじゃあ、そろそろまたいってくるね」
はるかが席を立つ頃、夜は深まり、はじめはまばらだったフロアも観客たちで溢れかえっていた。
大半は彼女の後に登場する、ベテランミュージシャンたちの演奏を目当てに。
そんな彼らに、この小さな少女──今はもう女性、と言った方が正しいだろうか──がたったひとり、挑戦状を叩き付ける。
「頑張れよ」
「…ふふ、うん!」
なんとも月並みな言葉しかかけられなかったけれど、はるかは心底嬉しそうな笑みを残して歩いて行った。
瑛から与えるどんなものでも、はるかはこんなふうに、心から大切に受け取ってくれるのだ。
スポットライトに照らされた、一台のグランドピアノ。
そこへ悠然と歩み寄るはるかを、あたたかい拍手が迎えた。
日本人らしく深々とお辞儀をして、顔を上げたその瞳にはっとする。
──ここにいる全員、一人残らず本気にしてやる。
そんな強い意志を感じる、輝きと熱がそこにあった。
艶やかな黒髪をさらりと流す。
ノースリーブのドレスから伸びる白くて細い腕が、小さな手が、白と黒の世界へと伸ばされた。
そっと触れるように。
それから、やんわりと撫ぜるように、可憐な音色が浮かんでは消えていく。
それを何度か繰り返した後、少しの沈黙とともに、空気が変わった。
風を受け、空を舞う鳥のように軽快に跳ねるリズム。
厚い雲の向こうに差し込む光のように、希望に溢れた音色。
それでいてどこか儚さや、哀しさを感じさせるその空気感に、ぎゅっと胸が詰まった。
凪いだ海のような眼差しで鍵盤を見つめていたはるかが、ふと顔を上げた。
観客たちの目には見えない、彼女だけの音の世界を見つめているようなその横顔は、なんだかこの世のものとは思えないほどに美しかった。
リズムに合わせてわずかに身体を揺らしながら、ある時ふと、その瞳は何かを見つけたように強く輝いた。
テラコッタに彩られた唇が、小さく弧を描く。
その瞬間なぜだか、ぐらりと視界が揺らいだ。
水面のような世界の中に、ピアノの音が響き渡る。
いつかのように彼女は、その腕を目一杯伸ばして、小さな手で踊っていた。
数メートルは離れているであろうステージの上にいる彼女が、なぜだかすぐそばで抱き締めてくれている気がした。
ただふたり、手を取り合って、お互いだけを見つめ合っている、そんな夢を見ていた。
はるかもまた、生まれたての星のように燃えるその瞳に、同じ景色を浮かべていた。
彼女の演奏に息を呑む、満員の観客たちの中で。
ただ、ふたり。
「やっぱり僕は、はるかはもっと広い世界で生きていくべきだと思うよ」
スタンディングオベーションに見送られ、ステージを去ったはるかが、再び客席に戻るなり圭が言った。
「あんたねえ…あんな演奏聴いて、まだそんなこと言うの?」
「聴いたからだよ。いい加減分かってよ、あの歓声がすべての答えだよ」
飄々とした雰囲気から一転、語気を強めた圭の様子に、瑛は咄嗟にはるかを背に隠した。
その背にそっと手を添えて、はるかが圭の前に立つ。
「それがあなたの答えでも、わたしの答えではありません」
「え…?」
「どんなに広くたって、瑛くんがいない世界なら、わたしはいりません」
その瞳はステージにいた時と同じように、きらきらと輝いていた。
「瑛くんのそばでピアノを弾くことがわたしの、ただひとつの生き方なんです」
その言葉には圭も、心配そうに見ていたカーラも、そして瑛も、それぞれに違う意味で息を呑んだ。
「…私はね、ハルカにとって、ピアノを弾くことが一番自然なことなんだろうなって思ってたの」
バーカウンターから持ってきたらしいグラスを傾けながら、カーラが口を開いた。
「眠ること、呼吸をすること、食べること…それと同じように。言葉を話すことよりも、ずっと」
「それは、俺もそう思います」
瑛は頷くと、カーラは微笑みながらゆっくりと首を振った。
「だけど違った。今日の演奏を観ていて気が付いた。“アキラのそばで” ピアノを弾くことが、一番自然なことなのね」
きっとそれが、“いつもと全然違う”という言葉の意味。
「それに気付けないなら、そんなあんたの言う“世界”なんてくだらないと思うけど?」
カーラにそう言われて、圭は黙り込んだ。
──たぶんだけど、こいつは気付いていたんだろう。
その目にはもう、ステージではるかとともに演奏していた時のような輝きは、見えなかったから。
はるかが住むアパートは、他の多くの建物と同じようにレンガ造りの外観ながら、中に入ると意外と日本でもよく見るような様相だった。
「ここで靴を脱いでね」
扉を開けてすぐの足元に敷かれたマットが、玄関代わりということらしい。
卒業式の日、はじめてはるかとふたりだけで一晩過ごして以来、“一人暮らしの家に上がる”というのはまた一段とレベルの高いことのように感じながら、スリッパに足を滑り込ませた。
いかにも“学生の一人暮らし”といった様子の、小さな部屋。
実家のはるかの部屋のように物は少なく、ピアノは見当たらなかった。
「音大生向けの物件にしなかったからね。ゆっくり休むために、家ではピアノは弾かないの」
だからこそ夜遅くまで学校に残っていたり、いつでも卒業できる状況になっても学生であり続けることを選んでいたのだろう。教師から煙たがられるほどに。
ひとまず並んでソファに腰を下ろした頃、時計の針は既に日付が変わる直前を指していた。
「明日、誕生日祝いで飲みにでも行く?」
「残念瑛くん、アメリカでは21歳からですよ」
「マジ?あー、そういうことか。俺のこと待っててくれたのかと思ってた」
「あはは。そこまでロマンチックじゃなくてごめん」
昨年20歳を迎えてからも一向にお酒を飲んだという話を聞かないので、てっきり“はじめて飲む時は瑛くんと一緒に”なんて考えているんだろうという結論に至っていた自分に頭を抱える。
「…まあ別に、はるかだけ飲んでもいいけど」
「ううん。それなら日本に帰るまでとっておくよ」
穏やかに笑う顔を、そっと引き寄せる。
唇を重ねた瞬間、時計の針がカチリと音を立てた。
「はるか…誕生日、おめでとう」
なぜだか急に照れくさくなって、もう一度口付ける。
はるかもそれに応えてくれた。
そして瑛の背中にぎゅっと腕を回したので、驚いてつい固まってしまった。
「…怖かった、すごく」
瑛のパーカーを握り締めた手が、震えていた。
「今も少し怖い。帰るまで何があるか、わからないから」
「はるか…」
「でもごめん。ここに一緒にいれば…何が起きても、ひとりぼっちには、ならないなって…思う」
たとえそれが、あの日と同じ悲劇だとしても。
瑛にとっては、何よりの愛の言葉だと感じた。
「はるか。俺にも、幸せな景色を見せてくれてありがとう」
「…うん」
「ふたりで、ずっと一緒にいよう。ずっと、最後まで」
腕の中で頷いたはるかを、そっとソファに沈ませる。
さらさらと流れる髪が、まるで流れ星のようできれいだった。
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■はるかの演奏曲
Just the Two of Us/Bill Withers, William Salter, Ralph MacDonald