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[Theme 01]1年生編

10

毎朝天気予報には嘘のような数字が並び、命の危険を感じるほどの暑さだった。
その日の空には幸い薄っすらと雲がかかっていたが、それでも油断していると気が遠くなりそうだった。
こんな暑さでも、むしろもっと過酷な環境の中でも、一日中白球を追いかける球児たちに思いを馳せずにはいられない。

アナウンスと笛の音に意識を引き戻され、ここが体育祭のグラウンド、マーチングの隊列であることを思い出す。
目の前にはトロンボーンを持つ杏里の背中。
ゆるゆると視線を動かし、先頭に立つ部長のメジャーバトンを見た。

生徒の入場行進に先立ち行われる、吹奏楽部によるマーチング・パフォーマンス。
吹奏楽部に入ってすぐの頃、ビッグバンドでの演奏経験もなく、“個”のぶつかり合いであるセッションこそが日常だったはるかは、ぴったりと息を合わせて演奏するのになかなか慣れなかった。
だけどこれだけの大所帯が同じ方向を向いて、マーチングともなれば文字通り足並みを揃えて、一つの世界を創り上げていく独特な一体感は、実に心地よいものだった。

──チームプレーもこんなかんじなのかな?

そんなことを考えてテントに視線を向けると、瑛と目が合って驚いた。
幸い演奏や動作には影響しなかったが、顔には出てしまったことだろう。
瑛は、笑っている。

目を細めて、口角はゆったりと弧を描いて。
あの頃も瑛はよく笑う子だったが、はじめて見た表情だった。



開会式を終え、部員がまばらになった吹奏楽部のテントに近付く。
ハチマキの結び目に飾られた、白いうなじにペットボトルを押し付けた。

「ひっ!」
「ははは!変な声」

飛び上がりそうな勢いだったはるかは、それでも咄嗟にサックスを抱きしめている。

「瑛くん…」

きれいに結われた三つ編みの束を掬う。
自分の髪と同じ物質とは思えないほどつやつやとしていた。

「ただ結んだだけだと汗で貼り付くからね。邪魔になるし」

珍しがっていると思ったのか、はるかはそう教えてくれた。

「…後ろで結ぶのは?」
「ポニーテールって実は結構邪魔なんだよ。じっとしてるならいいけど、動いてるとバシバシ当たるの」

首に、と言いながら手をやるより先に、もう一度ペットボトルを押し付けた。

「ひゃ!」
「嘘だろ。同じ手に引っかかるとは…」
「瑛くん!こんなところで遊んでないでクラスのテント行きなさい!」
「はるかは?楽器片しに行かねえの?」

この炎天下なので、次に演奏があるまではしばらく楽器を避難させておくようで、部員たちのほとんどは既に持ち場を離れている。
片付ける様子もなく楽器を抱えたまま座っていたのは、はるかだけだった。
肌を焼くような太陽の光はテントの中にまで差し込み、サックスがチカチカと光る。

「…ああ、ちょっとぼーっとしてたの」
「だろうな」
「なっ!もう引っかからないからね!」

三度目に押し付けたペットボトルは、うなじを守った手に触れた。

「これ、やるから」
「え?」
「ちゃんと水分摂れよ。今日1日でそれ5本くらい飲め」
「お腹たぷたぷになっちゃうよ!」
「はは。ぶっ倒れるよりマシだろ」

瑛がそう言うとはるかは、笑った。

「ありがとう。瑛くんも、ケガしないでね」

少し首を傾げて、穏やかな海のように光る瞳で。
あの頃から変わらない表情だった。



午前の部の最終種目は、部活動対抗リレーだった。
優勝しても組の得点にはならない、完全なるお楽しみ種目。
一方で、ライバル関係にある部や“運動部に勝ちたい”と息巻く文化部など、何かと毎年盛り上がる種目である。

「打倒運動部!肺活量で勝負じゃー!」
「うおー!」

どうやら吹奏楽部もその一つのようだ。

「杏里ちゃん、リレーに肺活量は関係ないよ」
「なんてったって今年は月城さんがいるからな!」
「そうだよ!おはるに全部なんとかしてもらお!」
「そんな無茶な…」
「月城先輩ー!」

出場メンバーの勢いに押されていると、元気な声が聞こえた。

「高原君!こんにちは」
「こんにちは!瑛も来ますよ」
「ふたりともさすが!走塁、早いもんね」

褒められた正也は満面の笑み。実に素直だ。

「野球部はなんかムカつく!負けん!」
「あ、杏里ちゃん…」


走順ごとに分かれ、待機場所に移動するとまもなくピストルの音が鳴った。
第一走者。スタートの瞬間、正也はバトンをすっ飛ばしていた。

「何やってんだ高原ー!」

固まって見ている野球部員たちから威力抜群の檄が飛ぶ。

──うんうん、よく持ち直したよ。こけなくてよかった!

何とか再び走り出した正也へ心の中でエールを送っていると、やがて呆れた顔の瑛にバトンが渡った。
数日前に体育祭の話になった時は“部活に体力を残す”と言っていたが、何だかんだ正也のアクシデントを取り返すような追い上げを見せていく。
それでも先頭集団とはかなりの差が残るまま、次の走者にバトンが渡った。

そのまま順位が膠着したところで、はるかの走順が近づいた。
吹奏楽部は野球部の1つ前、8組中4位とまずまずだ。

スタートラインに立つと、隣に見覚えのある顔が並んだ。

「桐谷君?」
「お疲れ」

美術の授業でよく話す生徒だ。

──部活の話はしたことなかったけど、何部なんだろう…あれ?そこにいるってことは…

「もしかして、桐谷君って…」
「おはるー!頼んだあーっ!」

血管が切れそうなほど顔に力を入れて杏里が駆け込んできた。
動揺を鎮め、しっかりとバトンを受け取る。

「おはるー!」
「月城さんー!」

部員たちの声援には、明らかに期待がこもっている。

──何かとお世話になってるからなあ、恩返ししなくては。

改めて地を蹴る脚に力を込めると、グラウンドはどよめきに包まれた。

先を行くサッカー部やラグビー部たちを次々に追い越し、首位に躍り出る。
あっという間にゴールテープが見えてきた。

そこに、二度目のどよめきが上がった。

気にはなるが、今は目の前のゴールテープに集中。

また一つ気合を入れなおしたところで、わずかに視界がぐらつく。

その瞬間、目の前のゴールテープが宙を舞った。
どよめきの意味を理解する。
至って涼やかな微笑みが、首位だったはずのはるかを出迎えた。

「桐谷君って…」

先ほどの問いは、確信に変わっていた。

「うおおおーっ!チカさんすげー!!」

勢い余って裏返る正也の叫び声が、それを裏付けていたから。

「うん、野球部だよ。アレと同じね」

けらけらと笑う姿はどこか儚い印象で、たった1人で4人を追い越す走りを目の当たりにしても尚、野球部のグラウンドで汗を流す姿は想像できなかった。



「…お疲れ様です」
「ありがとう」

すべての組が走り終え、それぞれの部で整列し退場していく。
瑛はなんとなく複雑な心境で千景に声をかけた。

特にそれ以上話すこともないので、視線は自然と吹奏楽部の列に向かう。
はるかは部員たちに謝っているようだったが、むしろ拍手で労われていた。

「日坂」

視線を千景に戻すと、相変わらず感情の読めない顔をしていた。

「月城さん、少しつらそうだから行ってあげたら?」
「え?」
「開会式のあと、心配してたでしょう」

──一体この男はどこから、どこまで見ているのか。

うだるような暑さに眩暈がした。
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